大正恋慕物語

第三章:氷菓子と、不機嫌な背中

お祭りの夜から数日後。帝都はうだるような本格的な夏を迎えていた。
その日、私は馨様に頼まれた洋書を探しに、神田の古書店街へ足を運んでいた。お目当ての本をやっと見つけ、汗を拭いながら歩いていると、小さい頃からの幼なじみである正臣(まさおみ)くんに偶然再会したのだ。今は早稲田の大学に通っているという彼は、昔と変わらず快活で、私の身の上を心から心配してくれた。
「へえ、麻布の貿易商のところで翻訳の手伝いを。つむぎは昔から英語が得意だったもんな」
「うん。とても良くしていただいているの」
「よかった。……あ、あそこに新しくできたミルクホールがあるんだ。少し涼んでいかないか? 奢るよ」
断るのも悪く、私は正臣くんと店に入り、白くて冷たい氷菓子を突きながら、ひとしきり昔話に花を咲かせた。それが、ほんのささやかな休息のつもりだったのだけれど――。
「ただいま戻りました、馨様。ご指定の書籍、無事に見つかりました」
夕方、蓮見邸に戻り、書斎のドアを叩く。
いつもならすぐに「お帰り」と柔らかい声が返ってくるはずなのに、中からは「……入りなさい」と、低く冷ややかな声が聞こえた。
失礼します、と中に入ると、馨様は机に向かったまま、こちらを見ようともしない。熱心に書類に万年筆を走らせているけれど、その筆先が心なしかいつもより手荒で、紙に引っかかる音が静かな部屋に響いている。
「あの……馨様? どこかお加減でも悪いのですか?」
「いや。別に」
素っ気ない返事。あからさまに不機嫌なその背中に、私は戸惑うばかりだった。
「書籍はそこに置いておいてくれ。……それから、ずいぶんと帰りが遅かったじゃないか。本を探すのに、そんなに時間がかかったのかい」
「あ、申し訳ありません。実は、古書店の帰りに友人に偶然会いまして……その、少しだけミルクホールで話を……」
カツン! と、激しい音が書斎に響いた。
馨様が万年筆を机に叩きつけるように置いたのだ。驚いて肩をすくめる私を、馨様は椅子を回し、鋭い視線で真っ直ぐに見据えた。その琥珀色の瞳は、心なしか暗く濁っているように見える。
「友人? ……男だろう」
「えっ? あ、はい、正臣くんという、昔からの……」
「……正臣、くん」
馨様は私の言葉をなぞるように呟くと、ふいっと顔を背けた。美しいはずの端正な顔が、まるで子供のように不満げに歪んでいる。
「ふん……。ずいぶんと親しげに呼ぶんだね。私には頑なに『様』をつけて、一歩も二歩も引いた態度をとるくせに。その男とは、楽しそうに笑い合って氷菓子を食べていたじゃないか」
「え……? 馨様、見ていらしたのですか!?」
「たまたま、車で通りかかっただけだ!」
馨様は立ち上がり、大股で私に近づいてきた。いつも冷静沈着な彼が、明らかに動揺して、耳の裏まで真っ赤に染めている。
「私は……面白くない」
馨様は私の目の前で立ち止まると、もどかしそうに自分の髪をくしゃりと掻き回した。いつもの完璧な横分けの髪が少し崩れ、前髪が額にかかる。その姿が、なんだかとても不器用で、年相応に見えて私の胸を突いた。
「君が他の男と楽しげにしているのを見るのが、こんなに不愉快だなんて思わなかった。……私だって、君と氷菓子ぐらい食べに行きたい。君がそんな風に、心を許して名前を呼ぶ相手になりたい……っ」
一気にまくしたてた後、馨様はハッと我に返ったように言葉を詰まらせた。
自分の大人げない嫉妬を口にしてしまった恥ずかしさからか、彼は大きな手で顔を覆い、深くため息をつく。
「……すまない。酷い言いがかりだ。忘れてくれ」
背を向けて去ろうとする馨様の背中。
いつもなら、使用人としてここで引き下がるのが正解のはずだった。けれど、彼のあまりの必死さと、その不器用な愛おしさに、私の身体は考えるより先に動いていた。
ツン、と。
馨様の浴衣の袖を、指先で小さく摘まむ。
「……つむぎ?」
驚いて振り返る馨様に、私は真っ赤になりながらも、上目遣いで精一杯の言葉を紡いだ。
「正臣くんは、ただの幼馴染です。……それに、私は、馨様と行くお祭りの方が、ずっと、ずっと緊張して、胸が苦しくなるくらい……嬉しかったです」
馨様の琥珀色の瞳が、驚きで大きく見開かれる。
次の瞬間、彼は観念したようにふっと弱々しく笑うと、私の手を引き、その大きな身体で私を包み込むように強く抱きしめた。
「……本当に、君の前では格好がつかないな」
耳元で聞こえる馨様の心臓の音が、私のものと同じくらい、速く激しく脈打っていた。
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