嫌いだった課長と恋をするまで

第13話 初めて見た課長の笑顔

 金曜日の午後、オフィスで取引先から届いた資料を確認していると、課長から声をかけられた。

 先方へ届ける書類があり、会社から歩いて数分の商業施設まで行く必要があるらしい。俺が担当している案件だったこともあり、課長と二人で向かうことになった。

 エレベーターを降り、三宮駅周辺へ続く人通りの多い通路を歩きながら、俺は資料の内容を説明し、課長は確認すべき箇所をいくつか尋ねてきた。いつも通りの仕事の会話だった。ところが、商業施設の入口を入ったところで、隣を歩いていた課長が急に足を止めた。俺もつられて立ち止まり、課長の視線の先を追う。そこには神戸では馴染みのある洋菓子店があり、ガラス張りのショーケースには色とりどりのケーキと焼き菓子が並んでいる。課長はその中の一つから目を離さずにいる。目的地へ向かうことしか頭にないと思っていた人が、仕事とは無関係な店の前で立ち止まっている。それだけで、俺には少し意外だった。

「課長、何か気になるものがあるんですか?」

「これです。祖母が昔、よく買ってくれたものに似ていて……少し懐かしくなりました」

 課長が指したのは、薄く焼いた生地に砂糖をまぶした焼き菓子だった。特別珍しいものには見えない。それなのに課長は、ショーケース越しの菓子を見つめながら、子どもの頃のことをポツポツと話し始めた。

 学校から帰ると用意されていたことがあったとか、疲れている日はそれを食べるのが楽しみだったとか、そんな何気ない思い出だった。

 俺は相槌を打ちながら聞いていたが、話している課長の表情に気づいて、途中から言葉を失ってしまった。いつもの仕事中の顔とは違う。話し方にも肩の力が抜けていて、思い出を大切に抱えていることが、そのまま表情に出ていた。そして課長が焼き菓子を見ながらふっと笑った瞬間、俺は完全に見入ってしまった。作ろうとして作った笑顔ではない。懐かしさがそのまま顔に浮かんだような、あまりにも自然な笑顔だった。

「……買っていきますか?」

「どうしましょう。仕事の途中ですし、寄り道をしている場合ではないと思うのですが」

「時間ならありますよ。俺が待っていますから、気になるなら買っていけばいいじゃないですか」

「高橋さんは、こういうときは意外と急かさないんですね」

「課長だって、仕事以外のことで立ち止まることくらいあるでしょう。俺は待っていますよ」

 課長は俺の顔を見て、それからもう一度ショーケースへ視線を戻す。少し迷ったあと、店員へ焼き菓子を注文している。やがて紙袋を受け取った課長は、それを両手で持ちながら、嬉しそうに中身を確かめる。その顔を見ていると、さっきの笑顔が頭から離れなかった。

 会社では、仕事が遅れればすぐに指摘し、判断を求められれば迷わず答える。俺が最初に見たときも、何をするにも仕事が基準になる人だと思った。それだけに、たった一つの焼き菓子を前にして子どものように嬉しそうにしている姿が新鮮だった。俺が知らなかっただけで、この人にも仕事とは無関係の思い出があり、誰かに大切にしてもらった記憶がある。そのことが分かると、今まで抱いていた課長への印象が少しずつ形を変えていく。

「高橋さん、さっきから何ですか?」

「何がですか?」

「私の顔を見ていますよね」

「……見ていました」

「何か変でしたか?」

「変じゃないです。ただ、課長が笑っているのが珍しくて」

 俺が正直に答えると、課長は一瞬だけ黙り、それから紙袋へ視線を落とし、少し恥ずかしそうに笑う。その表情を見た俺は、思わず目を逸らしてしまう。
 こんなに素直な顔をする人だったのかと思うと、どうしても気になってしまう。課長は俺が笑っているわけでも、面白がっているわけでもないことに気づいたのか、しばらくしてから小さく息を吐いた。

「……あまり見ないでください。自分でも、少し恥ずかしいので」

「すみません。でも、笑っている課長のほうが自然に見えました」

「仕事をしている私は、不自然ですか?」

「そういう意味じゃありません。仕事中は、いつも気を張っているように見えるんです。今は全然違ったので、少し驚いただけです」

「そうですか。自分では、そんなつもりはないんですけどね」

「俺には、そう見えます」

「高橋さんは、人のことをよく見ていますね」

「課長に言われると、なんだか褒められている気がしません」

「褒めています」

 課長が笑う。その笑顔は先ほどより小さかったが、やはり自然な笑顔だった。俺はその顔を見ながら、胸の奥が妙に落ち着かなくなるのを感じていた。

 今までなら、課長が笑おうが怒ろうが、自分には関係ないと思っていたはずだ。仕事で認められるか、叱られないか、それくらいしか気にしていなかった。

 それなのに今は、目の前の女性がどんなときに笑うのか、その笑顔を見ると自分まで嬉しくなるのはなぜなのか、そんなことばかり考えてしまう。俺はその理由を深く考えないようにして、課長の手にある紙袋へ目を向けた。

「そのお菓子、おじいさんにも持っていくんですか?」

「はい。祖父にも食べてもらおうと思っています。祖母との思い出があるものなので、きっと喜んでくれると思います」

「それなら、買ってよかったですね」

「はい。そう思います」

 課長は紙袋を見つめながら、穏やかに笑っている。俺はもう、その笑顔から目を逸らせなかった。
 さっきまでなら、仕事しか見ない人だと思っていた。何を言っても仕事の話へ戻すし、生活のことまで細かく口を出してくる。だから俺も、課長を仕事だけで人を見る人間だと決めつけていた。

 でも、今目の前にいる課長は、祖母との思い出を大切にして、懐かしい菓子を見つければ足を止め、祖父に食べてもらいたいと思っている。一人の人間として当たり前の感情を持っている。その当たり前のことを、俺は今まで知らなかった。

 店を出ると、商業施設の大きなガラス扉から午後の光が差し込んでいた。三宮の通りには週末を楽しもうとする人が増え始め、買い物袋を持った人たちが行き交っている。

 俺たちは並んで歩きながら、ようやく本来の用事である取引先へ向かった。課長は片手に資料、もう片方の手に小さな紙袋を持っている。その姿を見ていると、仕事をしているときの課長と、今こうして祖母との思い出を抱えて歩いている課長が、同じ一人の人間なのだと実感する。課長もまた、俺が何も言わずに待っていたことを気にしていたらしく、歩きながらふいに口を開いた。

「高橋さん、今日はありがとうございました」

「何がですか?」

「私が店の前で立ち止まっても、何も言わずに待っていてくれたことです。仕事の途中なのに、急かされると思っていました」

「そんなことで急かしませんよ。それに、課長があんな顔をしていたら、邪魔できません」

「……あんな顔?」

「嬉しそうな顔です」

 課長は少しだけ目を伏せ、それから俺のほうを見て笑った。その笑顔を見た瞬間、俺はまた胸の奥が熱くなってくる。会社では見たことのない笑顔だったからだ。

 誰かに見せるためでも、仕事を円滑にするためでもない、ただ嬉しいから笑っている顔だ。俺はその笑顔を見ながら、課長に対して抱いていた印象が確かに変わったことを認めるしかなかった。

 仕事しか見ない女だと思っていた。でも、それは俺が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。そう考えながら、俺は課長と並んで三宮の街を歩く。

 手にした小さな紙袋が揺れるたびに、さっきの笑顔が頭に浮かび、俺はその顔をもう一度見たいと思ってしまう自分がいたのだった。
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