さよならを言うために、君がくれた七日間
十月二十二日。
ソラと過ごす五度目の朝。
千夏は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
隣を見ると、ソラがこちらを向いて眠っている。
少し白くなった口元。長い年月を一緒に過ごしてきた、大好きな顔。
千夏はそっと手を伸ばし、その頭を撫でた。
「おはよう、ソラ」
ソラは目を開けると、千夏の手に鼻先を寄せた。
「今日も会えたね」
その言葉を口にした途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
昨日、母と一緒に泣いた。
悲しいときは悲しいと言っていいのだと、ようやく思えた。
それでも、朝が来るたびに思ってしまう。
この朝が、ずっと続けばいいのに。
ソラが隣で眠っている日々が、永遠に終わらなければいいのに。
千夏は、ソラの首輪についた銀色の鈴を見た。
ひびは、昨日よりも少しだけ長くなっていた。
その内側に浮かんだ文字を、千夏は忘れていない。
――いつまでも、家族。
「……ねえ、ソラ」
千夏は鈴に触れた。
「私、ちゃんと覚えておくからね」
鈴は何も答えなかった。
けれど、窓から差し込む朝日を受けて、小さく光った。
*
朝食のあと、千夏は古いアルバムを探すことにした。
鈴が見せた光景。
幼い自分と、子犬のソラ。そして、そのそばにいた母。
あの記憶が本物なら、家のどこかに同じ場面を写した写真があるかもしれない。
「お母さん、昔のアルバムってどこにある?」
キッチンで食器を片づけていた美和が、顔を上げた。
「押し入れの上の段にあると思うけど。どうしたの?」
「ちょっと見たくなって」
「ソラの写真?」
「うん」
美和は柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、お母さんも一緒に探そうか」
二人で押し入れを開けると、段ボール箱の奥から何冊ものアルバムが出てきた。
千夏の七五三の写真。
家族で出かけた海。
小学校の入学式。
ページをめくるたびに、忘れていた記憶が次々によみがえる。
「あ、これ!」
千夏は一枚の写真を指さした。
そこには、まだ小さなソラを抱き上げている自分が写っていた。
幼い千夏は、ソラを胸に抱きしめて、満面の笑みを浮かべている。
その横には、若い母が立っていた。
「これ……」
千夏は写真を見つめた。
鈴が見せた光景と、よく似ていた。
「このときのこと、覚えてる?」
美和が尋ねた。
「ううん。小さすぎて、あんまり……」
「そうよね。千夏、まだ小学校に上がる前だったもの」
美和は写真を手に取り、懐かしそうに眺めた。
「ソラがうちに来たばかりのころね。千夏、ずっとこの子を抱っこしていたのよ」
「私が?」
「ええ。お昼寝するときも、ソラのそばを離れたくないって言ってね」
千夏は写真を見つめた。
自分は、ずっとソラと一緒だった。
それは覚えている。
でも、覚えていない時間も、確かにあったのだ。
「……お母さん」
「なあに?」
「ソラがうちに来たとき、私、何か言ってた?」
美和は少し考えたあと、笑った。
「言ってたわよ。『この子が大きくなっても、ずっと一緒にいる』って」
千夏の指先が止まった。
「……ずっと一緒にいる?」
「そう。ソラが大人になっても、おじいちゃんになっても、ずっと一緒にいるんだって」
美和は、千夏の頭を優しく撫でた。
「小さな千夏にとって、ソラは初めての大切な友達だったのね」
千夏は、写真を胸に抱きしめた。
そのとき。
ふと、写真の端に小さな文字があることに気づいた。
裏返してみると、幼い自分の字で、たどたどしく書かれていた。
――ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。
「……え?」
千夏は息を止めた。
こんなことを書いた記憶はなかった。
母も驚いたように写真の裏を覗き込む。
「あら……こんなことを書いていたのね」
「お母さん、知ってたの?」
「いいえ。初めて見たわ」
千夏は、文字を見つめた。
ソラがいなくなっても。
わたしはちゃんと笑う。
幼い自分は、どうしてこんなことを書いたのだろう。
まだ小さかったのに。
大切な存在を失うことを、知っていたのだろうか。
それとも、誰かに言われた言葉を、ただ書き写しただけなのだろうか。
わからない。
けれど、その文字を見ていると、胸の奥が痛くなった。
「……私、笑えるのかな」
思わず、つぶやいていた。
美和は何も言わず、千夏の隣に座った。
「今は、わからなくてもいいのよ」
「……うん」
「笑いたくないときは、笑わなくてもいい。でも、いつかまた笑える日が来たら、それも大切にしてほしいな」
千夏は、写真をそっとアルバムに戻した。
そして、もう一度、幼い自分の文字を見つめた。
この約束は、いつかの自分が、未来の自分に残した言葉なのかもしれない。
千夏はそう思った。
*
その日の午後。
千夏は秋斗に連絡をした。
『今日、少し会える?』
すぐに返事が来た。
『いいよ。いつもの公園でいい?』
『うん』
待ち合わせ場所に着くと、秋斗はベンチに座っていた。
千夏を見つけると、片手を上げる。
「おう」
「ごめんね、急に」
「別に。ソラは?」
「お母さんと家にいるよ。今日は少し疲れてるみたいだから」
「そっか」
千夏は秋斗の隣に座った。
しばらく、二人で公園を眺めた。
昨日、ソラと一緒に歩いた道。
小さなころ、何度も遊んだ場所。
見慣れた景色なのに、今日は少し違って見えた。
「秋斗」
「ん?」
「私、あなたに話したいことがあるの」
秋斗は千夏を見た。
「うん」
千夏は膝の上で手を握りしめた。
何から話せばいいのか、わからなかった。
時間が戻ったこと。
ソラがいなくなる未来を知っていること。
銀色の鈴が光ること。
鈴が、過去の記憶を見せてくれること。
どれも、普通なら信じられない話だ。
それでも、千夏はあらためて話そうと決めていた。
「前にも言ったけど……私、ソラが亡くなる日のことを知ってるの」
秋斗の表情が変わった。
「ああ」
「本当は、今より先の時間にいたんだよ」
千夏は、ゆっくりと話し始めた。
ソラがいなくなって三日間、何もできなかったこと。
首輪の鈴を握りしめて、もう一度会いたいと願ったこと。
目を覚ますと、ソラが生きていたこと。
日付が、ソラの亡くなる七日前に戻っていたこと。
そして、鈴が不思議な光を放ち、声や記憶を見せること。
秋斗は、途中で口を挟まなかった。
ただ、千夏の話を最後まで聞いていた。
すべて話し終えたとき、千夏は不安になって彼の顔を見た。
「……信じられないよね」
秋斗は、しばらく黙っていた。
「正直に言うと、時間が戻ったなんて、すぐには信じられない」
千夏の胸が、少しだけ沈んだ。
「……うん」
「でも」
秋斗は、まっすぐに千夏を見た。
「お前が、ソラを失うのが怖くて、必死になってることはわかる」
「秋斗……」
「それに、嘘をついているようには見えない」
千夏は、目を見開いた。
「だから、俺はお前の話じゃなくて、お前を信じんている」
秋斗は、少し照れくさそうに笑った。
「全部を理解できたわけじゃないけどさ。お前が見ているものを、最初から否定したくない」
千夏の目に、涙が浮かんだ。
今度は、悲しいからではなかった。
「……ありがとう」
「礼を言うのは早いだろ。俺、時間を戻す方法なんて知らないぞ」
「ふふっ……そうだね」
「でも、できることはあると思う。ソラの体調を一緒に見たり、お前が無理してないか気にしたり」
秋斗は少し考えてから、付け加えた。
「あと、ソラとの思い出を、ちゃんと残すことも」
千夏は、彼を見つめた。
「思い出を残す?」
「写真を撮るとか、動画を撮るとか。ソラが好きだった場所に行くとか。お前がやりたいこと、まだあるんだろ?」
千夏はうなずいた。
たくさんある。
一緒に海を見たい。
お気に入りの公園を、もう一度歩きたい。
家族みんなで写真を撮りたい。
ソラに、ありがとうと伝えたい。
そして、できることなら。
もっと、もっと一緒にいたい。
「……あるよ」
「じゃあ、やろう」
秋斗は立ち上がった。
「時間は限られてるんだろ?」
その言葉に、千夏の胸が痛んだ。
けれど、秋斗は続けた。
「だったら、後悔する時間を少しでも減らそうぜ」
千夏は、ゆっくりとうなずいた。
「うん」
今度は、逃げずに答えられた。
*
帰宅した千夏は、ソラのそばに座り、スマートフォンを取り出した。
「ソラ、こっち向いて」
カメラを構える。
ソラは、少し不思議そうに千夏を見た。
「うん、いい顔」
シャッターを切る。
画面の中には、いつものソラが写っていた。
少し眠そうで、穏やかで、千夏のことを見つめている。
それだけの写真なのに、千夏は何度も見返した。
「……かわいい」
声に出すと、ソラのしっぽが揺れた。
千夏は笑った。
そして、今度は自分も一緒に写ることにした。
スマートフォンを棚に立てかけ、タイマーを設定する。
「ソラ、こっちだよ」
千夏が隣に座ると、ソラはゆっくりと体を寄せてきた。
シャッターが切れる直前、千夏はソラの頭に頬を寄せた。
撮れた写真には、笑っている千夏と、少し眠そうなソラが写っていた。
千夏は、その写真を大切に保存した。
それから、ソラの首輪についた鈴を見つめる。
ひびは、さらに深くなっていた。
「……このままじゃ、いつか壊れそう」
千夏がつぶやいた瞬間、鈴が淡く光った。
ちりん。
音が響く。
そして、今度は声だけではなく、はっきりとした映像が浮かび上がった。
夕暮れの道。
幼い千夏が、ソラを抱きしめている。
その小さな手には、銀色の鈴が握られていた。
『ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う』
幼い千夏の声が、遠くから聞こえた。
続いて、別の声がした。
『うん。約束ね』
それは、母の声だった。
千夏は息を止めた。
あの写真の裏に書かれていた言葉。
あれは、ただの落書きではなかったのだ。
幼い自分は、誰かと約束していた。
ソラがいなくなっても、ちゃんと笑うと。
けれど、その記憶はすぐに消えてしまった。
「待って……!」
千夏は鈴を握りしめた。
「もう少し、見せて……!」
光は戻らなかった。
部屋には、いつもの静けさが広がっていた。
千夏は、しばらく動けなかった。
鈴が見せてくれる記憶には、何か意味がある。
自分が忘れてしまった約束。
母が知っているかもしれない過去。
そして、ソラが千夏に伝えようとしていること。
すべてが、少しずつつながり始めている。
千夏はソラの頭を撫でた。
「……わかったよ」
小さく、つぶやく。
「私、ちゃんと向き合うから」
ソラが生きている今に。
いつか訪れる別れに。
そして、自分が忘れてしまった約束に。
*
その夜。
千夏は、ノートの最後のページに新しい言葉を書き込んだ。
――ソラと過ごせる時間を、一秒でも多く大切にする。
――怖くても、気持ちを伝える。
――悲しい未来を知っていても、今の幸せを諦めない。
書き終えたあと、千夏は少し考えた。
そして、もう一行を加えた。
――ソラがいなくなっても、私はソラを忘れない。
ペンを置く。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
千夏は、ソラの首輪から鈴をそっと外した。
壊れてしまう前に、確かめたいことがあったからだ。
鈴の内側には、昨日と同じ文字が刻まれていた。
――いつまでも、家族。
千夏はその文字を指でなぞった。
「……ねえ、ソラ」
眠っているソラに、そっと話しかける。
「私たち、約束してたんだね」
そのとき。
鈴のひびが、かすかに光った。
千夏は顔を上げた。
今度は、声が聞こえなかった。
けれど、鈴の奥から伝わってくるような、不思議な温かさがあった。
それは、まるで。
忘れてしまった約束を、もう一度思い出してほしいと願っているかのようだった。
千夏は鈴を両手で包み込んだ。
「大丈夫」
今度は、自分自身に言い聞かせるように。
「約束を、思い出すから」
ソラの寝息を聞きながら、千夏は目を閉じた。
明日は、六日目。
残された時間は、少なくなっている。
それでも千夏は、もう一人ではなかった。
秋斗がいる。
美咲がいる。
母がいる。
そして、今はまだ、ソラがそばにいる。
千夏は、その幸せを胸に刻みつけるように、ソラの頭を優しく撫で続けた。
いつか、この温もりを思い出す日が来ても。
この時間を、悲しみだけで終わらせないために。
ソラと過ごす五度目の朝。
千夏は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
隣を見ると、ソラがこちらを向いて眠っている。
少し白くなった口元。長い年月を一緒に過ごしてきた、大好きな顔。
千夏はそっと手を伸ばし、その頭を撫でた。
「おはよう、ソラ」
ソラは目を開けると、千夏の手に鼻先を寄せた。
「今日も会えたね」
その言葉を口にした途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
昨日、母と一緒に泣いた。
悲しいときは悲しいと言っていいのだと、ようやく思えた。
それでも、朝が来るたびに思ってしまう。
この朝が、ずっと続けばいいのに。
ソラが隣で眠っている日々が、永遠に終わらなければいいのに。
千夏は、ソラの首輪についた銀色の鈴を見た。
ひびは、昨日よりも少しだけ長くなっていた。
その内側に浮かんだ文字を、千夏は忘れていない。
――いつまでも、家族。
「……ねえ、ソラ」
千夏は鈴に触れた。
「私、ちゃんと覚えておくからね」
鈴は何も答えなかった。
けれど、窓から差し込む朝日を受けて、小さく光った。
*
朝食のあと、千夏は古いアルバムを探すことにした。
鈴が見せた光景。
幼い自分と、子犬のソラ。そして、そのそばにいた母。
あの記憶が本物なら、家のどこかに同じ場面を写した写真があるかもしれない。
「お母さん、昔のアルバムってどこにある?」
キッチンで食器を片づけていた美和が、顔を上げた。
「押し入れの上の段にあると思うけど。どうしたの?」
「ちょっと見たくなって」
「ソラの写真?」
「うん」
美和は柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、お母さんも一緒に探そうか」
二人で押し入れを開けると、段ボール箱の奥から何冊ものアルバムが出てきた。
千夏の七五三の写真。
家族で出かけた海。
小学校の入学式。
ページをめくるたびに、忘れていた記憶が次々によみがえる。
「あ、これ!」
千夏は一枚の写真を指さした。
そこには、まだ小さなソラを抱き上げている自分が写っていた。
幼い千夏は、ソラを胸に抱きしめて、満面の笑みを浮かべている。
その横には、若い母が立っていた。
「これ……」
千夏は写真を見つめた。
鈴が見せた光景と、よく似ていた。
「このときのこと、覚えてる?」
美和が尋ねた。
「ううん。小さすぎて、あんまり……」
「そうよね。千夏、まだ小学校に上がる前だったもの」
美和は写真を手に取り、懐かしそうに眺めた。
「ソラがうちに来たばかりのころね。千夏、ずっとこの子を抱っこしていたのよ」
「私が?」
「ええ。お昼寝するときも、ソラのそばを離れたくないって言ってね」
千夏は写真を見つめた。
自分は、ずっとソラと一緒だった。
それは覚えている。
でも、覚えていない時間も、確かにあったのだ。
「……お母さん」
「なあに?」
「ソラがうちに来たとき、私、何か言ってた?」
美和は少し考えたあと、笑った。
「言ってたわよ。『この子が大きくなっても、ずっと一緒にいる』って」
千夏の指先が止まった。
「……ずっと一緒にいる?」
「そう。ソラが大人になっても、おじいちゃんになっても、ずっと一緒にいるんだって」
美和は、千夏の頭を優しく撫でた。
「小さな千夏にとって、ソラは初めての大切な友達だったのね」
千夏は、写真を胸に抱きしめた。
そのとき。
ふと、写真の端に小さな文字があることに気づいた。
裏返してみると、幼い自分の字で、たどたどしく書かれていた。
――ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。
「……え?」
千夏は息を止めた。
こんなことを書いた記憶はなかった。
母も驚いたように写真の裏を覗き込む。
「あら……こんなことを書いていたのね」
「お母さん、知ってたの?」
「いいえ。初めて見たわ」
千夏は、文字を見つめた。
ソラがいなくなっても。
わたしはちゃんと笑う。
幼い自分は、どうしてこんなことを書いたのだろう。
まだ小さかったのに。
大切な存在を失うことを、知っていたのだろうか。
それとも、誰かに言われた言葉を、ただ書き写しただけなのだろうか。
わからない。
けれど、その文字を見ていると、胸の奥が痛くなった。
「……私、笑えるのかな」
思わず、つぶやいていた。
美和は何も言わず、千夏の隣に座った。
「今は、わからなくてもいいのよ」
「……うん」
「笑いたくないときは、笑わなくてもいい。でも、いつかまた笑える日が来たら、それも大切にしてほしいな」
千夏は、写真をそっとアルバムに戻した。
そして、もう一度、幼い自分の文字を見つめた。
この約束は、いつかの自分が、未来の自分に残した言葉なのかもしれない。
千夏はそう思った。
*
その日の午後。
千夏は秋斗に連絡をした。
『今日、少し会える?』
すぐに返事が来た。
『いいよ。いつもの公園でいい?』
『うん』
待ち合わせ場所に着くと、秋斗はベンチに座っていた。
千夏を見つけると、片手を上げる。
「おう」
「ごめんね、急に」
「別に。ソラは?」
「お母さんと家にいるよ。今日は少し疲れてるみたいだから」
「そっか」
千夏は秋斗の隣に座った。
しばらく、二人で公園を眺めた。
昨日、ソラと一緒に歩いた道。
小さなころ、何度も遊んだ場所。
見慣れた景色なのに、今日は少し違って見えた。
「秋斗」
「ん?」
「私、あなたに話したいことがあるの」
秋斗は千夏を見た。
「うん」
千夏は膝の上で手を握りしめた。
何から話せばいいのか、わからなかった。
時間が戻ったこと。
ソラがいなくなる未来を知っていること。
銀色の鈴が光ること。
鈴が、過去の記憶を見せてくれること。
どれも、普通なら信じられない話だ。
それでも、千夏はあらためて話そうと決めていた。
「前にも言ったけど……私、ソラが亡くなる日のことを知ってるの」
秋斗の表情が変わった。
「ああ」
「本当は、今より先の時間にいたんだよ」
千夏は、ゆっくりと話し始めた。
ソラがいなくなって三日間、何もできなかったこと。
首輪の鈴を握りしめて、もう一度会いたいと願ったこと。
目を覚ますと、ソラが生きていたこと。
日付が、ソラの亡くなる七日前に戻っていたこと。
そして、鈴が不思議な光を放ち、声や記憶を見せること。
秋斗は、途中で口を挟まなかった。
ただ、千夏の話を最後まで聞いていた。
すべて話し終えたとき、千夏は不安になって彼の顔を見た。
「……信じられないよね」
秋斗は、しばらく黙っていた。
「正直に言うと、時間が戻ったなんて、すぐには信じられない」
千夏の胸が、少しだけ沈んだ。
「……うん」
「でも」
秋斗は、まっすぐに千夏を見た。
「お前が、ソラを失うのが怖くて、必死になってることはわかる」
「秋斗……」
「それに、嘘をついているようには見えない」
千夏は、目を見開いた。
「だから、俺はお前の話じゃなくて、お前を信じんている」
秋斗は、少し照れくさそうに笑った。
「全部を理解できたわけじゃないけどさ。お前が見ているものを、最初から否定したくない」
千夏の目に、涙が浮かんだ。
今度は、悲しいからではなかった。
「……ありがとう」
「礼を言うのは早いだろ。俺、時間を戻す方法なんて知らないぞ」
「ふふっ……そうだね」
「でも、できることはあると思う。ソラの体調を一緒に見たり、お前が無理してないか気にしたり」
秋斗は少し考えてから、付け加えた。
「あと、ソラとの思い出を、ちゃんと残すことも」
千夏は、彼を見つめた。
「思い出を残す?」
「写真を撮るとか、動画を撮るとか。ソラが好きだった場所に行くとか。お前がやりたいこと、まだあるんだろ?」
千夏はうなずいた。
たくさんある。
一緒に海を見たい。
お気に入りの公園を、もう一度歩きたい。
家族みんなで写真を撮りたい。
ソラに、ありがとうと伝えたい。
そして、できることなら。
もっと、もっと一緒にいたい。
「……あるよ」
「じゃあ、やろう」
秋斗は立ち上がった。
「時間は限られてるんだろ?」
その言葉に、千夏の胸が痛んだ。
けれど、秋斗は続けた。
「だったら、後悔する時間を少しでも減らそうぜ」
千夏は、ゆっくりとうなずいた。
「うん」
今度は、逃げずに答えられた。
*
帰宅した千夏は、ソラのそばに座り、スマートフォンを取り出した。
「ソラ、こっち向いて」
カメラを構える。
ソラは、少し不思議そうに千夏を見た。
「うん、いい顔」
シャッターを切る。
画面の中には、いつものソラが写っていた。
少し眠そうで、穏やかで、千夏のことを見つめている。
それだけの写真なのに、千夏は何度も見返した。
「……かわいい」
声に出すと、ソラのしっぽが揺れた。
千夏は笑った。
そして、今度は自分も一緒に写ることにした。
スマートフォンを棚に立てかけ、タイマーを設定する。
「ソラ、こっちだよ」
千夏が隣に座ると、ソラはゆっくりと体を寄せてきた。
シャッターが切れる直前、千夏はソラの頭に頬を寄せた。
撮れた写真には、笑っている千夏と、少し眠そうなソラが写っていた。
千夏は、その写真を大切に保存した。
それから、ソラの首輪についた鈴を見つめる。
ひびは、さらに深くなっていた。
「……このままじゃ、いつか壊れそう」
千夏がつぶやいた瞬間、鈴が淡く光った。
ちりん。
音が響く。
そして、今度は声だけではなく、はっきりとした映像が浮かび上がった。
夕暮れの道。
幼い千夏が、ソラを抱きしめている。
その小さな手には、銀色の鈴が握られていた。
『ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う』
幼い千夏の声が、遠くから聞こえた。
続いて、別の声がした。
『うん。約束ね』
それは、母の声だった。
千夏は息を止めた。
あの写真の裏に書かれていた言葉。
あれは、ただの落書きではなかったのだ。
幼い自分は、誰かと約束していた。
ソラがいなくなっても、ちゃんと笑うと。
けれど、その記憶はすぐに消えてしまった。
「待って……!」
千夏は鈴を握りしめた。
「もう少し、見せて……!」
光は戻らなかった。
部屋には、いつもの静けさが広がっていた。
千夏は、しばらく動けなかった。
鈴が見せてくれる記憶には、何か意味がある。
自分が忘れてしまった約束。
母が知っているかもしれない過去。
そして、ソラが千夏に伝えようとしていること。
すべてが、少しずつつながり始めている。
千夏はソラの頭を撫でた。
「……わかったよ」
小さく、つぶやく。
「私、ちゃんと向き合うから」
ソラが生きている今に。
いつか訪れる別れに。
そして、自分が忘れてしまった約束に。
*
その夜。
千夏は、ノートの最後のページに新しい言葉を書き込んだ。
――ソラと過ごせる時間を、一秒でも多く大切にする。
――怖くても、気持ちを伝える。
――悲しい未来を知っていても、今の幸せを諦めない。
書き終えたあと、千夏は少し考えた。
そして、もう一行を加えた。
――ソラがいなくなっても、私はソラを忘れない。
ペンを置く。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
千夏は、ソラの首輪から鈴をそっと外した。
壊れてしまう前に、確かめたいことがあったからだ。
鈴の内側には、昨日と同じ文字が刻まれていた。
――いつまでも、家族。
千夏はその文字を指でなぞった。
「……ねえ、ソラ」
眠っているソラに、そっと話しかける。
「私たち、約束してたんだね」
そのとき。
鈴のひびが、かすかに光った。
千夏は顔を上げた。
今度は、声が聞こえなかった。
けれど、鈴の奥から伝わってくるような、不思議な温かさがあった。
それは、まるで。
忘れてしまった約束を、もう一度思い出してほしいと願っているかのようだった。
千夏は鈴を両手で包み込んだ。
「大丈夫」
今度は、自分自身に言い聞かせるように。
「約束を、思い出すから」
ソラの寝息を聞きながら、千夏は目を閉じた。
明日は、六日目。
残された時間は、少なくなっている。
それでも千夏は、もう一人ではなかった。
秋斗がいる。
美咲がいる。
母がいる。
そして、今はまだ、ソラがそばにいる。
千夏は、その幸せを胸に刻みつけるように、ソラの頭を優しく撫で続けた。
いつか、この温もりを思い出す日が来ても。
この時間を、悲しみだけで終わらせないために。