大正初恋浪漫譚ー軍人少尉と婚約は突然にー
第四章 花嫁修行のはじまり
まだ春の陽射しが、障子越しに柔らかく差し込んでいた。
小春は鏡台の前に腰を下ろし、膝の上に重ねた両手をじっと見つめていた。
今日から、葛城家での暮らしが始まる。
そう思うたび、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなるのだった。
婚約が決まった日のことは、まだ鮮やかに覚えている。
父から告げられた話に驚き、戸惑い、それでも最後には、自分の口で承諾の返事をした。
葛城千紘少尉。
名を思い浮かべると、あの日、まっすぐに自分を見つめていた彼の眼差しが蘇る。
物静かで、礼儀正しく、どこか近寄りがたいところのある人。
けれど、あの眼差しには、不思議と人を突き放すような冷たさはなかった。
――これから、あの人と暮らすのね。
そこまで考えた途端、小春は一人で頬を熱くした。
「いけない。朝から何を考えているの」
誰に聞かせるでもなく呟き、鏡の中の自分を見つめる。
まだ恋をしているとは思わない。
ただ、あの方のことを、もう少し知ってみたい。
婚約者となったのだから、それくらいは許されるだろう。
そう自分に言い聞かせ、小春はそっと息を吐いた。
「お嬢様、お支度はよろしゅうございますか」
襖の向こうから、ばあやの声がした。
「ええ、もう大丈夫よ」
返事をして立ち上がると、小春は一度だけ部屋を振り返った。
生まれてから今日まで、ずっと暮らしてきた家。
これからは今までと違う日々が始まるのだ。
少しの寂しさと、それ以上の緊張を胸に、小春は廊下へと踏み出した。
春のまだ涼しい風が、開け放たれた窓から静かに吹き込んでいた。
その風が運んでくるのは、まだ見ぬ暮らしの始まりだった。