さよならを言うために、君がくれた七日間
その夜、千夏はソラのそばを離れなかった。
リビングの床に毛布を敷き、ソラの隣に寝転がる。
いつもなら母に「風邪をひくわよ」と注意されるところだけれど、今夜は何も言われなかった。
母も父も、ソラのそばにいたかったのだろう。
父はソファに腰かけ、昔の写真を一枚ずつ眺めていた。母は温かい飲み物を用意して、時折、ソラの様子を確かめていた。
家族みんなが、同じことを考えていた。
この時間が、いつまでも続いてほしい。
けれど、願うだけでは変えられないものがある。
「ソラ」
千夏は、そっと呼びかけた。
ソラは床に横たわったまま、ゆっくりと目を開けた。
「眠れないの?」
返事の代わりに、尻尾が一度だけ動いた。
「そっか。わたしも」
千夏は小さく笑った。
「ねえ、覚えてる? 初めて会った日」
あの日、千夏は小学一年生だった。
近所の家で生まれた子犬を見に行き、その中の一匹に夢中になった。
ほかの子犬たちが元気よく動き回る中、一匹だけ、千夏の靴に顎を載せて眠っていた。
それがソラだった。
千夏は、その場から離れられなくなった。
家に帰ってからも、ずっとソラのことを話していた。
そして数日後、ソラは水瀬家の家族になった。
「お父さん、最初は犬を飼うのに反対してたんだよね」
「……そうだったな」
父が写真から顔を上げた。
「散歩も世話も、毎日ちゃんとできるのかって言ったんだ」
「でも、最後にはお父さんが一番ソラを甘やかしてた」
「それは……」
父は言い返そうとして、諦めたように笑った。
「否定できないな」
母も笑った。
「お父さん、ソラが少しでも食欲がないと、すぐにおやつを買いに行っていたものね」
「お母さんだって、ソラの誕生日にはごちそうを作ってたじゃない」
「そうね」
母はソラの頭を撫でた。
「みんな、この子が大好きだったのよ」
千夏は目を伏せた。
大好きだった。
その言葉は、過去形で口にするには、あまりにも苦しかった。
だって、今だって大好きなのだ。
ソラがここにいる限り。
そして、いなくなったあとも。
千夏は鞄から銀色の鈴を取り出した。
手のひらに載せると、表面のひびが淡い光を帯びた。
この七日間、何度も不思議なことが起きた。
時間が巻き戻り、忘れていた記憶がよみがえり、もう会えないはずだったソラと、もう一度過ごすことができた。
最初は、ソラを助けるための奇跡だと思った。
何かをすれば未来を変えられる。
あの日、間に合わなかった自分をやり直せる。
そう信じていた。
けれど、今は少し違う。
この時間は、ソラを永遠に引き留めるために与えられたものではないのかもしれない。
言えなかった言葉を伝えるため。
見落としていた幸せを見つけるため。
そして、いつか訪れる別れから、目を背けないため。
「……ありがとう」
千夏が囁いた、そのときだった。
ソラが、ゆっくりと身体を起こそうとした。
「ソラ?」
千夏は慌てて身を寄せた。
けれど、ソラは自分の力で少しだけ顔を上げ、千夏のほうを見た。
そして、千夏の手のひらに鼻先を押しつけた。
いつもの仕草。
何度も、何度も繰り返してきた仕草。
千夏はその意味を考えようとした。
でも、考える必要などなかった。
ソラはずっと、ソラだった。
千夏が泣いているときも、笑っているときも、そばにいてくれた。
言葉がなくても、気持ちは伝わる。
千夏はソラの首に腕を回し、そっと抱きしめた。
「ソラ。聞いてね」
声が震えた。
それでも、今度は最後まで伝えたかった。
「わたしね、ずっと怖かったんだ」
ソラの温もりを感じながら、千夏は続けた。
「ソラがいなくなったら、どうやって毎日を過ごせばいいのかわからなかった。朝起きても、帰ってきても、ソラがいないなんて……そんなの、考えたくなかった」
涙がこぼれた。
「だから、いなくならないでって、何度も思った。お願いだから、ずっとそばにいてって」
千夏は一度、言葉を切った。
胸の奥が痛かった。
けれど、その痛みから逃げずに、言った。
「でもね。ソラがいなくなるのが怖いのは、それだけ、ソラが大切だからなんだよね」
ソラの耳を、ゆっくりと撫でる。
「ソラと出会わなかったら、こんなに幸せな時間も知らなかった。こんなに誰かを大好きになる気持ちも、知らなかった」
千夏は涙を拭った。
「ソラがくれたものは、いなくなったからって、なくなるわけじゃないんだよね」
返事はない。
それでも、千夏は話し続けた。
「わたしが初めて自転車に乗れた日も、学校で友達ができなくて泣いた日も、受験に失敗して落ち込んだ日も。ソラは、ずっとそばにいてくれた」
思い出が、次々とあふれてくる。
雨の日に一緒に窓の外を眺めたこと。
宿題をしていると、ソラが机の下で眠ってしまったこと。
風邪で学校を休んだ日、ベッドの横から離れなかったこと。
何でもない毎日。
けれど、そのひとつひとつが、千夏の人生を形作っていた。
「ソラがいたから、わたしはひとりじゃなかった」
千夏は、ソラの額に自分の額をそっと寄せた。
「だから、今度はわたしが約束するね」
幼い頃、母に告げた言葉を思い出す。
ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。
あの約束を、ずっと守れずにいた。
ソラを失うことが怖くて、笑顔の先にある未来を見ようとしなかった。
けれど、今なら。
「ソラがいなくなっても、わたし、ちゃんと生きていくよ」
涙で声が掠れた。
「もちろん、いっぱい泣くと思う。寂しくて、会いたくて、どうしようもなくなる日もあると思う」
千夏は、ソラの首輪に触れた。
「それでも、ソラと一緒にいたことを、ちゃんと幸せだったって言えるようになる」
鈴が、かすかに震えた。
「だから……」
千夏は目を閉じた。
「大好きだよ。ずっと大好き。だから、もう頑張らなくていいよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。
ソラを引き留めたいという願いが、消えたわけではない。
明日も、明後日も、その先も、一緒にいたい。
それは変わらない。
でも、ソラに無理をしてほしくなかった。
千夏の願いを叶えるために、ソラが苦しい思いをすることだけは、望んでいなかった。
「ありがとう、ソラ」
千夏は、もう一度だけ、ソラを抱きしめた。
「わたしの家族になってくれて、ありがとう」
*
その夜、千夏はソラの隣で眠った。
夢の中で、千夏は小さな女の子に戻っていた。
ランドセルを背負い、転んで泣いている。
膝が痛いわけではなかった。
学校で嫌なことがあったのだ。
何が悲しいのか、どうして悲しいのか、自分でもよくわからない。
ただ、涙が止まらなかった。
そこへ、金色の毛並みをした子犬が走ってきた。
ソラだった。
幼いソラは千夏の周りをくるくると回り、遊ぼうとするように尻尾を振った。
「ソラ……」
千夏が手を伸ばすと、子犬は嬉しそうに駆け寄ってきた。
千夏は笑った。
泣きながら、笑った。
夢の中の空は、どこまでも青かった。
そして、少し離れた場所から、誰かの声が聞こえた。
――千夏、ありがとう。
千夏は顔を上げた。
そこにいたのは、いつものソラだった。
年老いたソラではない。
千夏が初めて出会った頃の、元気で、好奇心いっぱいのソラ。
ソラは千夏を見つめ、ゆっくりと尻尾を振った。
「ソラ、待って!」
千夏は走り出した。
ソラも走った。
追いつけそうで、追いつけない。
それでも、千夏は笑っていた。
ソラが振り返る。
その瞳は、優しかった。
――大丈夫。
声が聞こえた気がした。
――千夏なら、大丈夫。
千夏は立ち止まった。
「……うん」
涙が頬を伝った。
「うん。わたし、頑張るね」
ソラは、もう一度だけ尻尾を振った。
そして、青い空の向こうへと駆けていった。
*
千夏が目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。
窓の向こうから、かすかに朝の気配が感じられる。
隣には、ソラがいた。
千夏はすぐに身体を起こした。
「ソラ?」
ソラは横たわったまま、静かに呼吸をしていた。
千夏は、その背中に手を置いた。
温かかった。
ほっとして、息を吐く。
まだ、ここにいる。
まだ、一緒にいられる。
千夏はソラのそばに座り、首輪に触れた。
銀色の鈴は、今にも砕けてしまいそうなほど、深いひびに覆われていた。
それでも、鈴の内側の文字は消えていなかった。
――いつまでも、家族。
「……うん」
千夏は、鈴をそっと握りしめた。
「ずっと、家族だよ」
その瞬間。
ちりん、と鈴が鳴った。
今まで聞いたどの音よりも、澄んだ音だった。
鈴から淡い光がこぼれ、部屋いっぱいに広がっていく。
千夏は目を見開いた。
「え……?」
光は、ソラの身体を優しく包み込んだ。
懐かしい景色が、次々と浮かんでは消えていく。
初めてソラを抱き上げた日。
一緒に走った公園。
泣きながら抱きしめた夜。
家族みんなで囲んだ誕生日のケーキ。
そのすべてが、光の中にあった。
千夏は手を伸ばした。
「待って……!」
けれど、光は止まらない。
鈴のひびが、ゆっくりと広がっていく。
千夏の目から、涙があふれた。
わかっていた。
この七日間が、終わろうとしているのだ。
「ソラ!」
千夏は、最後の力を振り絞るように呼びかけた。
「ありがとう! 大好きだよ!」
光の中で、ソラが顔を上げた。
そして。
千夏の耳に、確かに声が届いた。
――千夏。
懐かしくて、優しい声。
――大好きだよ。
千夏は泣きながら笑った。
「……うん!」
光が、視界を満たした。
ソラの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
それでも千夏は、もう手を伸ばさなかった。
追いかける代わりに、胸の前で両手を握りしめた。
忘れない。
絶対に忘れない。
ソラが自分にくれた、すべての時間を。
そして、光が消える直前。
千夏は、最後にもう一度だけ囁いた。
「さよなら、ソラ」
それは、ソラを忘れるための言葉ではなかった。
ソラを愛していた自分のまま、明日へ進むための言葉だった。
鈴が、最後に一度だけ鳴った。
ちりん。
そして、千夏の世界は、白い光に包まれた。
リビングの床に毛布を敷き、ソラの隣に寝転がる。
いつもなら母に「風邪をひくわよ」と注意されるところだけれど、今夜は何も言われなかった。
母も父も、ソラのそばにいたかったのだろう。
父はソファに腰かけ、昔の写真を一枚ずつ眺めていた。母は温かい飲み物を用意して、時折、ソラの様子を確かめていた。
家族みんなが、同じことを考えていた。
この時間が、いつまでも続いてほしい。
けれど、願うだけでは変えられないものがある。
「ソラ」
千夏は、そっと呼びかけた。
ソラは床に横たわったまま、ゆっくりと目を開けた。
「眠れないの?」
返事の代わりに、尻尾が一度だけ動いた。
「そっか。わたしも」
千夏は小さく笑った。
「ねえ、覚えてる? 初めて会った日」
あの日、千夏は小学一年生だった。
近所の家で生まれた子犬を見に行き、その中の一匹に夢中になった。
ほかの子犬たちが元気よく動き回る中、一匹だけ、千夏の靴に顎を載せて眠っていた。
それがソラだった。
千夏は、その場から離れられなくなった。
家に帰ってからも、ずっとソラのことを話していた。
そして数日後、ソラは水瀬家の家族になった。
「お父さん、最初は犬を飼うのに反対してたんだよね」
「……そうだったな」
父が写真から顔を上げた。
「散歩も世話も、毎日ちゃんとできるのかって言ったんだ」
「でも、最後にはお父さんが一番ソラを甘やかしてた」
「それは……」
父は言い返そうとして、諦めたように笑った。
「否定できないな」
母も笑った。
「お父さん、ソラが少しでも食欲がないと、すぐにおやつを買いに行っていたものね」
「お母さんだって、ソラの誕生日にはごちそうを作ってたじゃない」
「そうね」
母はソラの頭を撫でた。
「みんな、この子が大好きだったのよ」
千夏は目を伏せた。
大好きだった。
その言葉は、過去形で口にするには、あまりにも苦しかった。
だって、今だって大好きなのだ。
ソラがここにいる限り。
そして、いなくなったあとも。
千夏は鞄から銀色の鈴を取り出した。
手のひらに載せると、表面のひびが淡い光を帯びた。
この七日間、何度も不思議なことが起きた。
時間が巻き戻り、忘れていた記憶がよみがえり、もう会えないはずだったソラと、もう一度過ごすことができた。
最初は、ソラを助けるための奇跡だと思った。
何かをすれば未来を変えられる。
あの日、間に合わなかった自分をやり直せる。
そう信じていた。
けれど、今は少し違う。
この時間は、ソラを永遠に引き留めるために与えられたものではないのかもしれない。
言えなかった言葉を伝えるため。
見落としていた幸せを見つけるため。
そして、いつか訪れる別れから、目を背けないため。
「……ありがとう」
千夏が囁いた、そのときだった。
ソラが、ゆっくりと身体を起こそうとした。
「ソラ?」
千夏は慌てて身を寄せた。
けれど、ソラは自分の力で少しだけ顔を上げ、千夏のほうを見た。
そして、千夏の手のひらに鼻先を押しつけた。
いつもの仕草。
何度も、何度も繰り返してきた仕草。
千夏はその意味を考えようとした。
でも、考える必要などなかった。
ソラはずっと、ソラだった。
千夏が泣いているときも、笑っているときも、そばにいてくれた。
言葉がなくても、気持ちは伝わる。
千夏はソラの首に腕を回し、そっと抱きしめた。
「ソラ。聞いてね」
声が震えた。
それでも、今度は最後まで伝えたかった。
「わたしね、ずっと怖かったんだ」
ソラの温もりを感じながら、千夏は続けた。
「ソラがいなくなったら、どうやって毎日を過ごせばいいのかわからなかった。朝起きても、帰ってきても、ソラがいないなんて……そんなの、考えたくなかった」
涙がこぼれた。
「だから、いなくならないでって、何度も思った。お願いだから、ずっとそばにいてって」
千夏は一度、言葉を切った。
胸の奥が痛かった。
けれど、その痛みから逃げずに、言った。
「でもね。ソラがいなくなるのが怖いのは、それだけ、ソラが大切だからなんだよね」
ソラの耳を、ゆっくりと撫でる。
「ソラと出会わなかったら、こんなに幸せな時間も知らなかった。こんなに誰かを大好きになる気持ちも、知らなかった」
千夏は涙を拭った。
「ソラがくれたものは、いなくなったからって、なくなるわけじゃないんだよね」
返事はない。
それでも、千夏は話し続けた。
「わたしが初めて自転車に乗れた日も、学校で友達ができなくて泣いた日も、受験に失敗して落ち込んだ日も。ソラは、ずっとそばにいてくれた」
思い出が、次々とあふれてくる。
雨の日に一緒に窓の外を眺めたこと。
宿題をしていると、ソラが机の下で眠ってしまったこと。
風邪で学校を休んだ日、ベッドの横から離れなかったこと。
何でもない毎日。
けれど、そのひとつひとつが、千夏の人生を形作っていた。
「ソラがいたから、わたしはひとりじゃなかった」
千夏は、ソラの額に自分の額をそっと寄せた。
「だから、今度はわたしが約束するね」
幼い頃、母に告げた言葉を思い出す。
ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。
あの約束を、ずっと守れずにいた。
ソラを失うことが怖くて、笑顔の先にある未来を見ようとしなかった。
けれど、今なら。
「ソラがいなくなっても、わたし、ちゃんと生きていくよ」
涙で声が掠れた。
「もちろん、いっぱい泣くと思う。寂しくて、会いたくて、どうしようもなくなる日もあると思う」
千夏は、ソラの首輪に触れた。
「それでも、ソラと一緒にいたことを、ちゃんと幸せだったって言えるようになる」
鈴が、かすかに震えた。
「だから……」
千夏は目を閉じた。
「大好きだよ。ずっと大好き。だから、もう頑張らなくていいよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。
ソラを引き留めたいという願いが、消えたわけではない。
明日も、明後日も、その先も、一緒にいたい。
それは変わらない。
でも、ソラに無理をしてほしくなかった。
千夏の願いを叶えるために、ソラが苦しい思いをすることだけは、望んでいなかった。
「ありがとう、ソラ」
千夏は、もう一度だけ、ソラを抱きしめた。
「わたしの家族になってくれて、ありがとう」
*
その夜、千夏はソラの隣で眠った。
夢の中で、千夏は小さな女の子に戻っていた。
ランドセルを背負い、転んで泣いている。
膝が痛いわけではなかった。
学校で嫌なことがあったのだ。
何が悲しいのか、どうして悲しいのか、自分でもよくわからない。
ただ、涙が止まらなかった。
そこへ、金色の毛並みをした子犬が走ってきた。
ソラだった。
幼いソラは千夏の周りをくるくると回り、遊ぼうとするように尻尾を振った。
「ソラ……」
千夏が手を伸ばすと、子犬は嬉しそうに駆け寄ってきた。
千夏は笑った。
泣きながら、笑った。
夢の中の空は、どこまでも青かった。
そして、少し離れた場所から、誰かの声が聞こえた。
――千夏、ありがとう。
千夏は顔を上げた。
そこにいたのは、いつものソラだった。
年老いたソラではない。
千夏が初めて出会った頃の、元気で、好奇心いっぱいのソラ。
ソラは千夏を見つめ、ゆっくりと尻尾を振った。
「ソラ、待って!」
千夏は走り出した。
ソラも走った。
追いつけそうで、追いつけない。
それでも、千夏は笑っていた。
ソラが振り返る。
その瞳は、優しかった。
――大丈夫。
声が聞こえた気がした。
――千夏なら、大丈夫。
千夏は立ち止まった。
「……うん」
涙が頬を伝った。
「うん。わたし、頑張るね」
ソラは、もう一度だけ尻尾を振った。
そして、青い空の向こうへと駆けていった。
*
千夏が目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。
窓の向こうから、かすかに朝の気配が感じられる。
隣には、ソラがいた。
千夏はすぐに身体を起こした。
「ソラ?」
ソラは横たわったまま、静かに呼吸をしていた。
千夏は、その背中に手を置いた。
温かかった。
ほっとして、息を吐く。
まだ、ここにいる。
まだ、一緒にいられる。
千夏はソラのそばに座り、首輪に触れた。
銀色の鈴は、今にも砕けてしまいそうなほど、深いひびに覆われていた。
それでも、鈴の内側の文字は消えていなかった。
――いつまでも、家族。
「……うん」
千夏は、鈴をそっと握りしめた。
「ずっと、家族だよ」
その瞬間。
ちりん、と鈴が鳴った。
今まで聞いたどの音よりも、澄んだ音だった。
鈴から淡い光がこぼれ、部屋いっぱいに広がっていく。
千夏は目を見開いた。
「え……?」
光は、ソラの身体を優しく包み込んだ。
懐かしい景色が、次々と浮かんでは消えていく。
初めてソラを抱き上げた日。
一緒に走った公園。
泣きながら抱きしめた夜。
家族みんなで囲んだ誕生日のケーキ。
そのすべてが、光の中にあった。
千夏は手を伸ばした。
「待って……!」
けれど、光は止まらない。
鈴のひびが、ゆっくりと広がっていく。
千夏の目から、涙があふれた。
わかっていた。
この七日間が、終わろうとしているのだ。
「ソラ!」
千夏は、最後の力を振り絞るように呼びかけた。
「ありがとう! 大好きだよ!」
光の中で、ソラが顔を上げた。
そして。
千夏の耳に、確かに声が届いた。
――千夏。
懐かしくて、優しい声。
――大好きだよ。
千夏は泣きながら笑った。
「……うん!」
光が、視界を満たした。
ソラの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
それでも千夏は、もう手を伸ばさなかった。
追いかける代わりに、胸の前で両手を握りしめた。
忘れない。
絶対に忘れない。
ソラが自分にくれた、すべての時間を。
そして、光が消える直前。
千夏は、最後にもう一度だけ囁いた。
「さよなら、ソラ」
それは、ソラを忘れるための言葉ではなかった。
ソラを愛していた自分のまま、明日へ進むための言葉だった。
鈴が、最後に一度だけ鳴った。
ちりん。
そして、千夏の世界は、白い光に包まれた。