さよならを言うために、君がくれた七日間
十月二十三日。
ソラと過ごす朝。
千夏は、いつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
隣で眠っているソラの背中に、そっと手を伸ばす。
「……おはよう、ソラ」
返事の代わりに、ソラのしっぽが布団の上で小さく揺れた。
千夏は微笑んだ。
今日も、会えた。
それだけで、嬉しかった。
けれど、ソラが起き上がるまでには、いつもより少し時間がかかった。
「ソラ?」
千夏が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。
立ち上がろうとして、いったん前足を踏ん張る。
千夏の笑顔が消えた。
「……大丈夫?」
ソラは何事もなかったように歩き出した。
けれど、千夏は見逃さなかった。
昨日までと、何かが違う。
ほんのわずかな変化。
それでも、千夏にはわかった。
ずっと一緒に暮らしてきたから。
ソラの小さな変化を、誰よりも知っているつもりだったから。
「お母さん!」
千夏は部屋を飛び出した。
*
動物病院で、獣医師はソラの様子を丁寧に確認した。
千夏と母の美和は、診察室の椅子に並んで座っていた。
千夏は膝の上で両手を握りしめていた。
何度も、何度も。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
早く気づいたから。
昨日までの記録もあるから。
何かできることが、きっとあるはずだから。
やがて、獣医師が口を開いた。
「年齢による衰えもありますが、以前からの症状も含めて、注意深く見ていく必要があります」
「先生、ソラは……」
千夏は、声を絞り出した。
「元気になりますか?」
獣医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、千夏には何よりも怖かった。
「できる限りのことはしていきましょう。食事や水分、歩き方など、これまでどおり様子を見ながら、つらそうなときは無理をさせないでください」
「……はい」
「ご家族が気づいて連れてきてくださったことは、大切なことですよ」
千夏はうなずいた。
それでも、胸の中の不安は消えなかった。
病院を出たあと、母がソラのリードを持ち、千夏はその隣を歩いた。
ソラはゆっくりと進んでいた。
いつもなら、帰り道の角で立ち止まり、寄り道をしたがる。
今日は、そうしなかった。
千夏は、ソラの横顔を見つめた。
「……私、何をすればいいのかな」
つぶやきは、秋の風に消えていった。
*
家に帰ると、千夏はノートを開いた。
今日の体調。
食事の量。
歩き方。
気づいたことを、一つずつ書き込んでいく。
けれど、途中でペンが止まった。
ノートには、今までの記録が並んでいる。
食べられた日。
散歩に行けた日。
ソラがしっぽを振ってくれた日。
その一つひとつが、千夏にとっては大切な記録だった。
けれど、どれだけ書き残しても、ソラの体調を完全に元へ戻すことはできない。
どれだけ頑張っても、未来が変わるとは限らない。
「……どうして?」
千夏はペンを置いた。
「どうして、変わらないの……?」
鈴が光って、時間が戻った。
だから、今度こそ何かを変えられると思った。
ソラの異変に早く気づけば。
病院に連れていけば。
毎日、そばにいてあげれば。
未来は変わるかもしれない。
そう信じていた。
なのに。
ソラの体は、確実に年を重ねていた。
時間が戻っても、過ごしてきた年月までなくなるわけではない。
その当たり前の事実が、今になって千夏の胸に突き刺さった。
「私、何もできないのかな……」
そのとき、スマートフォンが震えた。
秋斗からのメッセージだった。
『ソラの様子、どう?』
千夏は画面を見つめた。
返事を書こうとした。
けれど、指が動かなかった。
大丈夫、と打つことはできる。
少し疲れているだけ、と言うこともできる。
でも、今はそんな言葉を送りたくなかった。
千夏は、ゆっくりと文字を打った。
『怖い。何をしても、ソラがいなくなる未来を変えられない気がする』
送信ボタンを押した瞬間、涙がこぼれた。
すぐに返事が届いた。
『今から行く』
それだけだった。
千夏はスマートフォンを握りしめ、声を殺して泣いた。
*
秋斗が家に来たのは、それから三十分ほど後だった。
玄関を開けた千夏を見て、秋斗は何も聞かなかった。
ただ、靴を脱いで家に上がると、ソラのいる部屋へ向かった。
ソラはクッションの上で横になっていた。
「ソラ、来たぞ」
秋斗が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。
「今日は、ちょっと眠そうだな」
秋斗は隣に座り、ソラの頭を優しく撫でた。
千夏は、その様子を見つめていた。
秋斗は、ソラのことが好きだった。
小さなころから、何度もこの家に来ていた。
ソラにおやつを取られたことも、一緒に散歩したこともある。
千夏と同じように、ソラとの時間を過ごしてきた人だった。
「……秋斗」
「ん?」
「私、もっと早く気づけばよかった」
秋斗は千夏を見た。
「もっと早く、ソラの体調を気にしていれば。もっと一緒にいてあげれば。そうしたら、何か変わったかもしれないのに」
千夏の声が震えた。
「私が学校のことばっかり考えてたから……」
「千夏」
「私、ソラがいつまでも元気だって思ってた。明日も一緒にいられるって、勝手に思ってたんだよ」
涙が止まらなかった。
「なのに、今になって必死になって……。こんなの、勝手だよね」
秋斗は、しばらく千夏を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「ちょっと昔話をしていいか」
千夏は顔を上げた。
「……え?」
「お前が学校の発表の準備をしてた日だったかな。俺は借りてたノートを返しに来たんだ」
千夏は、記憶をたどった。
おぼろげながら、確かにそんなこともあったような気がした。
資料を作って、原稿を直して。
家に帰ってからも、部屋にこもっていた。
「そのとき、ソラがずっとお前の部屋の前にいたんだ」
秋斗は、ソラの背中を見つめた。
「俺が来ても、あんまり反応しなくてさ。ずっと、お前の部屋のドアを見てた」
千夏の胸が痛んだ。
「……私、知らなかった」
「うん。お前、集中してたからな」
秋斗は少しだけ笑った。
「でも、ソラはお前が部屋から出てきたら、すごく嬉しそうだったよ」
「……本当に?」
「ああ。しっぽを振って、お前のところに行こうとしてた」
千夏は口元を押さえた。
そんなことがあったなんて、知らなかった。
あの日の自分は、発表のことで頭がいっぱいだった。
ソラが部屋の前にいたことにも、気づかなかった。
もし、あの日に戻れたなら。
千夏は何度もそう思っていた。
でも、秋斗は続けた。
「俺、あのとき思ったんだ。ソラって、本当にお前のことが好きなんだなって」
「……秋斗」
「お前が何をしてても、どんなに忙しくても、ソラにとっては、お前がそこにいることが嬉しかったんじゃないかな」
千夏の目から、涙がこぼれた。
「でも、私……最後の日に、そばにいられなかった」
それは、千夏がずっと抱えてきた後悔だった。
ソラがいなくなった日。
千夏は学校にいた。
当日は小テストがあり。
それに備えて一週間ほど部屋にこもって勉強していた。
母から連絡を受けたのは、すべてが終わったあとだった。
家に帰ったとき、ソラはもういなかった。
だから、千夏は思っていた。
自分がそばにいなかったから。
自分が最後を見届けられなかったから。
ソラに、寂しい思いをさせてしまったのではないかと。
「私、ソラに何もしてあげられなかった……」
千夏は、うつむいた。
「最後に、ありがとうって言いたかった。大好きだって、伝えたかった」
秋斗は、千夏の隣に座った。
「……じゃあ、今、伝えよう」
千夏は顔を上げた。
「え?」
「今、ソラはここにいるだろ」
秋斗は、穏やかな目でソラを見た。
「最後の日に何ができたかじゃなくて、今、何を伝えたいかを考えようよ」
千夏は、ソラを見つめた。
ソラは、ゆっくりと目を開けていた。
千夏のことを見ている。
いつもと同じ、優しい瞳で。
「……大好きだよ」
千夏は、そっと口にした。
「ソラ。大好き」
ソラのしっぽが、かすかに揺れた。
千夏は泣きながら笑った。
「ありがとう。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
秋斗は、何も言わずにそばにいてくれた。
その時間が、千夏には何よりもありがたかった。
*
秋斗が帰ったあと。
千夏はソラの隣に座り、スマートフォンに保存した写真を見ていた。
一緒に撮った写真。
眠っている写真。
散歩の途中で立ち止まった写真。
どれも、特別な瞬間を写したものではない。
ただ、いつものソラがそこにいるだけだ。
でも、千夏には、それが何よりも大切だった。
「……ねえ、ソラ」
千夏は写真を見せるように、スマートフォンをソラの前に置いた。
「これ、いっぱい撮ったんだよ」
ソラは画面を見つめた。
もちろん、写真の意味を理解しているかどうかはわからない。
それでも千夏は、話し続けた。
「もっと撮るね。これからも、いっぱい」
そして、少しだけ迷ってから、言葉を続けた。
「……でもね、ソラ」
千夏はソラの首輪に触れた。
「私、写真だけじゃ足りないんだ」
声が震えた。
「本当は、ずっと一緒にいたい」
鈴が、かすかに揺れた。
ちりん。
「明日も、明後日も。その次の日も……ずっと」
千夏は、ソラの頭を撫でた。
「でも、もし……もし、どうしても一緒にいられなくなる日が来たら」
そこで言葉が途切れた。
口にしたくなかった。
そんな未来を、認めたくなかった。
それでも、千夏は目を閉じて、ゆっくりと続けた。
「そのときは、ちゃんと伝えるから」
涙が頬を伝った。
「ありがとうって。大好きだって。ソラに出会えて幸せだったって」
千夏は、ソラを抱きしめた。
「だから、それまでは……一緒にいてね」
ソラは、千夏の腕の中で静かに目を閉じた。
その温もりを感じながら、千夏も目を閉じた。
*
夜。
千夏は、銀色の鈴を手に取った。
ひびは、さらに深くなっていた。
いつ壊れてしまってもおかしくないほどに。
「……お願い」
千夏は、鈴に語りかけた。
「未来を変えることができるなら、教えて」
鈴は光らなかった。
「私、何でもするから」
何度も、何度も願った。
けれど、鈴は静かなままだった。
千夏は、うつむいた。
「……そうだよね」
時間を戻せたからといって、すべてを思いどおりにできるわけではない。
それは、わかっていた。
わかっていたはずなのに。
千夏は、どうしても諦められなかった。
「私、ソラと別れたくないよ……」
そのときだった。
ちりん。
鈴が鳴った。
千夏は顔を上げた。
淡い光が、ひびの奥からあふれ出していた。
そして、聞こえた。
『……ありがとう』
かすかで、優しい声。
千夏は息を止めた。
「……ソラ?」
光の中に、幼いころの記憶が浮かび上がった。
小さな自分。
子犬のソラ。
そして、二人を見守る母。
幼い千夏は、ソラを抱きしめながら笑っていた。
『ずっと一緒だよ』
千夏の声が響く。
続いて、今度はソラの鳴き声が聞こえた。
それは、千夏が幼いころから何度も聞いてきた声だった。
光は、ゆっくりと消えていった。
千夏は、鈴を握りしめたまま動けなかった。
「……ありがとう、って」
それは、誰から誰への言葉だったのだろう。
ソラから千夏へ。
それとも、千夏からソラへ。
わからない。
けれど、その声を聞いた瞬間、千夏の胸にあった恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。
悲しい。
怖い。
離れたくない。
その気持ちは、何ひとつ変わっていない。
それでも。
ソラと過ごしてきた時間が、後悔だけではなかったことを、千夏は思い出していた。
ソラは、ずっとそばにいてくれた。
千夏が笑っているときも。
泣いているときも。
何も話せないときも。
ずっと、そこにいてくれた。
「……ソラ」
千夏は、鈴を胸元に抱いた。
「私、まだ諦めないよ」
小さく、けれど確かな声で言った。
「もっと一緒にいたいから。まだ、できることを探すから」
そして、目を閉じた。
「でも……今、一緒にいられることも、ちゃんと大切にするね」
窓の外では、風が吹いていた。
ただ一つ、確かなことがあった。
明日も、ソラに「おはよう」と言いたい。
明日も、ソラの名前を呼びたい。
明日も、ソラのそばにいたい。
その願いを胸に抱いて、千夏は静かに眠りについた。
ソラと過ごす朝。
千夏は、いつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
隣で眠っているソラの背中に、そっと手を伸ばす。
「……おはよう、ソラ」
返事の代わりに、ソラのしっぽが布団の上で小さく揺れた。
千夏は微笑んだ。
今日も、会えた。
それだけで、嬉しかった。
けれど、ソラが起き上がるまでには、いつもより少し時間がかかった。
「ソラ?」
千夏が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。
立ち上がろうとして、いったん前足を踏ん張る。
千夏の笑顔が消えた。
「……大丈夫?」
ソラは何事もなかったように歩き出した。
けれど、千夏は見逃さなかった。
昨日までと、何かが違う。
ほんのわずかな変化。
それでも、千夏にはわかった。
ずっと一緒に暮らしてきたから。
ソラの小さな変化を、誰よりも知っているつもりだったから。
「お母さん!」
千夏は部屋を飛び出した。
*
動物病院で、獣医師はソラの様子を丁寧に確認した。
千夏と母の美和は、診察室の椅子に並んで座っていた。
千夏は膝の上で両手を握りしめていた。
何度も、何度も。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
早く気づいたから。
昨日までの記録もあるから。
何かできることが、きっとあるはずだから。
やがて、獣医師が口を開いた。
「年齢による衰えもありますが、以前からの症状も含めて、注意深く見ていく必要があります」
「先生、ソラは……」
千夏は、声を絞り出した。
「元気になりますか?」
獣医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、千夏には何よりも怖かった。
「できる限りのことはしていきましょう。食事や水分、歩き方など、これまでどおり様子を見ながら、つらそうなときは無理をさせないでください」
「……はい」
「ご家族が気づいて連れてきてくださったことは、大切なことですよ」
千夏はうなずいた。
それでも、胸の中の不安は消えなかった。
病院を出たあと、母がソラのリードを持ち、千夏はその隣を歩いた。
ソラはゆっくりと進んでいた。
いつもなら、帰り道の角で立ち止まり、寄り道をしたがる。
今日は、そうしなかった。
千夏は、ソラの横顔を見つめた。
「……私、何をすればいいのかな」
つぶやきは、秋の風に消えていった。
*
家に帰ると、千夏はノートを開いた。
今日の体調。
食事の量。
歩き方。
気づいたことを、一つずつ書き込んでいく。
けれど、途中でペンが止まった。
ノートには、今までの記録が並んでいる。
食べられた日。
散歩に行けた日。
ソラがしっぽを振ってくれた日。
その一つひとつが、千夏にとっては大切な記録だった。
けれど、どれだけ書き残しても、ソラの体調を完全に元へ戻すことはできない。
どれだけ頑張っても、未来が変わるとは限らない。
「……どうして?」
千夏はペンを置いた。
「どうして、変わらないの……?」
鈴が光って、時間が戻った。
だから、今度こそ何かを変えられると思った。
ソラの異変に早く気づけば。
病院に連れていけば。
毎日、そばにいてあげれば。
未来は変わるかもしれない。
そう信じていた。
なのに。
ソラの体は、確実に年を重ねていた。
時間が戻っても、過ごしてきた年月までなくなるわけではない。
その当たり前の事実が、今になって千夏の胸に突き刺さった。
「私、何もできないのかな……」
そのとき、スマートフォンが震えた。
秋斗からのメッセージだった。
『ソラの様子、どう?』
千夏は画面を見つめた。
返事を書こうとした。
けれど、指が動かなかった。
大丈夫、と打つことはできる。
少し疲れているだけ、と言うこともできる。
でも、今はそんな言葉を送りたくなかった。
千夏は、ゆっくりと文字を打った。
『怖い。何をしても、ソラがいなくなる未来を変えられない気がする』
送信ボタンを押した瞬間、涙がこぼれた。
すぐに返事が届いた。
『今から行く』
それだけだった。
千夏はスマートフォンを握りしめ、声を殺して泣いた。
*
秋斗が家に来たのは、それから三十分ほど後だった。
玄関を開けた千夏を見て、秋斗は何も聞かなかった。
ただ、靴を脱いで家に上がると、ソラのいる部屋へ向かった。
ソラはクッションの上で横になっていた。
「ソラ、来たぞ」
秋斗が声をかけると、ソラはゆっくりと顔を上げた。
「今日は、ちょっと眠そうだな」
秋斗は隣に座り、ソラの頭を優しく撫でた。
千夏は、その様子を見つめていた。
秋斗は、ソラのことが好きだった。
小さなころから、何度もこの家に来ていた。
ソラにおやつを取られたことも、一緒に散歩したこともある。
千夏と同じように、ソラとの時間を過ごしてきた人だった。
「……秋斗」
「ん?」
「私、もっと早く気づけばよかった」
秋斗は千夏を見た。
「もっと早く、ソラの体調を気にしていれば。もっと一緒にいてあげれば。そうしたら、何か変わったかもしれないのに」
千夏の声が震えた。
「私が学校のことばっかり考えてたから……」
「千夏」
「私、ソラがいつまでも元気だって思ってた。明日も一緒にいられるって、勝手に思ってたんだよ」
涙が止まらなかった。
「なのに、今になって必死になって……。こんなの、勝手だよね」
秋斗は、しばらく千夏を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「ちょっと昔話をしていいか」
千夏は顔を上げた。
「……え?」
「お前が学校の発表の準備をしてた日だったかな。俺は借りてたノートを返しに来たんだ」
千夏は、記憶をたどった。
おぼろげながら、確かにそんなこともあったような気がした。
資料を作って、原稿を直して。
家に帰ってからも、部屋にこもっていた。
「そのとき、ソラがずっとお前の部屋の前にいたんだ」
秋斗は、ソラの背中を見つめた。
「俺が来ても、あんまり反応しなくてさ。ずっと、お前の部屋のドアを見てた」
千夏の胸が痛んだ。
「……私、知らなかった」
「うん。お前、集中してたからな」
秋斗は少しだけ笑った。
「でも、ソラはお前が部屋から出てきたら、すごく嬉しそうだったよ」
「……本当に?」
「ああ。しっぽを振って、お前のところに行こうとしてた」
千夏は口元を押さえた。
そんなことがあったなんて、知らなかった。
あの日の自分は、発表のことで頭がいっぱいだった。
ソラが部屋の前にいたことにも、気づかなかった。
もし、あの日に戻れたなら。
千夏は何度もそう思っていた。
でも、秋斗は続けた。
「俺、あのとき思ったんだ。ソラって、本当にお前のことが好きなんだなって」
「……秋斗」
「お前が何をしてても、どんなに忙しくても、ソラにとっては、お前がそこにいることが嬉しかったんじゃないかな」
千夏の目から、涙がこぼれた。
「でも、私……最後の日に、そばにいられなかった」
それは、千夏がずっと抱えてきた後悔だった。
ソラがいなくなった日。
千夏は学校にいた。
当日は小テストがあり。
それに備えて一週間ほど部屋にこもって勉強していた。
母から連絡を受けたのは、すべてが終わったあとだった。
家に帰ったとき、ソラはもういなかった。
だから、千夏は思っていた。
自分がそばにいなかったから。
自分が最後を見届けられなかったから。
ソラに、寂しい思いをさせてしまったのではないかと。
「私、ソラに何もしてあげられなかった……」
千夏は、うつむいた。
「最後に、ありがとうって言いたかった。大好きだって、伝えたかった」
秋斗は、千夏の隣に座った。
「……じゃあ、今、伝えよう」
千夏は顔を上げた。
「え?」
「今、ソラはここにいるだろ」
秋斗は、穏やかな目でソラを見た。
「最後の日に何ができたかじゃなくて、今、何を伝えたいかを考えようよ」
千夏は、ソラを見つめた。
ソラは、ゆっくりと目を開けていた。
千夏のことを見ている。
いつもと同じ、優しい瞳で。
「……大好きだよ」
千夏は、そっと口にした。
「ソラ。大好き」
ソラのしっぽが、かすかに揺れた。
千夏は泣きながら笑った。
「ありがとう。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
秋斗は、何も言わずにそばにいてくれた。
その時間が、千夏には何よりもありがたかった。
*
秋斗が帰ったあと。
千夏はソラの隣に座り、スマートフォンに保存した写真を見ていた。
一緒に撮った写真。
眠っている写真。
散歩の途中で立ち止まった写真。
どれも、特別な瞬間を写したものではない。
ただ、いつものソラがそこにいるだけだ。
でも、千夏には、それが何よりも大切だった。
「……ねえ、ソラ」
千夏は写真を見せるように、スマートフォンをソラの前に置いた。
「これ、いっぱい撮ったんだよ」
ソラは画面を見つめた。
もちろん、写真の意味を理解しているかどうかはわからない。
それでも千夏は、話し続けた。
「もっと撮るね。これからも、いっぱい」
そして、少しだけ迷ってから、言葉を続けた。
「……でもね、ソラ」
千夏はソラの首輪に触れた。
「私、写真だけじゃ足りないんだ」
声が震えた。
「本当は、ずっと一緒にいたい」
鈴が、かすかに揺れた。
ちりん。
「明日も、明後日も。その次の日も……ずっと」
千夏は、ソラの頭を撫でた。
「でも、もし……もし、どうしても一緒にいられなくなる日が来たら」
そこで言葉が途切れた。
口にしたくなかった。
そんな未来を、認めたくなかった。
それでも、千夏は目を閉じて、ゆっくりと続けた。
「そのときは、ちゃんと伝えるから」
涙が頬を伝った。
「ありがとうって。大好きだって。ソラに出会えて幸せだったって」
千夏は、ソラを抱きしめた。
「だから、それまでは……一緒にいてね」
ソラは、千夏の腕の中で静かに目を閉じた。
その温もりを感じながら、千夏も目を閉じた。
*
夜。
千夏は、銀色の鈴を手に取った。
ひびは、さらに深くなっていた。
いつ壊れてしまってもおかしくないほどに。
「……お願い」
千夏は、鈴に語りかけた。
「未来を変えることができるなら、教えて」
鈴は光らなかった。
「私、何でもするから」
何度も、何度も願った。
けれど、鈴は静かなままだった。
千夏は、うつむいた。
「……そうだよね」
時間を戻せたからといって、すべてを思いどおりにできるわけではない。
それは、わかっていた。
わかっていたはずなのに。
千夏は、どうしても諦められなかった。
「私、ソラと別れたくないよ……」
そのときだった。
ちりん。
鈴が鳴った。
千夏は顔を上げた。
淡い光が、ひびの奥からあふれ出していた。
そして、聞こえた。
『……ありがとう』
かすかで、優しい声。
千夏は息を止めた。
「……ソラ?」
光の中に、幼いころの記憶が浮かび上がった。
小さな自分。
子犬のソラ。
そして、二人を見守る母。
幼い千夏は、ソラを抱きしめながら笑っていた。
『ずっと一緒だよ』
千夏の声が響く。
続いて、今度はソラの鳴き声が聞こえた。
それは、千夏が幼いころから何度も聞いてきた声だった。
光は、ゆっくりと消えていった。
千夏は、鈴を握りしめたまま動けなかった。
「……ありがとう、って」
それは、誰から誰への言葉だったのだろう。
ソラから千夏へ。
それとも、千夏からソラへ。
わからない。
けれど、その声を聞いた瞬間、千夏の胸にあった恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。
悲しい。
怖い。
離れたくない。
その気持ちは、何ひとつ変わっていない。
それでも。
ソラと過ごしてきた時間が、後悔だけではなかったことを、千夏は思い出していた。
ソラは、ずっとそばにいてくれた。
千夏が笑っているときも。
泣いているときも。
何も話せないときも。
ずっと、そこにいてくれた。
「……ソラ」
千夏は、鈴を胸元に抱いた。
「私、まだ諦めないよ」
小さく、けれど確かな声で言った。
「もっと一緒にいたいから。まだ、できることを探すから」
そして、目を閉じた。
「でも……今、一緒にいられることも、ちゃんと大切にするね」
窓の外では、風が吹いていた。
ただ一つ、確かなことがあった。
明日も、ソラに「おはよう」と言いたい。
明日も、ソラの名前を呼びたい。
明日も、ソラのそばにいたい。
その願いを胸に抱いて、千夏は静かに眠りについた。