さよならを言うために、君がくれた七日間
 翌朝、千夏はソラの鳴き声で目を覚ました。

「……ソラ?」

 階段を下りると、リビングの窓辺にソラがいた。

 いつもなら、千夏が起きてくる気配を感じると、尻尾を振って駆け寄ってきた。けれど今は、ゆっくりと顔を上げるだけだった。

 それでも、千夏と目が合うと、ソラは尻尾を床にとん、とん、と打ちつけた。

「おはよう」

 千夏は隣に座り、柔らかな毛並みを撫でた。

「今日は、どこか行きたいところある?」

 もちろん、ソラは答えない。

 ただ、千夏の手のひらに鼻先を押しつけた。

 その仕草が、どうしようもなく愛おしかった。

 台所から母の美和が顔を出した。

「千夏。先生からも、無理をさせないようにって言われているでしょう?」

「うん。遠くには行かないよ」

「そうね。ソラが疲れたら、すぐに帰ってこよう」

 母は少しだけ迷うように視線を落としたあと、優しく微笑んだ。

「……みんなで、お散歩に行こうか」

 千夏は大きく頷いた。

「うん!」

 声が弾んだのは、久しぶりだった。

 ソラと一緒に歩ける。

 それだけで、胸の奥に小さな灯がともった気がした。

     *

 玄関先には、父の直人も待っていた。

 父がリードを手に取ろうとすると、ソラは自分から立ち上がろうとした。

 けれど、後ろ足に力が入りきらず、身体が少し揺れた。

「ソラ!」

 千夏は思わず手を伸ばした。

 父もすぐに支え、ソラが転ばないようにそっと身体を受け止める。

 ソラは申し訳なさそうに目を伏せた。

「謝らなくていいよ」

 千夏はしゃがみ込み、ソラの頭を撫でた。

「ゆっくりでいいからね。今日は、競争じゃないんだから」

 ソラの尻尾が、小さく揺れた。

 千夏はリードを握り、家族と一緒に歩き出した。

 いつも通っていた住宅街の道。

 朝の光を受けて輝く街路樹。

 角を曲がったところにある、小さな公園。

 どれも、何度も見てきた景色だった。

 けれど今日は、ひとつひとつが特別に思えた。

 ソラの足取りに合わせて、千夏は歩く速度を落とす。

 急がなくていい。

 先に進まなくてもいい。

 ただ、一緒に歩いていられればいい。

 それが、こんなにも幸せなことだったなんて。

「ねえ、ソラ」

 千夏は隣を歩くソラに話しかけた。

「覚えてる? 小学生のとき、わたしが転んで泣いたこと」

 あの頃の千夏は、よく泣く子どもだった。

 運動会のかけっこで負けては泣き、友達と喧嘩しては泣き、テストで思うような点が取れなかったときも泣いた。

 そんな千夏のそばには、いつもソラがいた。

 泣きじゃくる千夏の頬を舐めて、何が悲しいのかもわからないまま、ずっと隣にいてくれた。

「わたしね、ソラがいると、何でも大丈夫な気がしたんだよ」

 ソラは千夏を見上げた。

「学校で嫌なことがあっても、帰ったらソラがいてくれる。失敗しても、ソラは笑わない。わたしがどんなに格好悪くても、いつも同じように迎えてくれた」

 千夏は笑った。

「……だから、ずっと一緒にいられると思ってた」

 言葉にした途端、胸が痛んだ。

 ずっと一緒。

 その言葉が、もう永遠ではないことを、千夏は知っている。

 それでも。

「でもね、ソラ」

 千夏はリードを握る手に、そっと力を込めた。

「一緒にいられる時間が決まっているからって、今までの時間がなくなるわけじゃないよね」

 ソラは答えない。

 ただ、ゆっくりと歩いている。

「わたし、これからも覚えてるよ。ソラと初めて会った日も、初めて一緒に寝た日も、わたしの誕生日にケーキを見て大騒ぎしたことも」

 父が、少し後ろで笑った。

「ケーキを食べたのは、おまえの誕生日じゃなくて、ソラの誕生日だったけどな」

「そうだっけ?」

「そうだよ。おまえ、自分のケーキよりソラの犬用ケーキのほうが大きいって怒ってたじゃないか」

「お父さん、そんなこと覚えてるの?」

「覚えてるさ」

 父の声は、いつもより少し掠れていた。

「家族のことだからな」

 千夏は唇を噛んだ。

 泣きそうだった。

 でも、今は泣くよりも、笑っていたかった。

「そっか。ソラだけじゃなくて、お父さんも覚えてるんだ」

「ああ。お母さんもな」

 母が頷いた。

「みんなで覚えていようね」

 その言葉を聞いたとき、千夏は気づいた。

 ソラとの思い出は、自分ひとりのものではない。

 家族の中にある。

 ソラと過ごした日々は、千夏が忘れない限り、そして家族が語り継ぐ限り、これからも誰かの心に残り続けるのだ。

     *

 公園に着くと、ソラはいつものベンチの前で足を止めた。

 そこは、千夏が小学生の頃、学校から帰る途中によく立ち寄った場所だった。

 ベンチに座って宿題をしたこともある。

 ソラとボール遊びをしたこともある。

 そして、何度もここで、どうでもいい話をした。

「ソラ、ここ好きだったよね」

 千夏はベンチの隣に腰を下ろした。

 ソラは母が用意した敷物の上に、ゆっくりと身体を横たえた。

 その姿を見て、千夏の胸が締めつけられた。

 以前より、ずっと小さく見えた。

 長い年月を一緒に過ごしてきたはずなのに、千夏はソラの老いを、どこかで見ないようにしていたのかもしれない。

 いつまでも元気でいてほしかった。

 昔と同じように走り回ってほしかった。

 自分が泣けば、すぐに駆け寄ってきてほしかった。

 けれど、ソラはソラの時間を生きている。

 千夏の願いだけでは、変えられない時間がある。

 千夏はそっと、ソラの背中に手を置いた。

「ねえ、ソラ」

 小さな声で呼びかける。

「わたし、ずっと間違えてたのかもしれない」

 母と父が、静かにこちらを見た。

「ソラがいなくなるのが怖くて、いなくならない方法ばっかり考えてた。もっと早く気づけばよかったって、何度も思った。もっと一緒にいればよかったって……」

 声が震えた。

「でも、ソラと一緒にいた時間を、後悔だけでいっぱいにしたくない」

 千夏はソラの耳の後ろを撫でた。

「ソラと出会えて、嬉しかった。ソラがうちに来てくれて、毎日が楽しかった。わたしがひとりぼっちだと思ってた日も、本当はひとりじゃなかった」

 頬を涙が伝った。

 それでも、千夏は笑おうとした。

「だから、ありがとう。わたしのところに来てくれて、ありがとう」

 ソラが顔を上げた。

 そして、千夏の手に鼻先をそっと押しつけた。

 たったそれだけの仕草だった。

 でも千夏には、ソラがいつものように「ここにいるよ」と伝えてくれたように思えた。

 千夏はソラを抱きしめた。

 昔のように強くは抱きしめられない。

 ソラの身体に負担をかけないよう、そっと、そっと。

「大好きだよ、ソラ」

 何度伝えても、足りなかった。

「大好き。ずっと、大好きだからね」

 そのとき、鞄の中から小さな音がした。

 ちりん。

 千夏は顔を上げた。

 銀色の鈴が、鞄の隙間から淡い光を漏らしていた。

 昨日、最後のひびが入ったはずの鈴。

 もう、時間が残されていないことを告げているようだった。

 千夏は鈴を取り出し、手のひらに載せた。

 表面のひびは、さらに深くなっていた。

 けれど、内側に刻まれた文字は、はっきりと読めた。

 ――いつまでも、家族。

「……うん」

 千夏は頷いた。

「わかってるよ」

 鈴を胸元で握りしめる。

 もう一度だけ、過去を変えたいと思った。

 もう一度だけ、明日を変えられないかと願った。

 けれど、その願いの奥にあるものが、少しずつ変わっていることにも気づいていた。

 ソラを失いたくない。

 それは、今も変わらない。

 でも、それ以上に。

 ソラが自分にくれたものを、忘れたくない。

 ソラがいたからこそ、自分がここまで歩いてこられたことを、なかったことにしたくない。

 千夏は空を見上げた。

 雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいた。

「ソラ。帰ろうか」

 ソラはすぐには立ち上がらなかった。

 千夏は急かさず、隣に座って待った。

 やがて、ソラがゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、昔と同じ色をしていた。

 千夏は微笑んだ。

「大丈夫。ゆっくりでいいよ」

 父と母も、何も言わずに待ってくれた。

 しばらくして、ソラは少しずつ身体を起こした。

 千夏は家族と一緒に、来た道を戻り始めた。

 行きよりも、ずっとゆっくりと。

 ソラの歩幅に合わせて。

 途中で何度も立ち止まりながら。

 それでも、誰も急がなかった。

 この散歩が最後になるかもしれない。

 そのことを、みんながわかっていた。

 だからこそ、一歩一歩を大切にした。

 道端に咲いていた小さな花。

 誰かの家から聞こえる笑い声。

 風に揺れる木の葉。

 いつもなら気にも留めないものが、今日はひとつひとつ、胸に刻まれていく。

 家に着く頃には、千夏の目は赤くなっていた。

 けれど、不思議と心は朝よりも穏やかだった。

 玄関の前で、千夏はソラの首輪に触れた。

 そこには、銀色の鈴がついている。

 過去へ戻るきっかけになった、不思議な鈴。

 千夏は、もう一度だけ願った。

 どうか、この時間が終わっても。

 ソラを愛した自分を、忘れませんように。

 ソラと過ごした日々を、悲しいだけの思い出にしませんように。

 そして。

 いつか、ソラのいない世界でも、ちゃんと笑えますように。

 鈴が、かすかに鳴った。

 ちりん。

 その音に重なるように、千夏の心の中で、懐かしい声がした気がした。

 ――千夏。

 千夏は目を閉じた。

 ――ありがとう。

「……うん」

 涙が、また頬を伝った。

「わたしこそ、ありがとう」

 もう、奇跡にすがるだけの自分ではいたくなかった。

 奇跡が終わっても、ソラと生きた時間は消えない。

 それを信じていたかった。

 千夏はソラの額にそっと唇を寄せた。

「明日も、一緒にいようね」

 ソラは千夏の手に鼻先を押しつけた。

 まるで、その約束を受け取るように。

 ただ今は、隣にいる温もりを感じていた。

 この温もりを、心に刻みつけるように。

 何度でも思い出せるように。

 いつか涙が乾いたあとも、愛していたことを忘れないように。
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