嫌いだった課長と恋をするまで
第12話 東京に残らなかった理由
翌朝、オフィスで目を覚ました俺は、机に突っ伏したまま顔を上げた。昨日、課長が病院へ向かったあと、俺はそのまま会社へ戻り、引き受けた仕事を片づけ始めた。
一つ資料を仕上げると、次に気になる箇所が出てくる。そこを直せば別の確認が必要になり、気づけば時計の針は日付を越えていた。それでも手を止める気にはなれず、課長が戻ってきたときに少しでも仕事を減らしておきたいという気持ちだけで画面に向かい続けた。
午前二時を過ぎた頃には頭が回らなくなり、少しだけ休むつもりで椅子に座ったまま腕を組み、その上へ額を乗せた。目を閉じたところまでは覚えている。それからどれほど時間が経ったのか分からない。顔を上げると、窓の外には朝の光が差し込み、オフィスにはまだ誰もいなかった。
「……朝かよ」
時計を見ると、始業時間が近づいている。俺は慌てて顔を上げ、固まった肩を回した。腕には机の跡が残り、首も痛い。昨夜からまともに寝ていないせいで、目の奥も重かった。それでも、パソコンに表示された資料を確認すると、予定していたところまでは終わっている。保存したファイルを開き直し、内容を一通り確認する。これなら課長が戻ってきても、昨日の案件について俺から説明できる。そう思ったところで、オフィスの入口から聞き慣れた声がした。
「高橋さん?」
顔を上げると、神谷課長が立っていた。昨日の夜に病院へ向かったときと同じ服装ではないものの、顔には疲れが残っている。その課長の視線が俺の机へ向き、次に俺の顔へ戻ってくる。自分の席でうつ伏せになって眠っていたことに気づいたらしい。俺は気まずさを隠すように姿勢を正した。
「おはようございます。昨日の仕事を片づけていたら、そのまま会社で寝てしまいました」
「高橋さん、昨夜からここにいたんですか?」
「はい。課長が病院へ行っている間に、俺の担当分だけでも終わらせておこうと思って」
「仕事が残っていたからといって、会社に泊まる必要はありません。しかも、自分の机でうつ伏せになって眠るなんて、体に負担がかかります」
「分かっています。でも、課長が戻ってきたときに仕事まで残っていたら、病院のことを考えながら確認しないといけなくなるでしょう。だったら、俺ができるところは終わらせておいたほうがいいと思ったんです」
課長は何も言わず、俺の机に置かれた資料を手に取った。怒られると思った。以前なら、自己管理について長々と言われても不思議ではない。ところが課長は資料を一枚ずつ確認し、最後のページまで目を通してから俺へ返した。仕事の出来を確かめる目はいつも通りだったが、そのあとに俺の顔色を確かめるような視線が加わっていた。
「仕事は、きちんと終わっていますね。内容にも問題ありません。私が確認する必要がある部分も分かるようになっています」
「それなら、よかったです」
「ただし、徹夜したことについては別です。仕事を終わらせるために体調を崩してしまえば、その後の仕事に支障が出ます。私は、自分の体を削ってまで仕事をすることを評価しません」
「課長も、昨日はほとんど寝てないんじゃないですか?」
「私は大丈夫です」
「それ、俺が言ったら怒るでしょう」
課長は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。ほんの少しだけ口元が緩んだように見える。その表情を見ていると、俺まで肩の力が抜けた。
仕事の話をしているはずなのに、今は互いの体調を気にしている。それが妙にくすぐったくて、俺は視線を資料へ落とした。
「祖父は、今朝は落ち着いていました。昨日より状態が安定しているので、病院からも少し休むように言われました」
「それならよかったです」
「高橋さんが仕事を片づけてくれたことも助かりました」
「仕事ですから」
「そういう言い方をすると思っていました。でも、助かったものは助かったと伝えておきます」
課長は資料を抱えて自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見送りながら、胸の奥に小さな変化を感じてしまう。
仕事を評価されたことが嬉しいわけではない。課長が俺の仕事だけではなく、俺自身の状態まで見ていたことが妙に残っている。少し前なら、上司に心配されても余計なことを言われたと思っていただろう。今は、課長が俺を気にかけてくれたことが嬉しい。そんな自分に気づいてしまい、俺は誤魔化すようにパソコンへ向き直った。
昼休みを過ぎ、仕事が一段落したところで、俺は給湯室へ向かった。ビル街を窓越しに眺めながらコーヒーを入れていると、後から課長が入ってきた。俺は紙コップを手にしたまま、昨日から気になっていたことを口にした。
「課長って、東京の本社に残ることもできたんじゃないですか?」
「どうして、そう思うんですか?」
「本社では評価されていたんですよね。だったら、東京に残って仕事を続ける道もあったんじゃないかと思って。神戸へ来た理由は分かっています。でも、それだけだったんですか?」
課長はすぐには答えなかった。紙コップから立ち上る湯気を見つめ、それから給湯室の窓へ視線を向ける。窓の向こうには三宮のビルが並び、その先には六甲山系の山並みが見えていた。課長はしばらくその景色を眺めてから、静かに口を開いた。
「東京に残ることに未練がなかったと言えば、嘘になります。本社で任されていた仕事も好きでしたし、そこで積み上げてきたものもありました。でも、仕事を続ける場所は東京だけではありません。私が何を大切にして生きるのかを考えたとき、神戸へ戻るという選択をしました」
「仕事より、神戸を選んだんですね」
「仕事と神戸を比べて決めたわけではありません。東京にいれば仕事は続けられます。でも、神戸に残してきたものは、仕事の都合で後回しにできるものではありませんでした。祖父母と暮らした家も、そこで過ごした時間も、私にとっては仕事とは別の意味があります。だから、東京で積み上げてきたものを手放すことに迷いはあっても、神戸へ戻ること自体を後悔したことはありません」
「課長にとって、神戸は帰る場所なんですね」
「はい。私にとっては、仕事をする場所というより、自分が戻る場所なんだと思います」
その言葉を聞いて、俺は黙った。課長にとって神戸は単なる異動先ではない。仕事のために選んだ場所でもない。自分が大切にしてきたものが残る場所だから、戻ることを決めたのだろう。仕事では迷いなく判断する人なのに、仕事だけでは決められないものをちゃんと持っている。そのことが分かると、今まで見ていた課長の姿が少し違って見えてきた。
「東京にいたら、もっと上を目指せたんじゃないですか?」
「そうかもしれません。でも、上を目指すことだけが人生ではありませんから」
「……課長が、そんなことを言うとは思いませんでした」
「私だって、仕事以外のことを考えます」
「それは知りませんでした」
「高橋さんは、私を何だと思っているんですか?」
課長と二人で笑いながら紙コップを口へ運ぶ。ほんの短いやり取りなのに、以前とは何かが違っている。仕事の能力だけを見ていた相手が、一人の人間として少しずつ近くなっている。
俺はその変化を意識しながらも、神谷美月という人が何を大切にしているのかを、もっと知りたいと思い始めていた。
夕方、仕事を終えた俺は自分の席から窓の外を眺めた。三宮の街には少しずつ明かりが増え、道路を走る車のライトが流れている。
課長が東京に残らなかった理由を考えると、仕事より家族を選んだという単純な話ではないのだと思う。仕事も大切にしている。それでも、仕事だけでは守れないものがあることを知っていて、自分で神戸へ戻る道を選んだ。
その姿が、俺には少し羨ましく思える。俺は自分が何を大切にしたいのか、まだはっきり分かっていない。高校時代から続いていたものを失って以来、目の前の仕事をこなすことだけで時間を埋めてきた。そんな自分と比べると、課長は自分の人生に必要なものをちゃんと選んでいるのだろう。
俺は窓から離れ、誰もいなくなり始めたオフィスを見渡す。今日も課長は病院へ向かったのだろう。俺はそのことを自然に気にしている自分に気づき、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなってしまった。
一つ資料を仕上げると、次に気になる箇所が出てくる。そこを直せば別の確認が必要になり、気づけば時計の針は日付を越えていた。それでも手を止める気にはなれず、課長が戻ってきたときに少しでも仕事を減らしておきたいという気持ちだけで画面に向かい続けた。
午前二時を過ぎた頃には頭が回らなくなり、少しだけ休むつもりで椅子に座ったまま腕を組み、その上へ額を乗せた。目を閉じたところまでは覚えている。それからどれほど時間が経ったのか分からない。顔を上げると、窓の外には朝の光が差し込み、オフィスにはまだ誰もいなかった。
「……朝かよ」
時計を見ると、始業時間が近づいている。俺は慌てて顔を上げ、固まった肩を回した。腕には机の跡が残り、首も痛い。昨夜からまともに寝ていないせいで、目の奥も重かった。それでも、パソコンに表示された資料を確認すると、予定していたところまでは終わっている。保存したファイルを開き直し、内容を一通り確認する。これなら課長が戻ってきても、昨日の案件について俺から説明できる。そう思ったところで、オフィスの入口から聞き慣れた声がした。
「高橋さん?」
顔を上げると、神谷課長が立っていた。昨日の夜に病院へ向かったときと同じ服装ではないものの、顔には疲れが残っている。その課長の視線が俺の机へ向き、次に俺の顔へ戻ってくる。自分の席でうつ伏せになって眠っていたことに気づいたらしい。俺は気まずさを隠すように姿勢を正した。
「おはようございます。昨日の仕事を片づけていたら、そのまま会社で寝てしまいました」
「高橋さん、昨夜からここにいたんですか?」
「はい。課長が病院へ行っている間に、俺の担当分だけでも終わらせておこうと思って」
「仕事が残っていたからといって、会社に泊まる必要はありません。しかも、自分の机でうつ伏せになって眠るなんて、体に負担がかかります」
「分かっています。でも、課長が戻ってきたときに仕事まで残っていたら、病院のことを考えながら確認しないといけなくなるでしょう。だったら、俺ができるところは終わらせておいたほうがいいと思ったんです」
課長は何も言わず、俺の机に置かれた資料を手に取った。怒られると思った。以前なら、自己管理について長々と言われても不思議ではない。ところが課長は資料を一枚ずつ確認し、最後のページまで目を通してから俺へ返した。仕事の出来を確かめる目はいつも通りだったが、そのあとに俺の顔色を確かめるような視線が加わっていた。
「仕事は、きちんと終わっていますね。内容にも問題ありません。私が確認する必要がある部分も分かるようになっています」
「それなら、よかったです」
「ただし、徹夜したことについては別です。仕事を終わらせるために体調を崩してしまえば、その後の仕事に支障が出ます。私は、自分の体を削ってまで仕事をすることを評価しません」
「課長も、昨日はほとんど寝てないんじゃないですか?」
「私は大丈夫です」
「それ、俺が言ったら怒るでしょう」
課長は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。ほんの少しだけ口元が緩んだように見える。その表情を見ていると、俺まで肩の力が抜けた。
仕事の話をしているはずなのに、今は互いの体調を気にしている。それが妙にくすぐったくて、俺は視線を資料へ落とした。
「祖父は、今朝は落ち着いていました。昨日より状態が安定しているので、病院からも少し休むように言われました」
「それならよかったです」
「高橋さんが仕事を片づけてくれたことも助かりました」
「仕事ですから」
「そういう言い方をすると思っていました。でも、助かったものは助かったと伝えておきます」
課長は資料を抱えて自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見送りながら、胸の奥に小さな変化を感じてしまう。
仕事を評価されたことが嬉しいわけではない。課長が俺の仕事だけではなく、俺自身の状態まで見ていたことが妙に残っている。少し前なら、上司に心配されても余計なことを言われたと思っていただろう。今は、課長が俺を気にかけてくれたことが嬉しい。そんな自分に気づいてしまい、俺は誤魔化すようにパソコンへ向き直った。
昼休みを過ぎ、仕事が一段落したところで、俺は給湯室へ向かった。ビル街を窓越しに眺めながらコーヒーを入れていると、後から課長が入ってきた。俺は紙コップを手にしたまま、昨日から気になっていたことを口にした。
「課長って、東京の本社に残ることもできたんじゃないですか?」
「どうして、そう思うんですか?」
「本社では評価されていたんですよね。だったら、東京に残って仕事を続ける道もあったんじゃないかと思って。神戸へ来た理由は分かっています。でも、それだけだったんですか?」
課長はすぐには答えなかった。紙コップから立ち上る湯気を見つめ、それから給湯室の窓へ視線を向ける。窓の向こうには三宮のビルが並び、その先には六甲山系の山並みが見えていた。課長はしばらくその景色を眺めてから、静かに口を開いた。
「東京に残ることに未練がなかったと言えば、嘘になります。本社で任されていた仕事も好きでしたし、そこで積み上げてきたものもありました。でも、仕事を続ける場所は東京だけではありません。私が何を大切にして生きるのかを考えたとき、神戸へ戻るという選択をしました」
「仕事より、神戸を選んだんですね」
「仕事と神戸を比べて決めたわけではありません。東京にいれば仕事は続けられます。でも、神戸に残してきたものは、仕事の都合で後回しにできるものではありませんでした。祖父母と暮らした家も、そこで過ごした時間も、私にとっては仕事とは別の意味があります。だから、東京で積み上げてきたものを手放すことに迷いはあっても、神戸へ戻ること自体を後悔したことはありません」
「課長にとって、神戸は帰る場所なんですね」
「はい。私にとっては、仕事をする場所というより、自分が戻る場所なんだと思います」
その言葉を聞いて、俺は黙った。課長にとって神戸は単なる異動先ではない。仕事のために選んだ場所でもない。自分が大切にしてきたものが残る場所だから、戻ることを決めたのだろう。仕事では迷いなく判断する人なのに、仕事だけでは決められないものをちゃんと持っている。そのことが分かると、今まで見ていた課長の姿が少し違って見えてきた。
「東京にいたら、もっと上を目指せたんじゃないですか?」
「そうかもしれません。でも、上を目指すことだけが人生ではありませんから」
「……課長が、そんなことを言うとは思いませんでした」
「私だって、仕事以外のことを考えます」
「それは知りませんでした」
「高橋さんは、私を何だと思っているんですか?」
課長と二人で笑いながら紙コップを口へ運ぶ。ほんの短いやり取りなのに、以前とは何かが違っている。仕事の能力だけを見ていた相手が、一人の人間として少しずつ近くなっている。
俺はその変化を意識しながらも、神谷美月という人が何を大切にしているのかを、もっと知りたいと思い始めていた。
夕方、仕事を終えた俺は自分の席から窓の外を眺めた。三宮の街には少しずつ明かりが増え、道路を走る車のライトが流れている。
課長が東京に残らなかった理由を考えると、仕事より家族を選んだという単純な話ではないのだと思う。仕事も大切にしている。それでも、仕事だけでは守れないものがあることを知っていて、自分で神戸へ戻る道を選んだ。
その姿が、俺には少し羨ましく思える。俺は自分が何を大切にしたいのか、まだはっきり分かっていない。高校時代から続いていたものを失って以来、目の前の仕事をこなすことだけで時間を埋めてきた。そんな自分と比べると、課長は自分の人生に必要なものをちゃんと選んでいるのだろう。
俺は窓から離れ、誰もいなくなり始めたオフィスを見渡す。今日も課長は病院へ向かったのだろう。俺はそのことを自然に気にしている自分に気づき、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなってしまった。