嫌いだった課長と恋をするまで
第11話 祖父母に育てられた彼女
病院のある駅へと向かう電車の中は、夕方の帰宅時間を前にして少しずつ乗客が増えていた。窓の外を流れていく住宅街は夕日に染まり、その向こうには六甲の山並みが見えている。
俺は神谷課長と並んで座っていたが、さっきから互いに口を開かなかった。病院へ向かう途中なのだから、無理に話す必要はない。それでも、隣にいる課長が何度もスマートフォンの画面を確認するたび、車内の静けさが妙に気になった。俺が何か言おうとしたとき、課長が先に口を開いた。
「高橋さん、さっきの仕事の件ですが、明日の朝までに私が確認する予定だった部分まで、勝手に進めないでください。判断が必要なところを私の知らないところで処理されると困ります」
「勝手に進めるつもりはありません。課長が病院にいる間にできるところをやっておくだけです」
「それを決めるのは高橋さんではありません」
「じゃあ、課長はどうするんですか。病院に来てまで仕事のことを考えて、お祖父さんのところに行く時間まで削るんですか?」
言った瞬間、課長の表情が変わった。俺も言い過ぎたと思ったが、引っ込める気にはなれなかった。課長は膝の上で両手を組み、しばらく窓の外を見ていた。電車が次の駅へ滑り込む音が車内に響き、乗客が入れ替わっても、俺たちの間にある空気だけは動かなかった。
「……高橋さんに、私の何が分かるんですか?」
「分かりませんよ。だから言ってるんです。分からないのに、一人で全部やろうとしているように見えるから」
「私は自分の仕事をしているだけです。誰かに迷惑をかけたくないから、自分で処理しているだけで、それを一人で抱えていると決めつけないでください」
「でも、課長は人に頼らないじゃないですか」
「頼る必要がないからです」
「本当にそうですかね?」
課長がこちらを向いた。その目には、会社で仕事の間違いを指摘するときとは違う強さがあった。俺も視線を逸らさなかった。病院へ向かう途中だということも、祖父のことが心配なのだということも分かっている。それでも、ここで黙ったら、課長はまた何も言わずに全部自分で抱える気がした。
「俺だって、課長の事情を全部知っているわけじゃありません。でも、今日の課長を見ていたら、仕事まで自分で抱える必要はないと思ったんです。俺ができる仕事なら、俺にやらせてください。それくらいは頼ってくれてもいいでしょう」
課長はすぐには答えなかった。電車が揺れるたび、肩がわずかに揺れる。やがて課長は小さく息を吐き、視線を落とした。
「……高橋さんは、本当に勝手ですね」
「よく言われます」
「褒めていません」
「知っています」
そこで課長が、ほんの少しだけ口元を緩めた。その表情を見て、俺の中にあった張り詰めたものがようやく抜けていく。
会社なら、こんなふうに言い合うことは珍しくない。俺たちは仕事の進め方が合わず、何度も衝突してきた。それなのに今日は、いつもの言い争いとは何かが違っていた。課長が俺の言葉を聞き、俺も課長がなぜそこまで自分で抱えようとするのかを知ろうとしている。電車の窓に映った課長の横顔を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
「祖父は、昔から私に言っていたんです。何でも一人でやろうとするなって。私は子供の頃から、できることなら自分でやるほうがいいと思っていました。祖父母と暮らしていると、それでも何とかなるんです。帰れば祖母がいて、困れば祖父がいる。自分から頼らなくても、誰かがそばにいる生活でしたから」
「それなのに、今は頼るのが苦手なんですね」
「……そうですね。祖母がいなくなってから、余計にそうなったのかもしれません。祖父まで私が心配をかける側になったらいけないと思うようになりました」
「課長って、昔からそんなに自分のことを後回しにしていたんですか?」
「どうでしょう。でも、祖父母にはずいぶん世話になりました。朝起きれば祖父がいて、学校から帰れば祖母がいて、夕食を食べながら今日あったことを話す。それが私には普通でした。だから、祖母がいなくなったとき、その普通がなくなったことのほうが辛かったんです」
課長の声は静かだったが、その言葉の奥にあるものは簡単には受け止められないほど重かった。祖母が作ってくれた食事のことや、祖父が朝から新聞を読んでいたこと、学校へ行く前に忘れ物がないか確認されたこと。
課長が話すのは、どれも特別ではない日常の話だった。だからこそ、その一つ一つが今の彼女を作っているように感じられた。俺が会社で見ていた神谷美月は、仕事ができて、判断が速くて、誰かに頼る前に自分で答えを出す人だった。でも、そんな性格も突然できたものではない。家に帰れば誰かがいてくれる生活の中で、それでも自分でできることは自分でやろうとしてきた。その積み重ねが、今の彼女を作ったのだと思う。
「高橋さんは、どうしてそんなに人のことを気にするんですか?」
「俺がですか?」
「はい。今日だって、自分の仕事を増やしてまで私を助けようとしているでしょう」
「……課長が無理しているように見えたからです」
「それだけですか?」
俺は返事に困ってしまう。確かに、自分でも、なぜここまで課長のことが気になるのか、うまく説明できない。仕事ができる人だから助けたい。それだけなら、こんなふうに胸が引っかかることはないはずだ。課長の強い言い方に腹を立てたこともあるし、俺の生活に踏み込んでくる態度が嫌だと思ったこともある。それなのに、今は一人で病院へ向かわせることが嫌だった。俺が黙っていると、課長が小さく息を吐いた。
「……私も、高橋さんのことを少し誤解していたのかもしれません」
「俺も課長のことを誤解していたと思います」
「それは、どういう意味ですか?」
「仕事しか見ていない人だと思っていました。でも、違ったみたいです」
課長は何も言わず、ただ、さっきまで固く握っていた手から少しだけ力が抜けたように見えた。電車が速度を落とし、次の駅へ入っていく。病院までは、もうそれほど遠くない。俺は窓の外へ目を向けながら、課長の話を聞いて初めて、彼女の強さが誰かを遠ざけるためのものではないのかもしれない。祖父母に育てられた時間の中で身につけた、自分で立つための力なのだろう。だけど、その力が今は、本人を苦しめているようにも見えた。
病院に着くと、受付を済ませて病棟へ向かう。白い壁に夕方の光が細く伸び、廊下には消毒液の匂いが漂っている。病室の前まで来たところで、課長は足を止めた。俺も隣で立ち止まる。何か声をかけようとしても、気の利いた言葉は浮かばない。「大丈夫です」、と言うのは簡単だ。でも、俺には大丈夫かどうかを決めることなどできる筈もない。ただ、ここにいることならできる。課長が扉を開けるまで、黙って立っていればいい。そう思ったとき、課長が俺のほうを向いた。
「高橋さん、ここまでで大丈夫です。会社へ戻ってください」
「分かりました。でも、仕事のほうは俺がやります」
「まだ言いますか」
「言います。課長が戻ってから全部やったら遅くなるでしょう。俺の担当分を先に終わらせておけば、明日の課長の負担も減ります」
「……本当に頑固ですね」
「課長にだけは言われたくないです」
課長は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑う。その笑顔を見た俺は、なぜか少し安心してしまった。俺にできるのは、それくらいだったからだ。
祖父の病気を治すこともできない。
課長の不安を消すこともできない。
それでも、彼女が病室にいる間に仕事を終わらせることならできる。俺は鞄を持ち直し、課長に頷いた。
「明日の朝、困らないようにしておきます。だから今は、お祖父さんのそばにいてください」
課長はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
その言葉を聞いて、俺は病院を出た。夕暮れの神戸の街へ戻る道を歩きながら、さっきの電車の中で交わした言葉を思い返していた。
祖父母と過ごした日々のことを話す課長の姿が、頭から離れない。俺が嫌っていた神谷美月は、仕事だけを見ている女ではなかった。誰かに支えてもらった時間を知っているからこそ、自分も誰かを支えようとして、そのために自分のことを後回しにしてしまう人なのかもしれない。
会社へ戻った俺は、自分の担当資料を開く。今日は帰らない。少なくとも、課長が明日戻ってきたときに、仕事のことで余計な心配をさせないくらいはやっておきたかった。
俺は神谷課長と並んで座っていたが、さっきから互いに口を開かなかった。病院へ向かう途中なのだから、無理に話す必要はない。それでも、隣にいる課長が何度もスマートフォンの画面を確認するたび、車内の静けさが妙に気になった。俺が何か言おうとしたとき、課長が先に口を開いた。
「高橋さん、さっきの仕事の件ですが、明日の朝までに私が確認する予定だった部分まで、勝手に進めないでください。判断が必要なところを私の知らないところで処理されると困ります」
「勝手に進めるつもりはありません。課長が病院にいる間にできるところをやっておくだけです」
「それを決めるのは高橋さんではありません」
「じゃあ、課長はどうするんですか。病院に来てまで仕事のことを考えて、お祖父さんのところに行く時間まで削るんですか?」
言った瞬間、課長の表情が変わった。俺も言い過ぎたと思ったが、引っ込める気にはなれなかった。課長は膝の上で両手を組み、しばらく窓の外を見ていた。電車が次の駅へ滑り込む音が車内に響き、乗客が入れ替わっても、俺たちの間にある空気だけは動かなかった。
「……高橋さんに、私の何が分かるんですか?」
「分かりませんよ。だから言ってるんです。分からないのに、一人で全部やろうとしているように見えるから」
「私は自分の仕事をしているだけです。誰かに迷惑をかけたくないから、自分で処理しているだけで、それを一人で抱えていると決めつけないでください」
「でも、課長は人に頼らないじゃないですか」
「頼る必要がないからです」
「本当にそうですかね?」
課長がこちらを向いた。その目には、会社で仕事の間違いを指摘するときとは違う強さがあった。俺も視線を逸らさなかった。病院へ向かう途中だということも、祖父のことが心配なのだということも分かっている。それでも、ここで黙ったら、課長はまた何も言わずに全部自分で抱える気がした。
「俺だって、課長の事情を全部知っているわけじゃありません。でも、今日の課長を見ていたら、仕事まで自分で抱える必要はないと思ったんです。俺ができる仕事なら、俺にやらせてください。それくらいは頼ってくれてもいいでしょう」
課長はすぐには答えなかった。電車が揺れるたび、肩がわずかに揺れる。やがて課長は小さく息を吐き、視線を落とした。
「……高橋さんは、本当に勝手ですね」
「よく言われます」
「褒めていません」
「知っています」
そこで課長が、ほんの少しだけ口元を緩めた。その表情を見て、俺の中にあった張り詰めたものがようやく抜けていく。
会社なら、こんなふうに言い合うことは珍しくない。俺たちは仕事の進め方が合わず、何度も衝突してきた。それなのに今日は、いつもの言い争いとは何かが違っていた。課長が俺の言葉を聞き、俺も課長がなぜそこまで自分で抱えようとするのかを知ろうとしている。電車の窓に映った課長の横顔を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
「祖父は、昔から私に言っていたんです。何でも一人でやろうとするなって。私は子供の頃から、できることなら自分でやるほうがいいと思っていました。祖父母と暮らしていると、それでも何とかなるんです。帰れば祖母がいて、困れば祖父がいる。自分から頼らなくても、誰かがそばにいる生活でしたから」
「それなのに、今は頼るのが苦手なんですね」
「……そうですね。祖母がいなくなってから、余計にそうなったのかもしれません。祖父まで私が心配をかける側になったらいけないと思うようになりました」
「課長って、昔からそんなに自分のことを後回しにしていたんですか?」
「どうでしょう。でも、祖父母にはずいぶん世話になりました。朝起きれば祖父がいて、学校から帰れば祖母がいて、夕食を食べながら今日あったことを話す。それが私には普通でした。だから、祖母がいなくなったとき、その普通がなくなったことのほうが辛かったんです」
課長の声は静かだったが、その言葉の奥にあるものは簡単には受け止められないほど重かった。祖母が作ってくれた食事のことや、祖父が朝から新聞を読んでいたこと、学校へ行く前に忘れ物がないか確認されたこと。
課長が話すのは、どれも特別ではない日常の話だった。だからこそ、その一つ一つが今の彼女を作っているように感じられた。俺が会社で見ていた神谷美月は、仕事ができて、判断が速くて、誰かに頼る前に自分で答えを出す人だった。でも、そんな性格も突然できたものではない。家に帰れば誰かがいてくれる生活の中で、それでも自分でできることは自分でやろうとしてきた。その積み重ねが、今の彼女を作ったのだと思う。
「高橋さんは、どうしてそんなに人のことを気にするんですか?」
「俺がですか?」
「はい。今日だって、自分の仕事を増やしてまで私を助けようとしているでしょう」
「……課長が無理しているように見えたからです」
「それだけですか?」
俺は返事に困ってしまう。確かに、自分でも、なぜここまで課長のことが気になるのか、うまく説明できない。仕事ができる人だから助けたい。それだけなら、こんなふうに胸が引っかかることはないはずだ。課長の強い言い方に腹を立てたこともあるし、俺の生活に踏み込んでくる態度が嫌だと思ったこともある。それなのに、今は一人で病院へ向かわせることが嫌だった。俺が黙っていると、課長が小さく息を吐いた。
「……私も、高橋さんのことを少し誤解していたのかもしれません」
「俺も課長のことを誤解していたと思います」
「それは、どういう意味ですか?」
「仕事しか見ていない人だと思っていました。でも、違ったみたいです」
課長は何も言わず、ただ、さっきまで固く握っていた手から少しだけ力が抜けたように見えた。電車が速度を落とし、次の駅へ入っていく。病院までは、もうそれほど遠くない。俺は窓の外へ目を向けながら、課長の話を聞いて初めて、彼女の強さが誰かを遠ざけるためのものではないのかもしれない。祖父母に育てられた時間の中で身につけた、自分で立つための力なのだろう。だけど、その力が今は、本人を苦しめているようにも見えた。
病院に着くと、受付を済ませて病棟へ向かう。白い壁に夕方の光が細く伸び、廊下には消毒液の匂いが漂っている。病室の前まで来たところで、課長は足を止めた。俺も隣で立ち止まる。何か声をかけようとしても、気の利いた言葉は浮かばない。「大丈夫です」、と言うのは簡単だ。でも、俺には大丈夫かどうかを決めることなどできる筈もない。ただ、ここにいることならできる。課長が扉を開けるまで、黙って立っていればいい。そう思ったとき、課長が俺のほうを向いた。
「高橋さん、ここまでで大丈夫です。会社へ戻ってください」
「分かりました。でも、仕事のほうは俺がやります」
「まだ言いますか」
「言います。課長が戻ってから全部やったら遅くなるでしょう。俺の担当分を先に終わらせておけば、明日の課長の負担も減ります」
「……本当に頑固ですね」
「課長にだけは言われたくないです」
課長は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑う。その笑顔を見た俺は、なぜか少し安心してしまった。俺にできるのは、それくらいだったからだ。
祖父の病気を治すこともできない。
課長の不安を消すこともできない。
それでも、彼女が病室にいる間に仕事を終わらせることならできる。俺は鞄を持ち直し、課長に頷いた。
「明日の朝、困らないようにしておきます。だから今は、お祖父さんのそばにいてください」
課長はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
その言葉を聞いて、俺は病院を出た。夕暮れの神戸の街へ戻る道を歩きながら、さっきの電車の中で交わした言葉を思い返していた。
祖父母と過ごした日々のことを話す課長の姿が、頭から離れない。俺が嫌っていた神谷美月は、仕事だけを見ている女ではなかった。誰かに支えてもらった時間を知っているからこそ、自分も誰かを支えようとして、そのために自分のことを後回しにしてしまう人なのかもしれない。
会社へ戻った俺は、自分の担当資料を開く。今日は帰らない。少なくとも、課長が明日戻ってきたときに、仕事のことで余計な心配をさせないくらいはやっておきたかった。