さよならを言うために、君がくれた七日間
 十月二十四日。

 カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。

 千夏は目を覚ますと、すぐに隣を見た。

 ソラは、いつもの場所で眠っていた。

「……おはよう、ソラ」

 そっと声をかける。

 ソラは目を開け、千夏を見つめた。

 それから、ゆっくりとしっぽを振った。

 千夏は微笑んだ。

「うん。今日も会えたね」

 けれど、その言葉を口にした瞬間、胸が痛くなった。

 何かを変えなければ。

 もっと頑張らなければ。

 そう思いながら、毎日を過ごしてきた。

 けれど、今は少しだけ違う。

 もちろん、ソラと別れたくない気持ちは変わらない。

 それでも、ソラと一緒にいられる今日を、未来を変えるためだけの一日にしたくなかった。

「ねえ、ソラ」

 千夏は、ソラの頭を撫でた。

「今日は、私の話を聞いてね」

 ソラは、千夏の手に鼻先を寄せた。

「私が今まで、どんなふうにソラに助けてもらってきたのか。ちゃんと話したいんだ」

 千夏は小さく息を吸った。

「だから、聞いていてね」

     *

 朝食のあと、千夏はリビングに家族を集めた。

 父の直人は新聞をたたみ、母の美和は不思議そうに娘を見つめた。

「どうしたんだ、千夏?」

「うん。みんなに、聞いてほしいことがあるの」

 千夏は、ソラの隣に座った。

 ソラはクッションの上で、穏やかに目を細めている。

「私ね、ずっと考えてたんだ。ソラのために、何ができるのかなって」

 父と母は、黙って話を聞いていた。

「病院に連れていくことも、ごはんを用意することも、散歩に行くことも大切だと思う。でも、私、ずっとそればかり考えてた」

 千夏は、ソラの背中に手を置いた。

「ソラがいなくならないように、何かしなくちゃって。そればかり考えてたの」

 声が少し震えた。

「でもね、私、ソラにいっぱいもらってたんだよね」

 千夏は顔を上げた。

「小さいころ、学校で嫌なことがあった日も、ソラはいつも玄関で待っていてくれた。テストで失敗して落ち込んでいた日も、何も聞かずにそばにいてくれた」

 父が、静かにうなずいた。

「そうだったな。お前が泣いていると、ソラはいつも近くにいた」

「うん」

 千夏は笑った。

「私、ソラがいてくれたから、頑張れたことがたくさんあったんだよ」

 思い出す。

 小学校の運動会で失敗した日。

 友達と喧嘩して、誰とも話したくなかった日。

 中学校に入って、周りと自分を比べて落ち込んだ日。

 ソラは、そのたびにそばにいてくれた。

 何も解決してくれたわけではない。

 正しい答えを教えてくれたわけでもない。

 ただ、千夏が帰ってくるのを待っていてくれた。

 そのことが、どれほど心強かっただろう。

「私、ソラに何かしてあげなくちゃって思ってた。でも、本当は……ソラと一緒に過ごせたことが、もう、すごく幸せだったんだね」

 美和が、そっと口元を押さえた。

 父も、目を伏せていた。

「……ありがとう、ソラ」

 千夏は、ソラの頭を撫でた。

「うちに来てくれて、ありがとう。私の家族になってくれて、ありがとう」

 ソラは千夏を見つめた。

 その瞳は、いつもと同じだった。

 千夏は、その目を見ながら、心の中で繰り返した。

 大好きだよ。

 ずっと、大好きだよ。

 何度伝えても、足りないくらいに。

     *

 午後、千夏は秋斗と美咲を家に呼んだ。

 ソラの体調を考え、今日は外へ出かけず、家でゆっくり過ごすことにしたのだ。

「お邪魔しまーす!」

 玄関から入ってきた美咲は、ソラの姿を見ると、すぐにしゃがみ込んだ。

「ソラ、こんにちは。今日はおうちでのんびり?」

 ソラは、ゆっくりとしっぽを振った。

「かわいい……」

 美咲は優しく頭を撫でた。

「千夏、写真撮ろうよ。みんなで」

「うん!」

 千夏は、スマートフォンを取り出した。

 ソラを真ん中にして、千夏と美咲、秋斗が並ぶ。

「秋斗、もう少しこっち!」

「これ以上寄ったら、ソラに乗っかられるんだけど」

「いいじゃん。ソラ、秋斗のこと好きだもんね」

「いや、昔おやつを取られたことを根に持ってるだけだろ」

「それ、秋斗がおやつをあげなかったからでしょ?」

「なんで俺が悪いことになってんだよ」

 美咲が笑い、千夏も笑った。

 秋斗は不満そうな顔をしていたけれど、最後には小さく笑った。

 タイマーが鳴る。

 カシャッ。

 写真の中には、三人の笑顔と、穏やかな顔をしたソラが写っていた。

「……いい写真」

 千夏は画面を見つめた。

「うん。すごくいい写真だね」

 美咲も隣から覗き込んだ。

「これ、あとで送ってね」

「もちろん」

 千夏は、その写真を保存した。

 ただの一枚の写真。

 けれど、今の千夏には、かけがえのない宝物だった。

     *

 夕方。

 美咲が帰ったあと、秋斗は千夏と一緒に庭に出た。

 ソラは家の中で休んでいる。

 庭には、秋の風が吹いていた。

「……千夏」

「なに?」

「少し、話しておきたいことがあるんだ」

 秋斗は、庭の隅にある小さな花壇を見つめた。

「俺さ、ずっと、お前のことが心配だった」

 千夏は驚いて、秋斗を見た。

「私?」

「うん。ソラのことを大切に思ってるのは知ってた。でも、お前、自分の気持ちを後回しにしすぎるところがあるだろ」

「……そうかな」

「そうだよ」

 秋斗は苦笑した。

「困ってても、大丈夫って言う。つらくても、平気な顔をする。誰かに迷惑をかけたくないからって、何でも一人で抱え込む」

 千夏は、何も言えなかった。

 そのとおりだったからだ。

「でもさ、誰かに頼ったっていいんだよ」

 秋斗は千夏を見た。

「俺だって、お前が困ってるなら力になりたいし」

「……秋斗」

「だから、これからは、もう少し頼ってくれよ」

 千夏の目が熱くなった。

 この数日で、千夏は何度も泣いた。

 怖いとき。

 悲しいとき。

 どうしたらいいかわからないとき。

 けれど、そのたびに誰かがそばにいてくれた。

 母が。

 秋斗が。

 美咲が。

 自分一人では、きっと耐えられなかった。

「……ありがとう」

 千夏は、小さく笑った。

「私、秋斗がいてくれてよかった」

 秋斗は少し驚いたような顔をした。

 それから、照れくさそうに視線をそらした。

「……そういうこと、急に言うなよ」

「え?」

「いや、何でもない」

 秋斗は咳払いをした。

「とにかく、これからも話くらいは聞くから」

「うん」

 千夏はうなずいた。

 そして、庭の向こうに見える空を見上げた。

 夕焼けが、少しずつ色を深めていた。

「ねえ、秋斗」

「ん?」

「私、ソラと過ごせて、本当に幸せだったんだね」

 秋斗は、すぐに答えた。

「うん。そうだと思う」

「……そっか」

 千夏は、空を見つめたまま微笑んだ。

 その言葉を、ずっと聞きたかったのかもしれない。

 ソラと過ごした時間は、無駄ではなかった。

 もっとできたことがあったとしても。

 後悔が残ったとしても。

 ソラと一緒に過ごした日々が幸せだったことは、変わらない。

 それだけは、誰にも奪えない。

     *

 夜。

 千夏は、自分の部屋でアルバムを開いていた。

 幼いころの写真。

 ソラと一緒に写っている写真。

 家族で出かけたときの写真。

 ページをめくるたびに、思い出があふれてくる。

 その中に、一枚だけ、見覚えのない写真があった。

 幼い千夏が、ソラを抱きしめている。

 その裏には、あの言葉が書かれていた。

 ――ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う。

 千夏は、指先で文字をなぞった。

「……私、約束したんだね」

 あのころの自分は、まだ何も知らなかった。

 大切な存在を失う悲しみも。

 思い出が、どれほど人を支えてくれるのかも。

 それでも、幼い自分は約束していた。

 ソラがいなくなっても、ちゃんと笑うと。

 千夏は、写真を胸に抱きしめた。

「うん。約束するね」

 声に出して、言った。

「ソラがいなくなっても、ソラのことを忘れない。ソラと過ごした時間を、大切にする」

 涙が、頬を伝った。

「それで、いつかまた笑えるようになるから」

 言い終えた瞬間。

 首輪から外して机に置いていた銀色の鈴が、かすかに光った。

 ちりん。

 千夏は顔を上げた。

 ひびは、もう鈴の表面を大きく走っていた。

 光の中に、また記憶が浮かび上がる。

 幼い千夏。

 子犬のソラ。

 そして、二人を見守る母。

 幼い千夏が、ソラを抱きしめながら言った。

『ソラがいなくなっても、わたしはちゃんと笑う』

 母が、優しく答える。

『うん。約束ね』

 幼い千夏は、涙を拭いて笑った。

 その笑顔を見て、母も笑った。

 光景が消える直前、もう一つの声が聞こえた。

『千夏、ありがとう』

 千夏は息を呑んだ。

 それは、誰の声だったのだろう。

 ソラの声なのか。

 それとも、記憶の中の自分の声なのか。

 わからない。

 けれど、千夏は鈴を手に取り、そっと胸に抱いた。

「……うん」

 涙を拭い、微笑む。

「こちらこそ、ありがとう」

     *

 その夜、千夏はソラの隣で眠った。

 ソラの寝息を聞きながら、そっと頭を撫でる。

「ねえ、ソラ」

 眠っているソラに、静かに話しかけた。

「明日も、一緒にいようね」

 ソラは目を閉じたままだった。

 千夏は、もう一度だけ、その頭を撫でた。

「大好きだよ」

 窓の外では、月が静かに輝いていた。

 千夏は、ソラの温もりを感じながら目を閉じた。

 明日が来ることを、怖がらずに迎えたいと思った。

 たとえ、明日がどんな一日になったとしても。

 ソラと過ごせる今を、大切にしたい。

 それが、今の千夏にできることだった。

 そして、深夜。

 銀色の鈴に、最後のひびが走った。

 その音は、眠っている千夏には届かなかった。

 ただ、鈴の内側に刻まれた文字だけが、月明かりの中で静かに浮かび上がっていた。

 ――いつまでも、家族。
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