さよならを言うために、君がくれた七日間
 十月二十二日。

 ソラと過ごす五度目の朝。

 千夏は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

 隣を見ると、ソラがこちらを向いて眠っている。

 少し白くなった口元。長い年月を一緒に過ごしてきた、大好きな顔。

 千夏はそっと手を伸ばし、その頭を撫でた。

「おはよう、ソラ」

 ソラは目を開けると、千夏の手に鼻先を寄せた。

「今日も会えたね」

 その言葉を口にした途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 昨日、母と一緒に泣いた。

 悲しいときは悲しいと言っていいのだと、ようやく思えた。

 それでも、朝が来るたびに思ってしまう。

 この朝が、ずっと続けばいいのに。

 ソラが隣で眠っている日々が、永遠に終わらなければいいのに。

 千夏は、ソラの首輪についた銀色の鈴を見た。

 ひびは、昨日よりも少しだけ長くなっていた。

 その内側に浮かんだ文字を、千夏は忘れていない。

 ――いつまでも、家族。

「……ねえ、ソラ」

 千夏は鈴に触れた。

「私、ちゃんと覚えておくからね」

 鈴は何も答えなかった。

 けれど、窓から差し込む朝日を受けて、小さく光った。

     *

 朝食のあと、千夏は古いアルバムを探すことにした。

 鈴が見せた光景。

 幼い自分と、子犬のソラ。そして、そのそばにいた母。

 あの記憶が本物なら、家のどこかに同じ場面を写した写真があるかもしれない。

「お母さん、昔のアルバムってどこにある?」

 キッチンで食器を片づけていた美和が、顔を上げた。

「押し入れの上の段にあると思うけど。どうしたの?」

「ちょっと見たくなって」

「ソラの写真?」

「うん」

 美和は柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、お母さんも一緒に探そうか」

 二人で押し入れを開けると、段ボール箱の奥から何冊ものアルバムが出てきた。

 千夏の七五三の写真。

 家族で出かけた海。

 小学校の入学式。

 ページをめくるたびに、忘れていた記憶が次々によみがえる。

「あ、これ!」

 千夏は一枚の写真を指さした。

 そこには、まだ小さなソラを抱き上げている自分が写っていた。

 幼い千夏は、ソラを胸に抱きしめて、満面の笑みを浮かべている。

 その横には、若い母が立っていた。

「これ……」

 千夏は写真を見つめた。

 鈴が見せた光景と、よく似ていた。

「このときのこと、覚えてる?」

 美和が尋ねた。

「ううん。小さすぎて、あんまり……」

「そうよね。千夏、まだ小学校に上がる前だったもの」

 美和は写真を手に取り、懐かしそうに眺めた。

「ソラがうちに来たばかりのころね。千夏、ずっとこの子を抱っこしていたのよ」

「私が?」

「ええ。お昼寝するときも、ソラのそばを離れたくないって言ってね」

 千夏は写真を見つめた。

 自分は、ずっとソラと一緒だった。

 それは覚えている。

 でも、覚えていない時間も、確かにあったのだ。

「……お母さん」

「なあに?」

「ソラがうちに来たとき、私、何か言ってた?」

 美和は少し考えたあと、笑った。

「言ってたわよ。『この子が大きくなっても、ずっと一緒にいる』って」

 千夏の指先が止まった。

「……ずっと一緒にいる?」

「そう。ソラが大人になっても、おじいちゃんになっても、ずっと一緒にいるんだって」

 美和は、千夏の頭を優しく撫でた。

「小さな千夏にとって、ソラは初めての大切な友達だったのね」

 千夏は、写真を胸に抱きしめた。

 そのとき。

 ふと、写真の端に小さな文字があることに気づいた。

 裏返してみると、幼い自分の字で、たどたどしく書かれていた。

 ――ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。

「……え?」

 千夏は息を止めた。

 こんなことを書いた記憶はなかった。

 母も驚いたように写真の裏を覗き込む。

「あら……こんなことを書いていたのね」

「お母さん、知ってたの?」

「いいえ。初めて見たわ」

 千夏は、文字を見つめた。

 ソラがいなくなっても。

 わたしはちゃんと笑う。

 幼い自分は、どうしてこんなことを書いたのだろう。

 まだ小さかったのに。

 大切な存在を失うことを、知っていたのだろうか。

 それとも、誰かに言われた言葉を、ただ書き写しただけなのだろうか。

 わからない。

 けれど、その文字を見ていると、胸の奥が痛くなった。

「……私、笑えるのかな」

 思わず、つぶやいていた。

 美和は何も言わず、千夏の隣に座った。

「今は、わからなくてもいいのよ」

「……うん」

「笑いたくないときは、笑わなくてもいい。でも、いつかまた笑える日が来たら、それも大切にしてほしいな」

 千夏は、写真をそっとアルバムに戻した。

 そして、もう一度、幼い自分の文字を見つめた。

 この約束は、いつかの自分が、未来の自分に残した言葉なのかもしれない。

 千夏はそう思った。

     *

 その日の午後。

 千夏は秋斗に連絡をした。

『今日、少し会える?』

 すぐに返事が来た。

『いいよ。いつもの公園でいい?』

『うん』

 待ち合わせ場所に着くと、秋斗はベンチに座っていた。

 千夏を見つけると、片手を上げる。

「おう」

「ごめんね、急に」

「別に。ソラは?」

「お母さんと家にいるよ。今日は少し疲れてるみたいだから」

「そっか」

 千夏は秋斗の隣に座った。

 しばらく、二人で公園を眺めた。

 昨日、ソラと一緒に歩いた道。

 小さなころ、何度も遊んだ場所。

 見慣れた景色なのに、今日は少し違って見えた。

「秋斗」

「ん?」

「私、あなたに話したいことがあるの」

 秋斗は千夏を見た。

「うん」

 千夏は膝の上で手を握りしめた。

 何から話せばいいのか、わからなかった。

 時間が戻ったこと。

 ソラがいなくなる未来を知っていること。

 銀色の鈴が光ること。

 鈴が、過去の記憶を見せてくれること。

 どれも、普通なら信じられない話だ。

 それでも、千夏はあらためて話そうと決めていた。

「前にも言ったけど……私、ソラが亡くなる日のことを知ってるの」

 秋斗の表情が変わった。

「ああ」

「本当は、今より先の時間にいたんだよ」

 千夏は、ゆっくりと話し始めた。

 ソラがいなくなって三日間、何もできなかったこと。

 首輪の鈴を握りしめて、もう一度会いたいと願ったこと。

 目を覚ますと、ソラが生きていたこと。

 日付が、ソラの亡くなる七日前に戻っていたこと。

 そして、鈴が不思議な光を放ち、声や記憶を見せること。

 秋斗は、途中で口を挟まなかった。

 ただ、千夏の話を最後まで聞いていた。

 すべて話し終えたとき、千夏は不安になって彼の顔を見た。

「……信じられないよね」

 秋斗は、しばらく黙っていた。

「正直に言うと、時間が戻ったなんて、すぐには信じられない」

 千夏の胸が、少しだけ沈んだ。

「……うん」

「でも」

 秋斗は、まっすぐに千夏を見た。

「お前が、ソラを失うのが怖くて、必死になってることはわかる」

「秋斗……」

「それに、嘘をついているようには見えない」

 千夏は、目を見開いた。

「だから、俺はお前の話じゃなくて、お前を信じんている」

 秋斗は、少し照れくさそうに笑った。

「全部を理解できたわけじゃないけどさ。お前が見ているものを、最初から否定したくない」

 千夏の目に、涙が浮かんだ。

 今度は、悲しいからではなかった。

「……ありがとう」

「礼を言うのは早いだろ。俺、時間を戻す方法なんて知らないぞ」

「ふふっ……そうだね」

「でも、できることはあると思う。ソラの体調を一緒に見たり、お前が無理してないか気にしたり」

 秋斗は少し考えてから、付け加えた。

「あと、ソラとの思い出を、ちゃんと残すことも」

 千夏は、彼を見つめた。

「思い出を残す?」

「写真を撮るとか、動画を撮るとか。ソラが好きだった場所に行くとか。お前がやりたいこと、まだあるんだろ?」

 千夏はうなずいた。

 たくさんある。

 一緒に海を見たい。

 お気に入りの公園を、もう一度歩きたい。

 家族みんなで写真を撮りたい。

 ソラに、ありがとうと伝えたい。

 そして、できることなら。

 もっと、もっと一緒にいたい。

「……あるよ」

「じゃあ、やろう」

 秋斗は立ち上がった。

「時間は限られてるんだろ?」

 その言葉に、千夏の胸が痛んだ。

 けれど、秋斗は続けた。

「だったら、後悔する時間を少しでも減らそうぜ」

 千夏は、ゆっくりとうなずいた。

「うん」

 今度は、逃げずに答えられた。

     *

 帰宅した千夏は、ソラのそばに座り、スマートフォンを取り出した。

「ソラ、こっち向いて」

 カメラを構える。

 ソラは、少し不思議そうに千夏を見た。

「うん、いい顔」

 シャッターを切る。

 画面の中には、いつものソラが写っていた。

 少し眠そうで、穏やかで、千夏のことを見つめている。

 それだけの写真なのに、千夏は何度も見返した。

「……かわいい」

 声に出すと、ソラのしっぽが揺れた。

 千夏は笑った。

 そして、今度は自分も一緒に写ることにした。

 スマートフォンを棚に立てかけ、タイマーを設定する。

「ソラ、こっちだよ」

 千夏が隣に座ると、ソラはゆっくりと体を寄せてきた。

 シャッターが切れる直前、千夏はソラの頭に頬を寄せた。

 撮れた写真には、笑っている千夏と、少し眠そうなソラが写っていた。

 千夏は、その写真を大切に保存した。

 それから、ソラの首輪についた鈴を見つめる。

 ひびは、さらに深くなっていた。

「……このままじゃ、いつか壊れそう」

 千夏がつぶやいた瞬間、鈴が淡く光った。

 ちりん。

 音が響く。

 そして、今度は声だけではなく、はっきりとした映像が浮かび上がった。

 夕暮れの道。

 幼い千夏が、ソラを抱きしめている。

 その小さな手には、銀色の鈴が握られていた。

『ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う』

 幼い千夏の声が、遠くから聞こえた。

 続いて、別の声がした。

『うん。約束ね』

 それは、母の声だった。

 千夏は息を止めた。

 あの写真の裏に書かれていた言葉。

 あれは、ただの落書きではなかったのだ。

 幼い自分は、誰かと約束していた。

 ソラがいなくなっても、ちゃんと笑うと。

 けれど、その記憶はすぐに消えてしまった。

「待って……!」

 千夏は鈴を握りしめた。

「もう少し、見せて……!」

 光は戻らなかった。

 部屋には、いつもの静けさが広がっていた。

 千夏は、しばらく動けなかった。

 鈴が見せてくれる記憶には、何か意味がある。

 自分が忘れてしまった約束。

 母が知っているかもしれない過去。

 そして、ソラが千夏に伝えようとしていること。

 すべてが、少しずつつながり始めている。

 千夏はソラの頭を撫でた。

「……わかったよ」

 小さく、つぶやく。

「私、ちゃんと向き合うから」

 ソラが生きている今に。

 いつか訪れる別れに。

 そして、自分が忘れてしまった約束に。

     *

 その夜。

 千夏は、ノートの最後のページに新しい言葉を書き込んだ。

 ――ソラと過ごせる時間を、一秒でも多く大切にする。

 ――怖くても、気持ちを伝える。

 ――悲しい未来を知っていても、今の幸せを諦めない。

 書き終えたあと、千夏は少し考えた。

 そして、もう一行を加えた。

 ――ソラがいなくなっても、私はソラを忘れない。

 ペンを置く。

 窓の外では、月が静かに輝いていた。

 千夏は、ソラの首輪から鈴をそっと外した。

 壊れてしまう前に、確かめたいことがあったからだ。

 鈴の内側には、昨日と同じ文字が刻まれていた。

 ――いつまでも、家族。

 千夏はその文字を指でなぞった。

「……ねえ、ソラ」

 眠っているソラに、そっと話しかける。

「私たち、約束してたんだね」

 そのとき。

 鈴のひびが、かすかに光った。

 千夏は顔を上げた。

 今度は、声が聞こえなかった。

 けれど、鈴の奥から伝わってくるような、不思議な温かさがあった。

 それは、まるで。

 忘れてしまった約束を、もう一度思い出してほしいと願っているかのようだった。

 千夏は鈴を両手で包み込んだ。

「大丈夫」

 今度は、自分自身に言い聞かせるように。

「約束を、思い出すから」

 ソラの寝息を聞きながら、千夏は目を閉じた。

 明日は、六日目。

 残された時間は、少なくなっている。

 それでも千夏は、もう一人ではなかった。

 秋斗がいる。

 美咲がいる。

 母がいる。

 そして、今はまだ、ソラがそばにいる。

 千夏は、その幸せを胸に刻みつけるように、ソラの頭を優しく撫で続けた。

 いつか、この温もりを思い出す日が来ても。

 この時間を、悲しみだけで終わらせないために。
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