大正初恋浪漫譚ー陸軍少尉と婚約は突然にー
「母上、小春さんはこちらに?」
襖の向こうから、千紘の声がした。
「あら、ちょうどよかったわ。千紘、こちらへいらっしゃい」
千紘が部屋に入ってくる。
小春は、思わず姿勢を正した。
「少尉」
「小春さん。お稽古は終わったのですか?」
「はい。今は、お母様とお茶をいただいておりました」
小春が答えると、母は何食わぬ顔で付け加えた。
「ちょうど、あなたが幼い頃のお話をしていたところなのよ」
千紘の足が止まった。
「……母上」
「あら、いけなかったかしら?」
「いけないというわけではありませんが……」
千紘は、わずかに目を伏せた。
小春は、その様子を見て、つい微笑んでしまった。
「少尉は、昔からお優しかったのですね」
「……と、おっしゃいますと?」
「お母様から、小鳥を助けたときのお話を伺ったのです」
千紘は一瞬、何かを言いかけて、口を閉じた。
「……そのような、大したことではありません」
「いいえ。私は、とても素敵だと思います」
小春は、まっすぐに千紘を見つめた。
「小さな命を大切になさるところも、心配でずっとそばについていらしたところも。少尉の優しさが伝わってくるようでした」
千紘は黙り込んだ。
ほんの一瞬、視線が泳ぐ。
それから、いつもの落ち着いた表情を取り戻そうとするように、静かに咳払いをした。
「……そのように言っていただくほどのことではございません」
「あら。千紘、照れているの?」
「母上」
たしなめる声に、母がくすくすと笑う。
小春も、つられて笑ってしまった。
「ふふっ。申し訳ありません。でも、本当にそう思ったのです」
「……ありがとうございます」
千紘は、少しだけ声を落として答えた。
その耳が、かすかに赤くなっていることに、小春は気づかなかった。
ただ、千紘がいつもより困ったような顔をしているのが、少し不思議だった。