大正初恋浪漫譚ー陸軍少尉と婚約は突然にー
自分と話すときの千紘は、いつも穏やかだった。
幼い頃から、優しかった。
けれど、あのような眼差しを向けられたことは、一度もなかった。
「……そうなのですね」
誰に聞かせるでもなく、綾子は呟いた。
千紘は変わってしまったのではない。
自分の知らないところで、誰かに向ける表情を見つけたのだ。
その相手が、小春なのだろう。
綾子は膝の上の本を閉じた。
幼い頃、涙をこらえきれずにいた自分のそばに、千紘は黙って座っていてくれた。
あのときの温かさを、今でも覚えている。
だからこそ、彼が誰かを大切にする気持ちを、軽んじることなどできなかった。
…小春は、よい人なのだと思う。
明るくて、まっすぐで、誰かのために一生懸命になれる人。
千紘が心を寄せるのも、わかるような気がした。
――それでも。
綾子は胸の前で、そっと両手を重ねた。
わかることと、諦められることは、同じではなかった。
千紘の隣に立つ自分を、長いあいだ思い描いてきた。
いつか、彼が自分を選んでくれるのではないかと。
その願いを、まだ手放すことができない。
「千紘さん……」
口にした名前は、いつもと同じ響きだった。
けれど、誰もいない部屋に落ちたその声は、ひどく寂しく聞こえた。
窓の外では、初夏の風が木々を揺らしていた。
季節は少しずつ進んでいく。
それなのに、綾子の心だけは、あの日の記憶のそばに取り残されたままだった。