さよならを言うために、君がくれた七日間
 十月二十三日。

 ソラと過ごす朝。

 千夏は、いつもより早く目を覚ました。

 窓の外は、まだ薄暗い。

 隣で眠っているソラの背中に、そっと手を伸ばす。

「……おはよう、ソラ」

 返事の代わりに、ソラのしっぽが布団の上で小さく揺れた。

 千夏は微笑んだ。

 今日も、会えた。

 それだけで、嬉しかった。

 けれど、ソラが起き上がるまでには、いつもより少し時間がかかった。

「ソラ?」

 千夏が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。

 立ち上がろうとして、いったん前足を踏ん張る。

 千夏の笑顔が消えた。

「……大丈夫?」

 ソラは何事もなかったように歩き出した。

 けれど、千夏は見逃さなかった。

 昨日までと、何かが違う。

 ほんのわずかな変化。

 それでも、千夏にはわかった。

 ずっと一緒に暮らしてきたから。

 ソラの小さな変化を、誰よりも知っているつもりだったから。

「お母さん!」

 千夏は部屋を飛び出した。

     *

 動物病院で、獣医師はソラの様子を丁寧に確認した。

 千夏と母の美和は、診察室の椅子に並んで座っていた。

 千夏は膝の上で両手を握りしめていた。

 何度も、何度も。

 大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

 早く気づいたから。

 昨日までの記録もあるから。

 何かできることが、きっとあるはずだから。

 やがて、獣医師が口を開いた。

「年齢による衰えもありますが、以前からの症状も含めて、注意深く見ていく必要があります」

「先生、ソラは……」

 千夏は、声を絞り出した。

「元気になりますか?」

 獣医師は、すぐには答えなかった。

 その沈黙が、千夏には何よりも怖かった。

「できる限りのことはしていきましょう。食事や水分、歩き方など、これまでどおり様子を見ながら、つらそうなときは無理をさせないでください」

「……はい」

「ご家族が気づいて連れてきてくださったことは、大切なことですよ」

 千夏はうなずいた。

 それでも、胸の中の不安は消えなかった。

 病院を出たあと、母がソラのリードを持ち、千夏はその隣を歩いた。

 ソラはゆっくりと進んでいた。

 いつもなら、帰り道の角で立ち止まり、寄り道をしたがる。

 今日は、そうしなかった。

 千夏は、ソラの横顔を見つめた。

「……私、何をすればいいのかな」

 つぶやきは、秋の風に消えていった。

     *

 家に帰ると、千夏はノートを開いた。

 今日の体調。

 食事の量。

 歩き方。

 気づいたことを、一つずつ書き込んでいく。

 けれど、途中でペンが止まった。

 ノートには、今までの記録が並んでいる。

 食べられた日。

 散歩に行けた日。

 ソラがしっぽを振ってくれた日。

 その一つひとつが、千夏にとっては大切な記録だった。

 けれど、どれだけ書き残しても、ソラの体調を完全に元へ戻すことはできない。

 どれだけ頑張っても、未来が変わるとは限らない。

「……どうして?」

 千夏はペンを置いた。

「どうして、変わらないの……?」

 鈴が光って、時間が戻った。

 だから、今度こそ何かを変えられると思った。

 ソラの異変に早く気づけば。

 病院に連れていけば。

 毎日、そばにいてあげれば。

 未来は変わるかもしれない。

 そう信じていた。

 なのに。

 ソラの体は、確実に年を重ねていた。

 時間が戻っても、過ごしてきた年月までなくなるわけではない。

 その当たり前の事実が、今になって千夏の胸に突き刺さった。

「私、何もできないのかな……」

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 秋斗からのメッセージだった。

『ソラの様子、どう?』

 千夏は画面を見つめた。

 返事を書こうとした。

 けれど、指が動かなかった。

 大丈夫、と打つことはできる。

 少し疲れているだけ、と言うこともできる。

 でも、今はそんな言葉を送りたくなかった。

 千夏は、ゆっくりと文字を打った。

『怖い。何をしても、ソラがいなくなる未来を変えられない気がする』

 送信ボタンを押した瞬間、涙がこぼれた。

 すぐに返事が届いた。

『今から行く』

 それだけだった。

 千夏はスマートフォンを握りしめ、声を殺して泣いた。

     *

 秋斗が家に来たのは、それから三十分ほど後だった。

 玄関を開けた千夏を見て、秋斗は何も聞かなかった。

 ただ、靴を脱いで家に上がると、ソラのいる部屋へ向かった。

 ソラはクッションの上で横になっていた。

「ソラ、来たぞ」

 秋斗が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。

「今日は、ちょっと眠そうだな」

 秋斗は隣に座り、ソラの頭を優しく撫でた。

 千夏は、その様子を見つめていた。

 秋斗は、ソラのことが好きだった。

 小さなころから、何度もこの家に来ていた。

 ソラにおやつを取られたことも、一緒に散歩したこともある。

 千夏と同じように、ソラとの時間を過ごしてきた人だった。

「……秋斗」

「ん?」

「私、もっと早く気づけばよかった」

 秋斗は千夏を見た。

「もっと早く、ソラの体調を気にしていれば。もっと一緒にいてあげれば。そうしたら、何か変わったかもしれないのに」

 千夏の声が震えた。

「私が学校のことばっかり考えてたから……」

「千夏」

「私、ソラがいつまでも元気だって思ってた。明日も一緒にいられるって、勝手に思ってたんだよ」

 涙が止まらなかった。

「なのに、今になって必死になって……。こんなの、勝手だよね」

 秋斗は、しばらく千夏を見つめていた。

 そして、静かに口を開いた。

「ちょっと昔話をしていいか」

 千夏は顔を上げた。

「……え?」

「お前が学校の発表の準備をしてた日だったかな。俺は借りてたノートを返しに来たんだ」

 千夏は、記憶をたどった。

 おぼろげながら、確かにそんなこともあったような気がした。

 資料を作って、原稿を直して。

 家に帰ってからも、部屋にこもっていた。

「そのとき、ソラがずっとお前の部屋の前にいたんだ」

 秋斗は、ソラの背中を見つめた。

「俺が来ても、あんまり反応しなくてさ。ずっと、お前の部屋のドアを見てた」

 千夏の胸が痛んだ。

「……私、知らなかった」

「うん。お前、集中してたからな」

 秋斗は少しだけ笑った。

「でも、ソラはお前が部屋から出てきたら、すごく嬉しそうだったよ」

「……本当に?」

「ああ。しっぽを振って、お前のところに行こうとしてた」

 千夏は口元を押さえた。

 そんなことがあったなんて、知らなかった。

 あの日の自分は、発表のことで頭がいっぱいだった。

 ソラが部屋の前にいたことにも、気づかなかった。

 もし、あの日に戻れたなら。

 千夏は何度もそう思っていた。

 でも、秋斗は続けた。

「俺、あのとき思ったんだ。ソラって、本当にお前のことが好きなんだなって」

「……秋斗」

「お前が何をしてても、どんなに忙しくても、ソラにとっては、お前がそこにいることが嬉しかったんじゃないかな」

 千夏の目から、涙がこぼれた。

「でも、私……最後の日に、そばにいられなかった」

 それは、千夏がずっと抱えてきた後悔だった。

 ソラがいなくなった日。

 千夏は学校にいた。

 当日は小テストがあり。

 それに備えて一週間ほど部屋にこもって勉強していた。

 母から連絡を受けたのは、すべてが終わったあとだった。

 家に帰ったとき、ソラはもういなかった。

 だから、千夏は思っていた。

 自分がそばにいなかったから。

 自分が最後を見届けられなかったから。

 ソラに、寂しい思いをさせてしまったのではないかと。

「私、ソラに何もしてあげられなかった……」

 千夏は、うつむいた。

「最後に、ありがとうって言いたかった。大好きだって、伝えたかった」

 秋斗は、千夏の隣に座った。

「……じゃあ、今、伝えよう」

 千夏は顔を上げた。

「え?」

「今、ソラはここにいるだろ」

 秋斗は、穏やかな目でソラを見た。

「最後の日に何ができたかじゃなくて、今、何を伝えたいかを考えようよ」

 千夏は、ソラを見つめた。

 ソラは、ゆっくりと目を開けていた。

 千夏のことを見ている。

 いつもと同じ、優しい瞳で。

「……大好きだよ」

 千夏は、そっと口にした。

「ソラ。大好き」

 ソラのしっぽが、かすかに揺れた。

 千夏は泣きながら笑った。

「ありがとう。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」

 秋斗は、何も言わずにそばにいてくれた。

 その時間が、千夏には何よりもありがたかった。

     *

 秋斗が帰ったあと。

 千夏はソラの隣に座り、スマートフォンに保存した写真を見ていた。

 一緒に撮った写真。

 眠っている写真。

 散歩の途中で立ち止まった写真。

 どれも、特別な瞬間を写したものではない。

 ただ、いつものソラがそこにいるだけだ。

 でも、千夏には、それが何よりも大切だった。

「……ねえ、ソラ」

 千夏は写真を見せるように、スマートフォンをソラの前に置いた。

「これ、いっぱい撮ったんだよ」

 ソラは画面を見つめた。

 もちろん、写真の意味を理解しているかどうかはわからない。

 それでも千夏は、話し続けた。

「もっと撮るね。これからも、いっぱい」

 そして、少しだけ迷ってから、言葉を続けた。

「……でもね、ソラ」

 千夏はソラの首輪に触れた。

「私、写真だけじゃ足りないんだ」

 声が震えた。

「本当は、ずっと一緒にいたい」

 鈴が、かすかに揺れた。

 ちりん。

「明日も、明後日も。その次の日も……ずっと」

 千夏は、ソラの頭を撫でた。

「でも、もし……もし、どうしても一緒にいられなくなる日が来たら」

 そこで言葉が途切れた。

 口にしたくなかった。

 そんな未来を、認めたくなかった。

 それでも、千夏は目を閉じて、ゆっくりと続けた。

「そのときは、ちゃんと伝えるから」

 涙が頬を伝った。

「ありがとうって。大好きだって。ソラに出会えて幸せだったって」

 千夏は、ソラを抱きしめた。

「だから、それまでは……一緒にいてね」

 ソラは、千夏の腕の中で静かに目を閉じた。

 その温もりを感じながら、千夏も目を閉じた。

     *

 夜。

 千夏は、銀色の鈴を手に取った。

 ひびは、さらに深くなっていた。

 いつ壊れてしまってもおかしくないほどに。

「……お願い」

 千夏は、鈴に語りかけた。

「未来を変えることができるなら、教えて」

 鈴は光らなかった。

「私、何でもするから」

 何度も、何度も願った。

 けれど、鈴は静かなままだった。

 千夏は、うつむいた。

「……そうだよね」

 時間を戻せたからといって、すべてを思いどおりにできるわけではない。

 それは、わかっていた。

 わかっていたはずなのに。

 千夏は、どうしても諦められなかった。

「私、ソラと別れたくないよ……」

 そのときだった。

 ちりん。

 鈴が鳴った。

 千夏は顔を上げた。

 淡い光が、ひびの奥からあふれ出していた。

 そして、聞こえた。

『……ありがとう』

 かすかで、優しい声。

 千夏は息を止めた。

「……ソラ?」

 光の中に、幼いころの記憶が浮かび上がった。

 小さな自分。

 子犬のソラ。

 そして、二人を見守る母。

 幼い千夏は、ソラを抱きしめながら笑っていた。

『ずっと一緒だよ』

 千夏の声が響く。

 続いて、今度はソラの鳴き声が聞こえた。

 それは、千夏が幼いころから何度も聞いてきた声だった。

 光は、ゆっくりと消えていった。

 千夏は、鈴を握りしめたまま動けなかった。

「……ありがとう、って」

 それは、誰から誰への言葉だったのだろう。

 ソラから千夏へ。

 それとも、千夏からソラへ。

 わからない。

 けれど、その声を聞いた瞬間、千夏の胸にあった恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。

 悲しい。

 怖い。

 離れたくない。

 その気持ちは、何ひとつ変わっていない。

 それでも。

 ソラと過ごしてきた時間が、後悔だけではなかったことを、千夏は思い出していた。

 ソラは、ずっとそばにいてくれた。

 千夏が笑っているときも。

 泣いているときも。

 何も話せないときも。

 ずっと、そこにいてくれた。

「……ソラ」

 千夏は、鈴を胸元に抱いた。

「私、まだ諦めないよ」

 小さく、けれど確かな声で言った。

「もっと一緒にいたいから。まだ、できることを探すから」

 そして、目を閉じた。

「でも……今、一緒にいられることも、ちゃんと大切にするね」

 窓の外では、風が吹いていた。

 ただ一つ、確かなことがあった。

 明日も、ソラに「おはよう」と言いたい。

 明日も、ソラの名前を呼びたい。

 明日も、ソラのそばにいたい。

 その願いを胸に抱いて、千夏は静かに眠りについた。
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