さよならを言うために、君がくれた七日間
翌朝、千夏は目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。
ベッドの横には、昨日からつけ始めたノートが置かれていた。
ソラの食事の量。水を飲んだ回数。散歩の距離。歩いているときの様子。
小さな変化も見逃さないように、千夏は一つひとつ書き込んでいた。
けれど、ノートを見つめているうちに、胸の奥が苦しくなった。
こんな記録をつけるために、ソラと一緒にいるわけじゃない。
本当は、もっとくだらないことをしたい。
ソラが庭で寝転がっているのを眺めたり、散歩の途中で道端の花を見つけたり。帰ってきたら、おやつをねだるソラに「さっき食べたでしょ」と笑ったり。
そんな、何でもない時間を過ごしたいのだ。
「……ソラ」
千夏はノートを閉じた。
そして、隣で眠っているソラの頭をそっと撫でる。
ソラは片目だけを開け、千夏を見上げた。
「今日は、いつもの公園に行こうか」
その言葉に反応したのか、ソラはゆっくりと立ち上がった。
しっぽが、ぱたん、と一度揺れる。
千夏は思わず笑った。
「うん。行こうね」
その笑顔が、いつ以来のものだったのか。
自分でも、よくわからなかった。
*
公園へ向かう道は、小学生のころから何度も歩いた道だった。
角にある花屋は、昔より少し小さくなっている。横断歩道のそばにあった自動販売機は、新しいものに変わっていた。
けれど、道の途中にある大きなケヤキの木だけは、何も変わっていない。
千夏は、その木の前で足を止めた。
「覚えてる? ソラ」
もちろん、返事はない。
それでも千夏は話しかけた。
「ここで初めて散歩の練習をしたんだよね。ソラ、リードを引っ張りすぎて、私が転んじゃって」
あの日のことを思い出す。
まだ小さかったソラは、見るものすべてが珍しくて、道端の草にも、飛んでいく鳥にも夢中だった。
千夏は転んで膝を擦りむいた。
泣きそうになった彼女の顔を、ソラは不思議そうに見つめていた。
そして、ぺろりと頬を舐めたのだ。
まるで、泣かないで、と言うように。
「……あのとき、ソラのほうが私よりずっと子どもだったのにね」
千夏は笑った。
目の奥が熱くなったけれど、今度は涙をこらえなかった。
悲しいのに、懐かしい。
苦しいのに、思い出すと少しだけ温かい。
そんな気持ちがあることを、千夏は初めて知った。
「千夏?」
後ろから声がした。
振り返ると、朝倉秋斗が立っていた。
制服姿ではなく、薄手のパーカーにジーンズという格好だった。片手には小さな買い物袋を持っている。
「秋斗……どうして?」
「おばさんから聞いた。ソラと公園に行くって」
「お母さんが?」
「うん。もし会ったら、無理をさせないように見ていてほしいって」
秋斗はそう言ってから、ソラの前にしゃがんだ。
「おはよう、ソラ。元気そうだな」
ソラは秋斗の手の匂いを嗅ぎ、それから、ゆっくりとしっぽを振った。
「お前、昔から秋斗のこと好きだよね」
「昔、俺の弁当を一回丸ごと食べたことがあるからな」
「それ、ソラが悪いんじゃなくて、秋斗が床に置いたからでしょ」
「いや、あれは俺の昼飯だったんだけど」
「ふふっ」
千夏は声を立てて笑った。
秋斗は一瞬、目を丸くした。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
「なんでもない顔じゃないけど」
「いいの」
千夏はソラのリードを持ち直した。
笑えた。
ソラが生きているから。
秋斗が、いつもと変わらない調子で話してくれるから。
この時間が、まだ続いているから。
その事実が嬉しくて、同時に怖かった。
笑えば笑うほど、いつか失うことが現実になる気がした。
*
公園の奥には、小さな池があった。
池の周りを囲む遊歩道は、ソラのお気に入りの散歩コースだった。
以前なら、ソラは池のそばまで駆けていき、水面を覗き込んでいた。
けれど、今日は違った。
ゆっくり歩き、途中にあるベンチの前で立ち止まった。
「疲れた?」
千夏が尋ねると、ソラはその場に腰を下ろした。
「じゃあ、少し休もうね」
千夏はリードを短く持ち、ベンチに腰かけた。
秋斗も隣に座る。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
池の向こうで、子どもたちがボールを追いかけている。
小さな女の子が転び、すぐに立ち上がって走り出した。
その姿を見て、千夏はふと、自分の幼いころを思い出した。
「私ね、昔、ここで泣いたことがあるんだ」
「知ってる」
「え?」
「小学校のとき。運動会のリレーで転んで、悔しくて泣いてた」
「……なんで知ってるの?」
「お前、泣きながらソラに話してたから」
「ああ……」
千夏は頬を赤くした。
あのころの自分は、何でもソラに話していた。
学校で嫌なことがあった日も、テストで失敗した日も、友達と喧嘩した日も。
ソラはいつだって、千夏の話を聞いてくれた。
何を言っているのかわからなくても、最後までそばにいてくれた。
「私、ソラにいっぱい助けてもらったんだね」
千夏は、膝の上に置いた手を見つめた。
「でも、私……何も返せてない気がする」
秋斗はすぐには答えなかった。
その沈黙が、千夏には怖かった。
「だって、もっと散歩に連れていってあげればよかった。もっと遊んであげればよかった。最近は学校のことで忙しくて、ソラが寝ていると、あとでいいやって思って……」
「千夏」
「私、ソラがいつまでも元気でいてくれるって、勝手に思ってたんだよ」
声が震えた。
「明日も一緒にいられるって。来年も、その次の年も。だから、今度でいいって思ってたことがいっぱいあるの」
ソラは千夏の足元に伏せていた。
千夏は、その背中にそっと手を置いた。
「ごめんね、ソラ」
言葉にした瞬間、涙がこぼれた。
「ごめんね……」
「千夏」
秋斗の声は静かだった。
「ソラに謝りたいことがあるのは、わかるよ。でもさ」
秋斗は、池の向こうを見つめた。
「ソラと過ごした時間って、そんなに悪いものだったのか?」
「……え?」
「もっとできたことがあったのは、そうかもしれない。でも、お前が今までソラにしてきたことも、なくなるわけじゃないだろ」
千夏は顔を上げた。
「散歩に連れていったことも、一緒に寝たことも、毎日帰ってきて『ただいま』って言ったことも。全部、ソラと過ごした時間だ」
秋斗は少しだけ笑った。
「俺、ソラがお前の帰りを待ってるところ、何度も見たことがあるよ」
「……うん」
「お前が玄関を開けると、すぐに走っていってた。しっぽを振りすぎて、体まで揺れてさ」
千夏の目に、また涙が浮かんだ。
それは、何度も見た光景だった。
部活で疲れて帰った日も、テストの結果が悪かった日も。
玄関の向こうには、いつもソラがいた。
「ソラにとって、お前が帰ってくることは、特別なことだったんじゃないかな」
秋斗はそう言って、千夏を見た。
「だから、できなかったことばかり数えなくてもいいと思う」
千夏は何も答えられなかった。
心のどこかでは、わかっていた。
ソラと過ごした時間が、後悔だけでできているわけではないことくらい。
それでも、失うことが怖かった。
怖くて、怖くて。
過去の自分を責めていなければ、ソラがいなくなってしまうことを受け入れてしまうような気がした。
「……秋斗は」
千夏は、ようやく口を開いた。
「もし、大切な人がいなくなったら、どうする?」
秋斗の表情が変わった。
彼はすぐには答えなかった。
少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「わからない」
正直な答えだった。
「俺だって、そんなことになったら、どうしたらいいかわからないと思う」
「……そっか」
「でも」
秋斗は、千夏の手元に視線を落とした。
「忘れたくないとは思う」
千夏は彼を見つめた。
「悲しいからって、なかったことにはしたくない。楽しかったことも、くだらないことで笑ったことも。全部、覚えていたい」
秋斗は少し困ったように笑った。
「まあ、実際にそうなったら、きれいごとだけじゃ済まないんだろうけど」
「……うん」
「だから、今はわからない。でも、お前がつらいなら、俺は話くらい聞くよ」
その言葉は、飾り気がなかった。
慰めるために無理やり考えた言葉でもない。
ただ、秋斗が本当にそう思っているのだと伝わってきた。
千夏は、もう一度ソラを見た。
ソラは目を閉じていた。
穏やかな寝息が聞こえる。
今、この瞬間も、ソラはここにいる。
そのことが、たまらなく愛おしかった。
「ありがとう、秋斗」
「どういたしまして」
「……でも、私、まだ諦めないから」
秋斗は千夏を見た。
「何を?」
「ソラのこと」
千夏はリードを握りしめた。
「未来を変えられるなら、変えたい。ソラと、もっと一緒にいたい」
秋斗はしばらく黙っていた。
それから、力強くうなずいた。
「うん。俺も手伝う」
*
帰り道、千夏はソラの歩く速さに合わせて、ゆっくりと進んだ。
途中、ソラは何度か立ち止まった。
道端の草の匂いを嗅いだり、風に揺れる木の葉を見上げたり。
千夏は、そのたびに足を止めた。
いつもなら、学校の宿題や明日の予定を考えて、少し急かしていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
「ゆっくりでいいよ、ソラ」
そう声をかけると、ソラは千夏を見上げた。
黒い瞳が、朝の光を映している。
千夏はしゃがみ込み、その頭を撫でた。
「今日はいっぱい歩いたね」
ソラは千夏の手に鼻先を寄せた。
その温かさに触れた瞬間、千夏の胸が締めつけられた。
この温かさを、忘れたくない。
毛並みの感触も、息遣いも、こちらを見上げる目も。
何ひとつ、忘れたくない。
千夏は、首輪についた銀色の鈴を見つめた。
鈴には、小さなひびが入っている。
昨日よりも、ほんの少しだけ長くなっていた。
「……どうして?」
千夏が指先で触れた瞬間、鈴がかすかに鳴った。
ちりん。
澄んだ音が、風に乗って広がる。
そして。
『……千夏』
また、聞こえた。
幼いころから何度も聞いてきたような、懐かしい声。
千夏は息を止めた。
「ソラ……?」
ソラは、何も言わない。
ただ、千夏の顔を見つめている。
その目を見た瞬間、千夏の頭の中に、知らないはずの光景が浮かんだ。
夕焼けの公園。
小さな自分。
そして、まだ子犬だったソラ。
千夏は泣いていた。
何が悲しかったのかは、わからない。
けれど、子犬のソラは千夏の膝に前足をかけ、懸命に顔を舐めていた。
幼い千夏が、泣きながら笑う。
『ありがとう、ソラ』
そこで、光景は途切れた。
「……今のは、何?」
千夏は、鈴を握りしめた。
記憶だろうか。
それとも、鈴が見せてくれた幻なのだろうか。
わからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この鈴は、千夏を過去に戻しただけではない。
何かを伝えようとしている。
千夏はソラの顔を見つめた。
「ねえ、ソラ」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは、私に何を伝えたいの?」
ソラは答えなかった。
代わりに、千夏の手をぺろりと舐めた。
いつもと同じ仕草。
昔から、何も変わらない仕草。
千夏は、その手をソラの頭に添えた。
「……わかった。ちゃんと考えるね」
未来を変える方法だけではなく。
この七日間に隠された、本当の意味を。
*
その夜。
千夏は、ベッドの上で鈴を見つめていた。
小さなひびは、月明かりの下でかすかに光っている。
千夏はノートを開き、今日の出来事を書き込んだ。
ソラの様子。
公園で思い出したこと。
秋斗が話してくれたこと。
そして、鈴が見せた記憶。
最後に、千夏は一行だけ書き加えた。
――ソラと過ごす時間を、後悔だけで終わらせたくない。
書き終えた瞬間、鈴がかすかに鳴った。
ちりん。
千夏は顔を上げた。
今度は、声が聞こえなかった。
けれど、鈴の内側に刻まれた文字が、ほんの一瞬だけ浮かび上がった気がした。
それは、見覚えのない文字だった。
千夏は目を凝らす。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……何なの、これ」
胸の奥に、小さな不安が広がっていく。
もし、この七日間が、ただソラを救うために与えられた時間ではないのだとしたら。
もし、鈴が千夏に求めているものが、別にあるのだとしたら。
千夏は、鈴を両手で包み込んだ。
「お願い……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「ソラと一緒にいられる時間を、もう少しだけください」
返事はなかった。
窓の外で、風が吹いた。
そして、千夏の知らない場所で、銀色の鈴と同じ音が、もう一度だけ響いた。
まるで、誰かが遠くから、その願いを聞き届けたかのように。
カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。
ベッドの横には、昨日からつけ始めたノートが置かれていた。
ソラの食事の量。水を飲んだ回数。散歩の距離。歩いているときの様子。
小さな変化も見逃さないように、千夏は一つひとつ書き込んでいた。
けれど、ノートを見つめているうちに、胸の奥が苦しくなった。
こんな記録をつけるために、ソラと一緒にいるわけじゃない。
本当は、もっとくだらないことをしたい。
ソラが庭で寝転がっているのを眺めたり、散歩の途中で道端の花を見つけたり。帰ってきたら、おやつをねだるソラに「さっき食べたでしょ」と笑ったり。
そんな、何でもない時間を過ごしたいのだ。
「……ソラ」
千夏はノートを閉じた。
そして、隣で眠っているソラの頭をそっと撫でる。
ソラは片目だけを開け、千夏を見上げた。
「今日は、いつもの公園に行こうか」
その言葉に反応したのか、ソラはゆっくりと立ち上がった。
しっぽが、ぱたん、と一度揺れる。
千夏は思わず笑った。
「うん。行こうね」
その笑顔が、いつ以来のものだったのか。
自分でも、よくわからなかった。
*
公園へ向かう道は、小学生のころから何度も歩いた道だった。
角にある花屋は、昔より少し小さくなっている。横断歩道のそばにあった自動販売機は、新しいものに変わっていた。
けれど、道の途中にある大きなケヤキの木だけは、何も変わっていない。
千夏は、その木の前で足を止めた。
「覚えてる? ソラ」
もちろん、返事はない。
それでも千夏は話しかけた。
「ここで初めて散歩の練習をしたんだよね。ソラ、リードを引っ張りすぎて、私が転んじゃって」
あの日のことを思い出す。
まだ小さかったソラは、見るものすべてが珍しくて、道端の草にも、飛んでいく鳥にも夢中だった。
千夏は転んで膝を擦りむいた。
泣きそうになった彼女の顔を、ソラは不思議そうに見つめていた。
そして、ぺろりと頬を舐めたのだ。
まるで、泣かないで、と言うように。
「……あのとき、ソラのほうが私よりずっと子どもだったのにね」
千夏は笑った。
目の奥が熱くなったけれど、今度は涙をこらえなかった。
悲しいのに、懐かしい。
苦しいのに、思い出すと少しだけ温かい。
そんな気持ちがあることを、千夏は初めて知った。
「千夏?」
後ろから声がした。
振り返ると、朝倉秋斗が立っていた。
制服姿ではなく、薄手のパーカーにジーンズという格好だった。片手には小さな買い物袋を持っている。
「秋斗……どうして?」
「おばさんから聞いた。ソラと公園に行くって」
「お母さんが?」
「うん。もし会ったら、無理をさせないように見ていてほしいって」
秋斗はそう言ってから、ソラの前にしゃがんだ。
「おはよう、ソラ。元気そうだな」
ソラは秋斗の手の匂いを嗅ぎ、それから、ゆっくりとしっぽを振った。
「お前、昔から秋斗のこと好きだよね」
「昔、俺の弁当を一回丸ごと食べたことがあるからな」
「それ、ソラが悪いんじゃなくて、秋斗が床に置いたからでしょ」
「いや、あれは俺の昼飯だったんだけど」
「ふふっ」
千夏は声を立てて笑った。
秋斗は一瞬、目を丸くした。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
「なんでもない顔じゃないけど」
「いいの」
千夏はソラのリードを持ち直した。
笑えた。
ソラが生きているから。
秋斗が、いつもと変わらない調子で話してくれるから。
この時間が、まだ続いているから。
その事実が嬉しくて、同時に怖かった。
笑えば笑うほど、いつか失うことが現実になる気がした。
*
公園の奥には、小さな池があった。
池の周りを囲む遊歩道は、ソラのお気に入りの散歩コースだった。
以前なら、ソラは池のそばまで駆けていき、水面を覗き込んでいた。
けれど、今日は違った。
ゆっくり歩き、途中にあるベンチの前で立ち止まった。
「疲れた?」
千夏が尋ねると、ソラはその場に腰を下ろした。
「じゃあ、少し休もうね」
千夏はリードを短く持ち、ベンチに腰かけた。
秋斗も隣に座る。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
池の向こうで、子どもたちがボールを追いかけている。
小さな女の子が転び、すぐに立ち上がって走り出した。
その姿を見て、千夏はふと、自分の幼いころを思い出した。
「私ね、昔、ここで泣いたことがあるんだ」
「知ってる」
「え?」
「小学校のとき。運動会のリレーで転んで、悔しくて泣いてた」
「……なんで知ってるの?」
「お前、泣きながらソラに話してたから」
「ああ……」
千夏は頬を赤くした。
あのころの自分は、何でもソラに話していた。
学校で嫌なことがあった日も、テストで失敗した日も、友達と喧嘩した日も。
ソラはいつだって、千夏の話を聞いてくれた。
何を言っているのかわからなくても、最後までそばにいてくれた。
「私、ソラにいっぱい助けてもらったんだね」
千夏は、膝の上に置いた手を見つめた。
「でも、私……何も返せてない気がする」
秋斗はすぐには答えなかった。
その沈黙が、千夏には怖かった。
「だって、もっと散歩に連れていってあげればよかった。もっと遊んであげればよかった。最近は学校のことで忙しくて、ソラが寝ていると、あとでいいやって思って……」
「千夏」
「私、ソラがいつまでも元気でいてくれるって、勝手に思ってたんだよ」
声が震えた。
「明日も一緒にいられるって。来年も、その次の年も。だから、今度でいいって思ってたことがいっぱいあるの」
ソラは千夏の足元に伏せていた。
千夏は、その背中にそっと手を置いた。
「ごめんね、ソラ」
言葉にした瞬間、涙がこぼれた。
「ごめんね……」
「千夏」
秋斗の声は静かだった。
「ソラに謝りたいことがあるのは、わかるよ。でもさ」
秋斗は、池の向こうを見つめた。
「ソラと過ごした時間って、そんなに悪いものだったのか?」
「……え?」
「もっとできたことがあったのは、そうかもしれない。でも、お前が今までソラにしてきたことも、なくなるわけじゃないだろ」
千夏は顔を上げた。
「散歩に連れていったことも、一緒に寝たことも、毎日帰ってきて『ただいま』って言ったことも。全部、ソラと過ごした時間だ」
秋斗は少しだけ笑った。
「俺、ソラがお前の帰りを待ってるところ、何度も見たことがあるよ」
「……うん」
「お前が玄関を開けると、すぐに走っていってた。しっぽを振りすぎて、体まで揺れてさ」
千夏の目に、また涙が浮かんだ。
それは、何度も見た光景だった。
部活で疲れて帰った日も、テストの結果が悪かった日も。
玄関の向こうには、いつもソラがいた。
「ソラにとって、お前が帰ってくることは、特別なことだったんじゃないかな」
秋斗はそう言って、千夏を見た。
「だから、できなかったことばかり数えなくてもいいと思う」
千夏は何も答えられなかった。
心のどこかでは、わかっていた。
ソラと過ごした時間が、後悔だけでできているわけではないことくらい。
それでも、失うことが怖かった。
怖くて、怖くて。
過去の自分を責めていなければ、ソラがいなくなってしまうことを受け入れてしまうような気がした。
「……秋斗は」
千夏は、ようやく口を開いた。
「もし、大切な人がいなくなったら、どうする?」
秋斗の表情が変わった。
彼はすぐには答えなかった。
少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「わからない」
正直な答えだった。
「俺だって、そんなことになったら、どうしたらいいかわからないと思う」
「……そっか」
「でも」
秋斗は、千夏の手元に視線を落とした。
「忘れたくないとは思う」
千夏は彼を見つめた。
「悲しいからって、なかったことにはしたくない。楽しかったことも、くだらないことで笑ったことも。全部、覚えていたい」
秋斗は少し困ったように笑った。
「まあ、実際にそうなったら、きれいごとだけじゃ済まないんだろうけど」
「……うん」
「だから、今はわからない。でも、お前がつらいなら、俺は話くらい聞くよ」
その言葉は、飾り気がなかった。
慰めるために無理やり考えた言葉でもない。
ただ、秋斗が本当にそう思っているのだと伝わってきた。
千夏は、もう一度ソラを見た。
ソラは目を閉じていた。
穏やかな寝息が聞こえる。
今、この瞬間も、ソラはここにいる。
そのことが、たまらなく愛おしかった。
「ありがとう、秋斗」
「どういたしまして」
「……でも、私、まだ諦めないから」
秋斗は千夏を見た。
「何を?」
「ソラのこと」
千夏はリードを握りしめた。
「未来を変えられるなら、変えたい。ソラと、もっと一緒にいたい」
秋斗はしばらく黙っていた。
それから、力強くうなずいた。
「うん。俺も手伝う」
*
帰り道、千夏はソラの歩く速さに合わせて、ゆっくりと進んだ。
途中、ソラは何度か立ち止まった。
道端の草の匂いを嗅いだり、風に揺れる木の葉を見上げたり。
千夏は、そのたびに足を止めた。
いつもなら、学校の宿題や明日の予定を考えて、少し急かしていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
「ゆっくりでいいよ、ソラ」
そう声をかけると、ソラは千夏を見上げた。
黒い瞳が、朝の光を映している。
千夏はしゃがみ込み、その頭を撫でた。
「今日はいっぱい歩いたね」
ソラは千夏の手に鼻先を寄せた。
その温かさに触れた瞬間、千夏の胸が締めつけられた。
この温かさを、忘れたくない。
毛並みの感触も、息遣いも、こちらを見上げる目も。
何ひとつ、忘れたくない。
千夏は、首輪についた銀色の鈴を見つめた。
鈴には、小さなひびが入っている。
昨日よりも、ほんの少しだけ長くなっていた。
「……どうして?」
千夏が指先で触れた瞬間、鈴がかすかに鳴った。
ちりん。
澄んだ音が、風に乗って広がる。
そして。
『……千夏』
また、聞こえた。
幼いころから何度も聞いてきたような、懐かしい声。
千夏は息を止めた。
「ソラ……?」
ソラは、何も言わない。
ただ、千夏の顔を見つめている。
その目を見た瞬間、千夏の頭の中に、知らないはずの光景が浮かんだ。
夕焼けの公園。
小さな自分。
そして、まだ子犬だったソラ。
千夏は泣いていた。
何が悲しかったのかは、わからない。
けれど、子犬のソラは千夏の膝に前足をかけ、懸命に顔を舐めていた。
幼い千夏が、泣きながら笑う。
『ありがとう、ソラ』
そこで、光景は途切れた。
「……今のは、何?」
千夏は、鈴を握りしめた。
記憶だろうか。
それとも、鈴が見せてくれた幻なのだろうか。
わからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この鈴は、千夏を過去に戻しただけではない。
何かを伝えようとしている。
千夏はソラの顔を見つめた。
「ねえ、ソラ」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは、私に何を伝えたいの?」
ソラは答えなかった。
代わりに、千夏の手をぺろりと舐めた。
いつもと同じ仕草。
昔から、何も変わらない仕草。
千夏は、その手をソラの頭に添えた。
「……わかった。ちゃんと考えるね」
未来を変える方法だけではなく。
この七日間に隠された、本当の意味を。
*
その夜。
千夏は、ベッドの上で鈴を見つめていた。
小さなひびは、月明かりの下でかすかに光っている。
千夏はノートを開き、今日の出来事を書き込んだ。
ソラの様子。
公園で思い出したこと。
秋斗が話してくれたこと。
そして、鈴が見せた記憶。
最後に、千夏は一行だけ書き加えた。
――ソラと過ごす時間を、後悔だけで終わらせたくない。
書き終えた瞬間、鈴がかすかに鳴った。
ちりん。
千夏は顔を上げた。
今度は、声が聞こえなかった。
けれど、鈴の内側に刻まれた文字が、ほんの一瞬だけ浮かび上がった気がした。
それは、見覚えのない文字だった。
千夏は目を凝らす。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……何なの、これ」
胸の奥に、小さな不安が広がっていく。
もし、この七日間が、ただソラを救うために与えられた時間ではないのだとしたら。
もし、鈴が千夏に求めているものが、別にあるのだとしたら。
千夏は、鈴を両手で包み込んだ。
「お願い……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「ソラと一緒にいられる時間を、もう少しだけください」
返事はなかった。
窓の外で、風が吹いた。
そして、千夏の知らない場所で、銀色の鈴と同じ音が、もう一度だけ響いた。
まるで、誰かが遠くから、その願いを聞き届けたかのように。