さよならを言うために、君がくれた七日間
 十月二十一日。

 ソラと過ごす四度目の朝が来た。

 千夏は目を覚ますと、真っ先にベッドの横を見た。

 ソラは、いつもの場所で眠っていた。

 規則正しい寝息。ゆっくりと上下する背中。

 その姿を確認して、千夏はようやく息を吐いた。

「……よかった」

 何がよかったのか、自分でもわからない。

 ただ、朝を迎えるたびに、ソラがまだここにいることを確かめずにはいられなかった。

 千夏はベッドから降り、ソラの隣にしゃがんだ。

「おはよう、ソラ」

 頭を撫でる。

 ソラは目を開け、千夏の手に鼻先を寄せた。

「今日は何をしようか?」

 そう尋ねたところで、千夏はふと気づいた。

 昨日の夜、ソラのために何をするかばかり考えていた。

 何を食べさせよう。どこへ連れていこう。どんな検査を受けさせよう。どうすれば、未来を変えられるのだろう。

 けれど、ソラが何をしたいのか、ちゃんと考えていただろうか。

「……ソラは、何がしたい?」

 ソラは答えず、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、部屋のドアへ向かう。

「お散歩?」

 しっぽが一度、揺れた。

「うん。じゃあ、行こう」

 千夏はリードを手に取った。

 今日も、ソラの歩く速さに合わせて。

 ソラが立ち止まったら、一緒に立ち止まって。

 そんな一日を過ごそうと思った。

 未来を変える方法がわからなくても、今できることはある。

 そう思い始めていた。

 けれど、千夏はまだ知らなかった。

 自分が本当に向き合わなければならないものが、ソラの病気だけではないことを。

     *

 学校では、千夏の様子を見ていた美咲が、昼休みに声をかけてきた。

「千夏、ちょっといい?」

「うん。どうしたの?」

「それ、何?」

 美咲が指さしたのは、千夏の机に置かれたノートだった。

「あ……ソラの記録」

「記録?」

「食べたものとか、散歩の様子とか。体調が変わってないか、毎日書いてるの」

「そっか」

 美咲はノートを見つめた。

 そして、少し迷うようにしてから尋ねた。

「千夏、ちゃんと寝てる?」

「え?」

「最近、顔色がよくないよ。授業中もぼんやりしてるし」

「大丈夫だよ」

 千夏は反射的に答えた。

「ちょっと寝不足なだけだから」

「本当に?」

「うん」

 美咲は納得していない様子だった。

 千夏は慌てて笑った。

「心配しないで。ソラも、今は落ち着いてるから」

 その言葉を聞いて、美咲は小さくうなずいた。

「ならいいけど……」

 少し間を置いて、彼女は続けた。

「ねえ、千夏。私、ソラのこと、すごく好きだったよ」

 千夏は顔を上げた。

「美咲……」

「初めて千夏の家に遊びに行ったとき、ソラが玄関でずっと私の靴を嗅いでてさ。帰るときには、私の靴下をくわえて逃げたんだよね」

「あったね、そんなこと」

 千夏の口元が緩んだ。

「あのあと、家に帰ったら片方だけ靴下がなくて、すごく困ったんだよ」

「ごめんね。ソラ、気に入ったものを隠す癖があったから」

「今なら笑えるけど、あのときは本当に焦ったんだから」

 二人は笑った。

 けれど、美咲はすぐに表情を戻した。

「だからね、千夏」

 美咲は、千夏の目をまっすぐに見た。

「ソラのことを大切に思ってるのはわかるけど、千夏自身のことも大切にしてね」

「……うん」

「ソラのために頑張るのはいいことだと思う。でも、千夏が倒れちゃったら、ソラだって心配するよ」

 千夏は答えられなかった。

 心配してくれる人がいる。

 それは、ありがたいことだった。

 なのに。

 どうしてだろう。

 自分が苦しんでいることを、誰かに知られるのが怖かった。

 悲しいと口にすれば、もう取り返しのつかないことが起きると認めてしまうような気がした。

 だから千夏は、いつものように笑った。

「ありがとう、美咲。気をつけるね」

 美咲は何か言いたそうにしていたけれど、それ以上は何も尋ねなかった。

 その優しさが、千夏には少しだけ苦しかった。

     *

 放課後。

 千夏が家に帰ると、母の美和がキッチンで夕食の支度をしていた。

「ただいま」

「おかえり、千夏。ソラとお散歩してきた?」

「うん。今日はいつもよりゆっくり歩いたよ」

「そう。よかったね」

 美和は微笑んだ。

 その笑顔を見て、千夏はふと思った。

 母も、ソラがいなくなることを恐れているのだろうか。

 自分ばかりが怖がっているような気がしていた。

 けれど、母だって同じはずだ。

 ソラは千夏だけの家族ではない。

 母にとっても、父にとっても、長い時間を共に過ごしてきた大切な存在なのだから。

「お母さん」

「なあに?」

「……ソラのこと、心配?」

 美和の手が止まった。

 それから、ゆっくりと千夏を振り返った。

「もちろんよ」

「……そっか」

「千夏は?」

 尋ねられて、千夏はうつむいた。

「私は……」

 言葉が出てこなかった。

 本当は、怖い。

 怖くて、どうしようもない。

 でも、そんなことを口にしたら、母まで悲しませてしまう気がした。

「私は、大丈夫」

 結局、そう答えた。

 美和はしばらく千夏を見つめていた。

「千夏」

「なに?」

「お母さんの前では、無理に大丈夫って言わなくてもいいのよ」

 千夏の胸が、どくんと鳴った。

「……無理なんてしてないよ」

「そう?」

「うん」

 美和は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「わかったわ。夕飯ができるまで、ソラと一緒にいてあげてね」

「……うん」

 千夏は逃げるようにリビングを出た。

 廊下を歩きながら、唇を噛む。

 どうして、うまく話せないのだろう。

 どうして、自分の本当の気持ちを言えないのだろう。

 母に心配をかけたくない。

 美咲にも、秋斗にも、余計な心配をさせたくない。

 そう思っていた。

 けれど、本当は違うのかもしれない。

 自分の弱さを見せるのが、怖かったのだ。

     *

 夕食のあと、千夏はソラの隣に座った。

 ソラは少し疲れた様子で、クッションの上に横たわっていた。

「ソラ」

 千夏はそっと背中を撫でた。

「ねえ、聞いてくれる?」

 ソラの耳が、わずかに動く。

「私ね、最近、ちょっと変なんだ」

 千夏は苦笑した。

「ソラが元気でいてくれると、すごく嬉しいの。朝、目が覚めて、ソラがいると安心する。ごはんを食べてくれたら嬉しいし、散歩に行けたら、もっと嬉しい」

 言葉にしてみると、思っていた以上に簡単だった。

 自分が何を感じているのか、少しずつわかってくる。

「でもね、ソラが楽しそうにしてると、怖くなることもあるの」

 千夏の手が止まった。

「こんなに幸せなのに、いつか全部なくなっちゃうんだって思うと……今、笑っていてもいいのかなって」

 ソラは動かなかった。

 千夏はその背中に額を寄せた。

「私、ソラがいなくなるのが嫌だよ」

 声が震えた。

「嫌だ。絶対に嫌」

 目の奥が熱くなった。

「だって、ソラがいなくなったら、学校から帰ってきても、誰も玄関に来てくれないんだよ。私が落ち込んでても、そばにいてくれる子がいなくなるんだよ」

 涙が一粒、ソラの毛に落ちた。

「私が小さいころから、ずっと一緒だったのに」

 千夏は顔を上げた。

「ねえ、ソラ。私、どうしたらいいの?」

 返事はない。

 それでも千夏は、胸に溜め込んでいた言葉を止められなかった。

「もっと一緒にいたい。もっと、いろんなところに行きたい。もっと、ソラにありがとうって言いたい」

 唇が震える。

「だから……いなくならないで」

 その言葉を口にした瞬間、千夏は泣き崩れた。

「お願いだから……いなくならないでよ……!」

 ソラはゆっくりと顔を上げた。

 そして、千夏の手に鼻先を押しつけた。

 いつものように。

 昔、千夏が泣いていたときと同じように。

 千夏は、ソラを抱きしめた。

「ごめんね……ごめんね、ソラ……」

 謝りながら、何度も名前を呼んだ。

 ソラは、ただそばにいてくれた。

 その夜、千夏は初めて、誰にも隠さずに泣いた。

     *

 どれくらい、そうしていただろう。

 泣き疲れた千夏が顔を上げると、部屋の入り口に母が立っていた。

 美和は何も言わず、千夏の隣に座った。

「……お母さん」

「うん」

「ごめんね。心配かけて」

「謝らなくていいのよ」

 美和は千夏の肩を抱いた。

 その手は温かかった。

「千夏が悲しいときは、悲しいって言っていいの」

「……でも」

「お母さんだって、悲しいもの」

 千夏は母を見た。

 美和はソラを見つめながら、静かに話し始めた。

「ソラがうちに来た日のこと、覚えてる?」

「うん……」

「お父さんが連れて帰ってきたとき、まだ小さくてね。玄関に置いてあったお父さんの靴にじゃれて、なかなか離さなかったのよ」

 美和が小さく笑った。

「お父さん、次の日に新しい靴を買いに行ったの。ソラに噛まれたからって言ってたけど、本当は嬉しかったんだと思うわ」

 千夏も、涙を拭きながら笑った。

「そんなこと、あったね」

「ええ。あの子が来てから、家の中がずいぶん賑やかになったわ」

 美和はソラの頭を撫でた。

「だから、お母さんも怖いの。いつかソラがいなくなることを考えると、寂しくてたまらない」

「……お母さんも?」

「当たり前でしょう。ソラは、千夏だけじゃなくて、私たちみんなの家族なんだから」

 千夏の目から、また涙がこぼれた。

 自分だけが悲しいのだと思っていた。

 自分だけが、ソラを失うことを恐れているのだと思っていた。

 でも、違った。

 みんな同じだった。

 悲しいからこそ、笑っていた。

 怖いからこそ、いつもどおりに過ごそうとしていた。

 そして、千夏もまた、母の前で笑おうとしていた。

「……私、怖い」

 千夏は、母の服をぎゅっと握った。

「ソラがいなくなるのが、怖いよ」

「うん」

「もう、会えなくなるのが嫌だよ……」

「うん」

「私、どうしたらいいの……?」

 美和は答えを教えなかった。

 ただ、千夏を抱きしめてくれた。

「わからなくてもいいのよ」

 母の声が、耳元で聞こえた。

「今は、ソラと一緒にいましょう。悲しいときは、みんなで悲しんでいいの」

 千夏は、母の胸に顔を埋めた。

 温かかった。

 その温かさに甘えながら、千夏はもう一度、泣いた。

 今度は、謝らなかった。

     *

 夜が更けたころ。

 千夏はソラの隣で、銀色の鈴を手に取った。

 母と一緒に泣いたことで、胸の中にあったものが少しだけ軽くなっていた。

 もちろん、ソラを失うことが怖い気持ちは変わらない。

 それでも、悲しみを一人で抱え込まなくてもいいのだと思えた。

「ソラ」

 千夏は鈴をそっと撫でた。

「私、ちゃんと話すことにするね」

 秋斗にも。

 美咲にも。

 そして、ソラにも。

 自分が何を怖がっているのか。

 何を大切に思っているのか。

 言葉にしなければ、伝わらないことがある。

 そのときだった。

 ちりん。

 鈴が鳴った。

 千夏は顔を上げた。

 ひびの入った銀色の表面が、淡く光っている。

 そして、今までとは違う声が聞こえた。

『……だいじょうぶ』

 幼い子どものような、かすかな声。

 千夏は息を呑んだ。

「今の……誰?」

 光の中に、ぼんやりとした光景が浮かび上がる。

 幼い千夏が、ソラを抱きしめて笑っている。

 その傍らには、若いころの母がいた。

 母は、今と同じように優しく微笑んでいた。

 そして、幼い千夏の首元には、銀色の鈴が揺れていた。

 千夏は目を見開いた。

「どうして……?」

 この鈴は、いつからソラの首輪についていたのだろう。

 誰が、何のために用意したものなのだろう。

 そして、どうして今になって、こんな不思議なことが起きているのだろう。

 光が消える直前、鈴の内側に刻まれた文字が、はっきりと浮かび上がった。

 ――いつまでも、家族。

 千夏は、その言葉をじっと見つめた。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 これは、ただ過去へ戻るための鈴ではない。

 きっと、何か意味がある。

 千夏は、眠っているソラの頭を撫でた。

「ねえ、ソラ」

 小さな声で、語りかける。

「この鈴は、私に何を伝えようとしているの?」

 ソラは目を閉じたまま、静かに息をしていた。

 答えは、まだわからない。

 けれど千夏は、もう逃げないと決めた。

 ソラを救うために。

 そして、ソラと過ごした時間を、最後まで大切にするために。

 窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。

 千夏は鈴を胸元に抱き寄せ、目を閉じた。

 明日も、ソラと一緒に朝を迎えられますように。

 そう願いながら。
< 5 / 11 >

この作品をシェア

pagetop