雨が止むまで、君はここにいて

第三章 窓際の少女

第三章 窓際の少女

 雨が降らない日が続くようになると、朝倉悠人は自分でも不思議に思うほど頻繁に空を見上げるようになった。

 以前なら天気予報を確認するのは洗濯物を干す時か、出かける予定がある時くらいだったが、今では朝起きてカーテンを開けるたび、青空の向こうに雨雲の気配がないか探してしまう。

 もちろん、雨が降ったからといって必ずあの喫茶店へ行けるわけではないし、毎日のように訪ねるのも迷惑かもしれないと思っていたが、それでも商店街の奥に灯る温かな光を思い出すだけで、何となく気持ちが落ち着くのだった。

 最後に喫茶「雨宿り」を訪れてから、ちょうど一週間が経とうとしていた。

 その間、悠人の生活には小さな変化がいくつかあった。

 途中で止まっていた履歴書を完成させ、以前から気になっていた会社へ応募したこと。

 長い間放置していた部屋の片づけを終え、窓際に小さな観葉植物を置いたこと。

 そして何より、会社を辞めて以来ほとんど連絡を取っていなかった佐久間亮介と、久しぶりに食事へ行く約束をしたことだった。

 どれも他人から見れば大した出来事ではないのかもしれないが、悠人にとっては、止まっていた時間が少しずつ動き始めているように感じられる出来事だった。

 それでも、すべてが順調というわけではなかった。

 応募した会社からはまだ返事がなく、夜になると将来への不安が胸を締めつけることもあったし、以前の職場で失敗した場面を思い出して、眠れなくなる日もあった。

 何かを始めようとするたび、どうせまた失敗するのではないかという考えが頭をよぎり、せっかく取り戻しかけた自信が簡単に揺らいでしまう。

 そんな時、悠人は喫茶店で雨宮から言われた言葉を思い出した。

 結果が出なかったことと、そこまでの時間に意味がなかったことは同じではない。

 その言葉を思い出したからといって、すぐに前向きになれるわけではなかったが、少なくとも自分を責め続ける時間は以前より少なくなっていた。

 そして、もう一つ。

 悠人には、どうしても気になっていることがあった。

 雨宮雫。

 あの喫茶店の窓際で、いつも本を読んでいる少女だった。

 年齢は高校生くらいに見えたが、学校へ通っている様子はなく、雨の日にしか現れない喫茶店で、まるで何かを待ち続けているように窓の外を眺めていた。

 彼女はなぜ、あの店にいるのだろう。

 雨宮と同じ名字でありながら、家族ではないと言っていたことも気になっていた。

 そして何より、初めて名前で呼んだ時に見せた、あの驚いたような表情。

 まるで、ずっと昔から自分のことを知っているかのような反応だった。

 悠人はその理由を考えるたび、幼い頃の記憶に浮かんだ女性の声を思い出していた。

『悠人、こっちにおいで』

 あの声の主は、いったい誰だったのだろう。

 母親の声だったのかもしれないと思い、数日前に実家へ電話をかけようとしたこともあったが、結局、発信ボタンを押すことはできなかった。

 両親とは決して仲が悪いわけではないものの、社会人になってからは仕事の忙しさを理由に連絡する機会が減り、特に父親とは必要最低限の会話しかしなくなっていた。

 今さら子供の頃のことを尋ねるのも妙な気がしたし、何より仕事を辞めたことをまだ伝えていないため、電話をすればその話を避けられないだろうと思っていた。

 悠人はスマートフォンをテーブルへ置き、窓の外へ目を向けた。

 空には薄い灰色の雲が広がっている。

 天気予報では、夕方から雨になるらしい。

 その予報を確認した時、悠人は自然と小さく笑っていた。

     *

 午後五時を過ぎた頃、街には細かな雨が降り始めた。

 悠人は紺色の傘を差し、駅前の商店街へ向かった。

 雨の日の街には、晴れた日とは違う表情がある。

 濡れたアスファルトに信号の光が反射し、店先の看板から落ちる雫が小さな水たまりへ波紋を広げていく。

 以前なら気にも留めなかったそんな景色を眺めながら歩いていると、同じ道であっても少しだけ違う場所へ来たような気がした。

 商店街の奥へ進むと、あの細い路地が現れた。

 今では驚くことも少なくなっていたが、昨日まで建物が並んでいたはずの場所に道が伸びている光景を見ると、やはり現実感が薄れてしまう。

 悠人は路地へ足を踏み入れ、濡れた石畳をゆっくり歩いた。

 奥には、いつもの温かな灯りが見えている。

 木製の扉の上に掛けられた真鍮の看板。

『喫茶 雨宿り』

 そして、その下には小さな札が揺れていた。

『本日は営業しております』

 悠人は傘を畳み、扉を開いた。

 澄んだベルの音が響き、珈琲の香りがふわりと広がる。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から、雨宮の穏やかな声が聞こえた。

「こんばんは、雨宮さん」

「朝倉さん。お待ちしておりました」

 悠人は少し驚いた。

「待ってたんですか」

 雨宮は小さく微笑んだ。

「そろそろ雨が降れば、またいらっしゃるのではないかと思っていましたので」

 悠人は思わず笑った。

「そんなに分かりやすいですかね」

「いえ。ただ、前回お帰りになる時、また来たいと思ってくださっているように見えましたから」

 雨宮はそう言って、いつものように席を勧めた。

 悠人は店内を見渡した。

 壁際のテーブルには年配の女性が一人座っており、小さな手帳を開きながら紅茶を飲んでいる。

 カウンターには客の姿がなく、窓際の一番奥には、やはり雫がいた。

 彼女は今日も制服姿で、膝の上に本を広げている。

 しかし、いつもと少し違うことがあった。

 雫は本を読んでいなかった。

 開いたページへ視線を落としているものの、その目は文字を追っておらず、何か遠いことを考えているように見えた。

 悠人が近づくと、雫はゆっくり顔を上げた。

「……こんばんは」

「こんばんは」

 悠人は軽く手を上げた。

「また来ちゃった」

 雫は少しだけ微笑んだ。

「来ると思ってました」

「みんな同じこと言うんだね」

 悠人が笑うと、雫も小さく笑った。

 その笑顔を見た時、悠人は何となく安心した。

 前回の別れ際に見せた寂しそうな表情が、ずっと気になっていたからだ。

「今日は、こっちに座ってもいい?」

 悠人が窓際の向かいの席を指さすと、雫は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

「……ここですか」

「うん。嫌だったら別の席にするけど」

 雫は慌てて首を横に振った。

「嫌じゃないです」

 そして、少しだけ視線を落とした。

「……ただ、誰かがここに座るのは、久しぶりなので」

 悠人は首を傾げた。

「いつも一人なの?」

 雫はゆっくり頷いた。

「はい」

 その答えには、どこか寂しさが混じっていた。

 悠人はそれ以上尋ねず、向かいの椅子へ腰を下ろした。

 窓の外には、雨に濡れた路地が広がっている。

 いつも入口近くの席から見ていた景色とは違い、窓際から眺める雨は、まるで一枚の絵画のように美しかった。

「ここ、いい席だね」

 悠人が呟くと、雫は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「……私も、そう思います」

     *

 雨宮が注文を取りに来ると、悠人はいつものブレンド珈琲を頼んだ。

 雫の前には白いカップが置かれていたが、中身は珈琲ではなく、淡い琥珀色の紅茶だった。

「雫は珈琲飲まないの?」

 悠人が尋ねると、雫は首を横に振った。

「嫌いではないですけど、紅茶の方が好きなので」

「そうなんだ。雨宮さんの店なのに、珈琲じゃないんだね」

 雫は少しだけ笑った。

「雨宮さんは、紅茶も上手なんですよ」

 カウンターから雨宮の声が聞こえた。

「ありがとうございます、雫さん」

 悠人はそのやり取りを見ながら、二人の関係がますます分からなくなった。

 同じ名字でありながら家族ではなく、雨宮は雫を「雫さん」と呼んでいる。

 親戚というより、長い付き合いのある知人同士のようにも見えたが、二人の間にはそれ以上の親しさが感じられた。

 悠人は少し迷ったあと、雫へ尋ねた。

「そういえば、雫って学校は?」

 雫の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。

 ほんの一瞬のことだったが、悠人にはその変化がはっきりと分かった。

「……学校、ですか」

「うん。制服着てるから高校生かなって思ってたんだけど」

 雫は少しだけ視線を落とした。

「……そうですね」

 曖昧な答えだった。

 悠人は慌てて付け加えた。

「別に答えたくなかったらいいよ。何となく気になっただけだから」

 雫は小さく首を横に振った。

「大丈夫です」

 そして、窓の外へ視線を向けた。

「……昔は、通っていました」

 悠人は眉を寄せた。

「昔?」

「はい」

 雫はそれ以上説明しなかった。

 悠人は少し考えたが、深く尋ねるのをやめた。

 誰にでも話したくない事情はある。

 自分だって、仕事を辞めたことを知らない人へ話すのには勇気が必要だったのだから、雫にも簡単には口にできないことがあるのかもしれない。

 そんなことを考えていると、雫が静かに尋ねてきた。

「悠人さんは、学校が好きでしたか」

 悠人は少し驚いた。

「俺?」

「はい」

「どうだろう。嫌いじゃなかったけど、特別好きだったわけでもないかな」

 悠人は昔を思い出した。

 高校時代は部活動に夢中で、友人たちとくだらない話をしながら帰る時間が何より楽しかった。

 授業が終わるとすぐに部室へ向かい、休日もほとんど練習に費やしていたため、今思えば随分と忙しい学生生活だったように思う。

「でも、戻れるなら戻ってみたいかも」

 悠人がそう言うと、雫は少しだけ顔を上げた。

「……どうしてですか」

「今より、いろんなことを気にしなくてよかったからかな」

 悠人は苦笑した。

「もちろん当時は当時で悩みもあったけど、社会人になってから思うと、あの頃は毎日が楽しかったなって」

 雫は黙って聞いていた。

「友達と帰り道に寄り道したり、試験前に慌てて勉強したり、文化祭の準備で遅くまで学校に残ったり……そういう普通のことが、今になってすごく懐かしいんだよね」

 悠人がそう言うと、雫はゆっくり目を伏せた。

「……いいですね」

 その声が、思いのほか寂しく聞こえた。

 悠人は少し戸惑った。

「雫は、そういう思い出ないの?」

 雫は答えるまでに少し時間をかけた。

「……ありますよ」

 そして、静かに微笑んだ。

「ただ、もう少し大切にしておけばよかったと思うことが、たくさんあります」

 悠人はその言葉を聞いて、何も言えなくなった。

 雫はまだ高校生くらいに見える。

 それなのに、まるで何十年も昔の出来事を振り返っているような話し方だった。

 悠人は何となく気になったが、それ以上は尋ねなかった。

     *

 珈琲が運ばれてくると、二人の会話は少しずつ自然なものになっていった。

 雫が読んでいる本の話。

 悠人が最近始めた料理の話。

 雨の日に好きな音楽を聴くことや、昔読んだ小説のこと。

 雫は最初こそ控えめに答えていたものの、話が進むにつれて少しずつ表情が柔らかくなり、時折楽しそうに笑うようになった。

 悠人はそんな雫を見ながら、彼女が決して無口なわけではないことに気づいた。

 むしろ、自分の好きなことについて話す時には、年相応の明るさを見せる少女だった。

「雫は、どんな本が好きなの?」

 悠人が尋ねると、雫は膝の上の本を見つめた。

「……いろいろ読みますけど、昔の小説が好きです」

「へえ。例えば?」

「誰かが遠くへ旅に出たり、長い時間をかけて大切な人に会いに行ったりするお話です」

 悠人は笑った。

「結構、ロマンチックなんだね」

 雫は少しだけ頬を緩めた。

「そうでしょうか」

「うん。何となく、もっと難しい本を読んでるのかと思ってた」

「難しい本も読みますよ」

 雫は少しだけ得意そうに答えた。

「でも、最後に誰かが帰ってくるお話の方が好きです」

 悠人は首を傾げた。

「帰ってくる話?」

「はい。どんなに遠くへ行っても、最後には帰る場所があるようなお話です」

 雫は窓の外へ視線を向けた。

「……そういうお話を読むと、少し安心するんです」

 悠人は黙って聞いていた。

 帰る場所。

 その言葉を聞いた時、ふと自分の部屋を思い出した。

 仕事を辞めた日の夜、誰もいない部屋へ帰ることが嫌で、雨の中を歩き続けていた。

 あの時は、自分には帰る場所がないような気がしていた。

 もちろん、住む部屋はあった。

 けれど、そこに帰っても誰かが待っているわけではなく、今日あったことを話す相手もいない。

 そんな場所を、本当に帰る場所と呼べるのだろうか。

 悠人はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。

「……俺も、そういう話好きかもしれない」

 雫が顔を上げた。

「本当ですか」

「うん。最近、帰る場所って何だろうなって考えることがあるから」

 雫は少しだけ首を傾げた。

「……帰る場所?」

「そう。家はあるけど、そこに帰りたいかって聞かれると、よく分からなくて」

 悠人は苦笑した。

「変な話だよね」

 雫は首を横に振った。

「変じゃないです」

 その声は、思いのほか真剣だった。

「帰る場所って、建物のことだけじゃないと思います」

 悠人は顔を上げた。

 雫は窓の外を見つめながら続けた。

「誰かが待っていてくれる場所だったり、自分が安心できる場所だったり、何も話さなくても、そこにいていいと思える場所だったり……そういうものも、帰る場所なんじゃないでしょうか」

 悠人は何も言えなかった。

 雫の言葉は、静かに胸へ染み込んでいった。

「……雫にとっては、ここがそうなの?」

 悠人が尋ねると、雫は少しだけ目を細めた。

「……そうですね」

 そして、小さく微笑んだ。

「ここは、私の帰る場所です」

     *

 午後七時を過ぎた頃、壁際に座っていた年配の女性が帰っていった。

 店内には悠人と雫、そしてカウンターの雨宮だけが残された。

 雨は相変わらず降り続いていたが、昼間よりも少し弱まり、窓ガラスを伝う雫がゆっくりと落ちていく。

 悠人は珈琲を飲みながら、雫の膝の上に置かれた本へ目を向けた。

 古びた深緑色の表紙。

 金色の文字で題名が記されていたが、長い年月のせいか、ところどころが擦れて読みにくくなっている。

「その本、いつも読んでるよね」

 悠人が尋ねると、雫は少しだけ驚いたように顔を上げた。

「……気づいてたんですか」

「うん。最初に来た時から、ずっと同じ本だった気がする」

 雫は表紙へ視線を落とした。

「……大切な本なんです」

「誰かにもらったの?」

 雫は小さく頷いた。

「はい」

「どんな人?」

 雫は答えなかった。

 しばらく表紙を見つめたあと、静かに口を開いた。

「……約束をした人です」

 悠人は首を傾げた。

「約束?」

「はい」

 雫はゆっくり本を開いた。

 最初のページには、古いインクで短い文章が記されていた。

『雨が止んでも、また会いに来る』

 悠人はその文字を見つめた。

 随分と昔に書かれたものらしく、インクは少し色褪せていたが、一文字ずつ丁寧に書かれていることが分かった。

「……いい言葉だね」

 悠人がそう言うと、雫は小さく微笑んだ。

「そうですね」

 しかし、その笑顔はどこか寂しそうだった。

「その人、まだ来てないの?」

 悠人が尋ねると、雫は静かに頷いた。

「……はい」

「そっか」

 悠人は少し考えたあと、何気なく尋ねた。

「いつから待ってるの?」

 雫は答えなかった。

 窓の外へ視線を向け、しばらく雨を見つめていた。

 そして、ほとんど聞こえないほど小さな声で答えた。

「……ずっと前からです」

 悠人は何も言えなかった。

 その言葉には、簡単に踏み込んではいけないような重みがあった。

 雫は本を閉じ、膝の上へ置いた。

「でも、待つのは嫌いじゃないんです」

 悠人は顔を上げた。

「そうなの?」

「はい」

 雫は少しだけ微笑んだ。

「待っている間は、まだ会えるかもしれないと思えるから」

 悠人はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

 誰かを待つということは、その人が来るかもしれないという希望を持ち続けることなのだろう。

 けれど、待ち続ける時間が長くなればなるほど、その希望は時に寂しさへ変わってしまうのではないだろうか。

 悠人は雫の横顔を見つめた。

 窓から差し込む街灯の光が、彼女の頬を柔らかく照らしている。

 その表情は穏やかだったが、どこか遠い場所を見つめているようにも見えた。

「……その人、来るといいね」

 悠人が静かに言うと、雫は少しだけ目を見開いた。

 そして、ゆっくりと微笑んだ。

「……ありがとうございます」

     *

 それからしばらく、二人は言葉を交わさずに雨を眺めていた。

 不思議なことに、沈黙が気まずいとは感じなかった。

 むしろ、誰かと同じ景色を眺めながら何も話さずに過ごす時間が、こんなにも心地よいものだったのかと悠人は驚いていた。

 会社に勤めていた頃は、誰かと一緒にいる時には何か話さなければならないと思っていた。

 会話が途切れると落ち着かず、相手が退屈しているのではないかと気になってしまう。

 けれど雫は、沈黙を気にする様子もなく、時折紅茶を飲みながら静かに雨を見つめている。

 その姿を見ているうちに、悠人も自然と肩の力が抜けていった。

 やがて雫が、ぽつりと呟いた。

「……悠人さんは、最近どうですか」

 悠人は顔を上げた。

「最近?」

「はい。前に来た時、履歴書の続きを書くって言ってたでしょう」

 悠人は少し驚いた。

「覚えてたんだ」

「もちろんです」

 雫は小さく笑った。

「それで、書けましたか」

「うん。ちゃんと完成させたよ」

 雫の表情が明るくなった。

「よかったですね」

「ありがとう。まだ返事は来てないけど、とりあえず一社応募してみた」

 悠人は少しだけ苦笑した。

「まあ、受かるかどうかは分からないけどね」

 雫は静かに頷いた。

「でも、応募できたんですよね」

「うん」

「それなら、前より進んでると思います」

 悠人は少しだけ笑った。

「雨宮さんみたいなこと言うね」

 雫は首を傾げた。

「そうですか」

「うん。あの人も、結果だけが全部じゃないって言ってたから」

 雫は少しだけ目を細めた。

「……雨宮さんは、そういう人です」

 悠人は頷いた。

「いい人だよね」

「はい」

 雫は静かに微笑んだ。

「とても、優しい人です」

 その声には、深い信頼が込められていた。

 悠人はふと気になって尋ねた。

「雫は、雨宮さんと長い付き合いなの?」

 雫は少しだけ考えたあと、頷いた。

「……はい」

「どのくらい?」

 雫は答えるまでに少し時間をかけた。

「……覚えていないくらい、長いです」

 悠人は思わず笑った。

「高校生くらいなのに?」

 雫は小さく微笑んだ。

「そうですね」

 それ以上は何も言わなかった。

 悠人は少しだけ不思議に思ったが、深く考えないことにした。

 この店には、普通では説明できないことがいくつもある。

 雫のことも、きっとその一つなのだろう。

     *

 午後八時を過ぎた頃、雨宮が新しい紅茶を運んできた。

 雫の前にカップを置き、悠人の珈琲を確認する。

「朝倉さん、おかわりはいかがですか」

 悠人は少し迷ったあと、頷いた。

「じゃあ、もう一杯お願いします」

「かしこまりました」

 雨宮は穏やかに微笑み、カウンターへ戻っていった。

 悠人はふと、雫の前に置かれた紅茶を見つめた。

 カップからは細い湯気が立ち上っている。

 しかし、雫はほとんど口をつけていなかった。

「……雫」

「はい」

「その紅茶、冷めないの?」

 雫は少しだけ目を細めた。

「……どうしてですか」

「いや、前に珈琲が冷めなかったから。紅茶もそうなのかなって」

 雫はカップを見つめた。

「……そうですね」

 そして、静かに答えた。

「私の紅茶は、いつも温かいままです」

 悠人は眉を寄せた。

「それって、何か意味があるの?」

 雫はすぐには答えなかった。

 代わりに、窓の外へ視線を向けた。

「……悠人さん」

「何?」

「もし、ずっと待っている人がいたとして」

 雫はゆっくり言葉を選びながら続けた。

「その人が来るまで、時間が止まっていたら……それは、幸せなことだと思いますか」

 悠人は少し考えた。

「時間が止まる?」

「はい」

「うーん……どうだろう」

 悠人は窓の外を見つめた。

「最初は、いいことかもしれないね。待ってる間に年を取らないし、ずっと同じ場所にいられるから」

 雫は黙って聞いていた。

「でも、ずっと止まったままだったら、ちょっと寂しいかもしれない」

 雫の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。

「……どうしてですか」

 悠人は少し考えたあと、静かに答えた。

「だって、待ってる人が来たとしても、そのあと一緒に時間を進められないなら、何だかもったいない気がするから」

 雫は何も言わなかった。

 悠人は続けた。

「せっかく会えたなら、そこから新しい思い出を作りたいじゃん。昔の話をするだけじゃなくて、これからの話もしたいし」

 雫はゆっくり顔を上げた。

 その瞳には、何か言いかけているような迷いが浮かんでいた。

「……これからの、話」

「うん」

 悠人は小さく笑った。

「俺も、最近ようやくそう思えるようになったから」

 雫はしばらく悠人を見つめていた。

 そして、ゆっくり視線を落とした。

「……そうですね」

 その声は、ほんの少し震えているように聞こえた。

「……私も、そう思います」

     *

 雨が弱まり始めたのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 窓ガラスを伝う雫が少なくなり、路地の奥に広がっていた雨の幕が少しずつ薄れていく。

 悠人は時計を確認した。

 そろそろ帰る時間だろう。

 しかし、今日は何となく席を立つのが惜しかった。

 雫と話している時間が、思っていた以上に楽しかったからだ。

 悠人はカップを置き、窓の外へ視線を向けた。

「……もうすぐ止みそうだね」

 雫は静かに頷いた。

「はい」

「今日も、いろいろ話せてよかった」

 悠人がそう言うと、雫は少しだけ微笑んだ。

「私もです」

 そして、少し迷ったあと、静かに続けた。

「……悠人さん」

「何?」

「また、ここに来てくれますか」

 悠人は思わず笑った。

「もちろん。雨が降ったら、また来るよ」

 雫は小さく頷いた。

「……約束ですよ」

 その言葉を聞いた瞬間、悠人は少しだけ驚いた。

 約束。

 雫が大切にしている本にも、同じ言葉が書かれていた。

『雨が止んでも、また会いに来る』

 悠人は何となく気になったが、今は深く考えずに頷いた。

「うん。約束」

 雫は静かに微笑んだ。

 その笑顔は、今日見た中で一番穏やかなものだった。

     *

 雨が完全に止んだのは、午後九時半を少し過ぎた頃だった。

 悠人は会計を済ませ、入口で雨宮へ頭を下げた。

「今日もありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 雨宮は穏やかに微笑んだ。

「今日は、雫さんと随分楽しそうにお話しされていましたね」

 悠人は少し照れくさくなり、苦笑した。

「そうですね。何か、話しやすくて」

「それはよかったです」

 雨宮は静かに頷いた。

「雫さんも、久しぶりに楽しそうでした」

 悠人は少し驚いた。

「そうなんですか」

「ええ」

 雨宮は窓際へ視線を向けた。

 雫は本を閉じ、こちらを見つめている。

 悠人が軽く手を振ると、雫も小さく手を振り返した。

 その姿を見て、悠人は自然と笑みを浮かべた。

「……また来ます」

「お待ちしております」

 雨宮は穏やかに微笑んだ。

 悠人は扉を開き、雨上がりの路地へ足を踏み出した。

 濡れた石畳には街灯の光が反射し、夜の空気には雨の匂いが残っている。

 悠人は傘を持ったまま、ゆっくり商店街へ向かった。

 そして、路地を抜ける直前、ふと振り返った。

 喫茶店の窓際には、雫の姿が見えた。

 彼女はいつもの席に座り、静かにこちらを見つめている。

 悠人はもう一度、小さく手を振った。

 雫も、ゆっくり手を振り返した。

 その姿が妙に胸に残った。

 まるで、遠い昔にも同じような別れを経験したことがあるような、不思議な懐かしさを覚えたからだ。

 しかし、その感覚の正体を確かめる前に、喫茶店の灯りは少しずつ薄れていった。

 雨が止んだ夜の街から、店が静かに消えていく。

 悠人はその光景を見届けると、ゆっくり帰り道を歩き始めた。

     *

 喫茶店の灯りが消えたあとも、雫はしばらく窓際の席に座っていた。

 膝の上には、いつもの深緑色の本が置かれている。

 雨宮はカウンターを片づけながら、静かに声をかけた。

「今日は、楽しそうでしたね」

 雫は少しだけ顔を上げた。

「……はい」

「久しぶりに、あんなにお話しされているところを見ました」

 雫は小さく微笑んだ。

「……私も、久しぶりでした」

 雨宮は穏やかに頷いた。

 しばらく沈黙が流れたあと、雫が静かに口を開いた。

「……雨宮さん」

「はい」

「悠人さんは、本当に何も覚えていないんですね」

 雨宮は手を止めた。

「……ええ」

 雫は本の表紙を見つめた。

「今日、昔のことを少し話したんです」

「そうでしたか」

「学校のこととか、帰る場所のこととか……」

 雫は少しだけ笑った。

「悠人さん、昔と同じことを言っていました」

 雨宮は静かに雫を見つめた。

「……どんなことですか」

 雫はゆっくり顔を上げた。

「待っている人が来たら、そのあと一緒に新しい思い出を作りたいって」

 雨宮は何も言わなかった。

 雫は本を開いた。

 最初のページには、古い文字で短い約束が記されている。

『雨が止んでも、また会いに来る』

 雫はその文字を指先でなぞった。

「……あの時も、同じようなことを言ってくれたんです」

 雨宮は静かに頷いた。

「覚えていますよ」

 雫は少しだけ目を伏せた。

「でも、悠人さんは覚えていない」

「……そうですね」

 雫は本を閉じた。

「……それでも、いいんでしょうか」

 雨宮はすぐには答えなかった。

 代わりに、窓の外へ視線を向けた。

 そこには、こちらの世界で降り続く静かな雨が広がっている。

「雫さん」

 雨宮は穏やかに口を開いた。

「人は、忘れてしまった約束を、もう一度結ぶこともできるんですよ」

 雫は顔を上げた。

「……もう一度?」

「ええ」

 雨宮は静かに微笑んだ。

「たとえ昔のことを覚えていなくても、今の気持ちが本物なら、それで十分なこともあります」

 雫はしばらく黙っていた。

 そして、小さく頷いた。

「……そうですね」

 雨宮は穏やかに微笑んだ。

「それに、朝倉さんは少しずつ変わっていらっしゃいます」

「はい」

 雫は静かに答えた。

「最初に来た時より、ずっとよく笑うようになりました」

 雨宮は頷いた。

「それは、いいことですね」

 雫は窓の外を見つめた。

「……私も、そう思います」

 その声には、確かな温かさがあった。

     *

 しばらくして、雨宮がカウンターの奥へ戻ると、雫は一人で本を開いた。

 深緑色の表紙。

 長い年月を経て色褪せたページ。

 その最初のページには、先ほど悠人に見せた約束の言葉が記されている。

『雨が止んでも、また会いに来る』

 雫はその文字を見つめながら、静かにページをめくった。

 すると、次のページには一枚の小さな写真が挟まっていた。

 古い喫茶店の窓際。

 そこには、まだ幼い男の子と、一人の少女が並んで座っている。

 男の子は二歳ほどだろうか。

 小さな手で白いカップを持ち、隣に座る少女へ笑いかけていた。

 少女は、その男の子の頭を優しく撫でている。

 雫は写真を手に取った。

 そして、ゆっくり指先で男の子の顔をなぞった。

「……悠人」

 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 雫は写真を裏返した。

 そこには、古い文字で日付が記されていた。

『昭和六十二年六月十二日』

 そして、その下には短い文章が添えられていた。

『雫へ。悠人が大きくなったら、また一緒に雨を見ようね』

 雫はその文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 やがて、静かに目を閉じた。

 長い年月が過ぎていた。

 あの日から、数えきれないほどの雨が降った。

 季節が変わり、街並みが変わり、あの頃の人々が少しずつ年を重ねていく中で、雫だけは同じ姿のまま、この窓際の席に座り続けていた。

 雨が降るたびに、誰かが扉を開ける音を待ちながら。

 そして、ようやく戻ってきた少年は、もう二十七歳になっていた。

 雫は写真を胸元へ引き寄せ、静かに呟いた。

「……約束、守ってくれたんですね」

 その声には、長い時間をかけてようやく辿り着いた安堵が滲んでいた。

 けれど、次の瞬間、雫の表情がわずかに曇った。

 悠人は、まだ何も覚えていない。

 そして、もしすべてを思い出した時、彼がどんな選択をするのかも分からない。

 雫は写真を本へ戻し、窓の外を見つめた。

 雨は静かに降り続いている。

 その時、カウンターの奥から雨宮の声が聞こえた。

「雫さん」

 雫は顔を上げた。

「……はい」

「そろそろ、お話ししておかなければならないことがあります」

 雫は少しだけ眉を寄せた。

「……何でしょう」

 雨宮は静かに答えた。

「この店に残された時間のことです」

 雫の表情が変わった。

「……もう、そんなに?」

 雨宮は頷いた。

「ええ。思っていたよりも、早いかもしれません」

 雫は何も言えなかった。

 雨宮は窓の外へ視線を向けた。

「朝倉さんが戻ってきたことで、止まっていた時間が少しずつ動き始めています」

 雫は本を強く抱きしめた。

「……それじゃあ」

 雨宮は静かに頷いた。

「このままでは、いつか雨が降っても、店は現れなくなるでしょう」

 雫は唇を結んだ。

 長い間待ち続けてきた人が、ようやく戻ってきた。

 それなのに、その再会が店の終わりにつながっている。

 雫はゆっくり窓の外へ視線を向けた。

 雨は相変わらず降り続いている。

 けれど、その雨音が、いつもより少しだけ遠く聞こえた。

「……雨宮さん」

 雫は静かに尋ねた。

「もし、この店がなくなったら……私は、どうなるんでしょう」

 雨宮はすぐには答えなかった。

 長い沈黙のあと、穏やかな声で言った。

「……それを決めるためにも、朝倉さんには思い出していただかなければならないんです」

 雫は何も言えなかった。

 ただ、膝の上の本を見つめていた。

 その中には、二十年以上前に交わされた一つの約束が残されている。

 そして、誰にも知られていないもう一つの秘密が、まだ静かに眠っていた。

 雨宮はカウンターの奥に置かれた古い帳簿を開いた。

 そこには、これまでこの店を訪れた人々の名前と日付が並んでいる。

 雨宮はゆっくりページをめくり、ある場所で手を止めた。

『朝倉悠人』

 その名前の横には、古い日付が記されていた。

 しかし、雨宮が見つめていたのは、その下に書かれたもう一つの名前だった。

『雨宮雫』

 そして、二人の名前を結ぶように、細い線が引かれている。

 その横には、小さな文字で一文が記されていた。

『再会の日、約束の期限が動き始める』

 雨宮はその文字を見つめながら、静かに目を閉じた。

 窓の外では、雨が降り続いていた。

 何十年も前から、誰かの帰りを待ち続けるように。

 けれど、その雨がいつまでも降り続くわけではないことを、雨宮だけは知っていた。

 そして、雫もまた、少しずつ気づき始めていた。

 長い間待ち続けた再会は、必ずしも幸せな結末だけを運んでくるわけではないのだと。

第三章 窓際の少女 完

――第四章「忘れられた約束」へ続く。
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