嫌いだった課長と恋をするまで

第14話 仕事のできる男

 月末の金曜日、オフィス内は、朝から落ち着かなかった。月末までに処理しなければならない案件がいくつも重なっているうえ、取引先への納品を控えた大型案件で、突然の仕様変更が出たからだ。

 営業から回ってきた資料には、先方の要望と社内の回答が入り混じっていて、これだけ読んでも何が問題なのか分かりにくい。

 俺は資料を机に広げ、電話で先方の担当者から話を聞くと、どうやら先方が困っているのは、変更そのものではない。変更によって納期がずれるのではないか、そこを気にしているらしい。電話を切ると、俺は椅子から立ち上がった。まず技術に確認し、それから物流、営業の順番で話を聞く必要がある。誰か一人に任せれば済む話ではなかった。

「課長、少し時間をもらえますか。先方から連絡があった件ですが、仕様変更そのものより、納期がずれることを先方が心配しています。技術には変更できる範囲を確認して、物流には納期を守る方法がないか聞きます。全部を一度に動かすと話が混乱するので、先に俺のほうで条件を整理してみます」

 課長は自分のパソコンから顔を上げ、俺が持ってきた資料を受け取った。紙をめくる音が続く間、俺は何も言わずに待った。やがて課長が資料を机へ置いたとき、その目は仕事の話をするときのものに戻っていた。

「分かりました。高橋さんに任せます。ただ、納期に影響が出ると分かったら、すぐに報告してください。先方への返事も、社内の確認が取れてからにしましょう。急いでいる案件ほど、目の前の要求だけに反応すると話が余計に難しくなります。先方が何を譲れないと思っているのか、そこを見てきてください」

「はい。行ってきます」

 俺は技術担当の席へ向かった。そこから先は、ひたすら人と話すことだった。
 
 技術は仕様を変えれば作業が増えると言う。
 物流は今の出荷方法では余裕がないと言う。
 営業は先方との関係を考えれば、できる限り要望を受けたいと言う。

 どれも間違ってはいない。それぞれの立場なら当然の話だ。俺は一人ずつ話を聞きながら、譲れない条件だけを資料の余白へ書き込んでいく。
 
 仕様変更のすべてを今回の納品に入れる必要はない。
 技術が難しいと言っている部分の一部を次回へ回し、今回必要な部分だけ対応する。
 物流についても、通常の出荷方法にこだわらなければ間に合わせられる可能性がある。

 問題は、できるかできないかではなく、どこまでなら動かせるかだった。昼を過ぎる頃には、最初はバラバラだった情報が一つにつながっていた。俺はその内容をまとめ、先方へ電話をかけた。

「今回の変更についてですが、すべてを納品前に反映するのではなく、今回どうしても必要な部分だけ対応させてください。残りは次回の納品で対応します。その代わり、出荷方法を変更すれば予定日に届けられることを物流側と確認しています。追加で発生する費用についても、こちらで負担できる部分と相談が必要な部分を整理しました。先方に余計な負担をお願いしたいわけではありませんので、まずは納期を守ることを優先して、この形で進めさせていただけないでしょうか」

 電話の向こうから返ってきた質問に一つずつ答え、最後に了承をもらったところで、俺はようやく受話器を置いた。背中を椅子に預けると、思っていた以上に疲れている。ふと顔を上げると、少し離れた場所から課長が、こちらを見ていたらしい。目が合うと、課長は何も言わずに近づいてきた。

「高橋さん、今の電話、聞こえていました。先方の話をそのまま受けるのではなく、何が一番困っているのかを確認したんですね」

「はい。最初は仕様変更が問題だと思っていたんです。でも、話を聞いたら納期のほうを気にしていたので、そこを守れば話は進むと思いました」

「社内の人間にも、それぞれ事情があります。技術に無理をさせれば別の場所で問題が出る。物流も同じです。そこを全部聞いたうえで、落としどころを作った」

「みんなに無理を言いたくなかっただけです。誰かに無理を押しつければ、その分だけ後で誰かが困りますから」

 課長は返事をせず、俺の机に置かれた資料へ目を落とした。その横顔を見ていると、何を考えているのか少し気になったが、すぐに自分の仕事へ戻ることにした。

 午後からは各部署との最終確認に追われ、取引先へ送る資料を作り直す。予定していた仕様と変更点を一つずつ並べ、誰が見ても分かるように整理する。
 夕方になって営業から連絡が入り、先方が正式に了承したことを知った。俺は大きく息を吐いた。周囲ではまだ月末の仕事に追われている社員がいる。そんな中、課長が俺の席までやってきた。

「高橋さん、お疲れさまでした。今回の件は、よくまとめてくれました」

「ありがとうございます。でも、俺だけでやったわけじゃないですよ。技術も物流も動いてくれましたから」

「その人たちに動いてもらうところまで含めて、高橋さんの仕事でしょう。自分で全部抱え込まず、必要な人に話を聞いて、最後に一つへまとめる。今日の対応を見ていれば、高橋さんがこの案件を任されている理由が分かります」

 その言葉を聞いて、俺は少し意外な気持ちになった。課長から仕事を褒められること自体が珍しかったわけではない。
 俺が意外に思ったのは、課長が俺の仕事を細かいところまで見ていたことだった。俺はずっと、課長が俺の体重や食事ばかり見ていると思っていた。九十キロを超えた体を見て、昼に大盛りを食べれば呆れた顔をする。仕事の合間に疲れた顔をしていれば、また何か言われる。

 だから俺も、課長にとって俺は生活に問題のある部下でしかないのだと思っていた。でも今日、課長が見ていたのはそこではなかった。俺が誰と話し、何を考え、どうやって案件をまとめたのかまで、ちゃんと見ていた。

「課長って、俺の仕事を見ていたんですね」

「見ていますよ。私は高橋さんの仕事ができないと思ったことはありません」

「……じゃあ、最初に俺を見たときは何だったんですか?」

「正直に言います。私は、高橋さんの生活面を見て、仕事まで同じようなものだと思い込んでいました。体重や食事を見て、自己管理ができない人だと判断してしまったんです。でも、それと仕事の能力は別でした」

 課長がそこまで言うとは思っていなかった。俺は返事をせず、机の上の資料を眺めた。俺だって同じだった。課長は仕事のことしか考えない人間だと思い、何を言われても嫌味に聞こえていた。なのに今は、その言葉の中に俺をちゃんと見ようとしているものがあると感じる。俺は苦笑しながら、資料をファイルへしまった。

「俺も、課長のことを仕事しか見ない人だと思っていました」

「今もそう思っていますか?」

「少し変わりました」

「何があったんですか?」

「この前、洋菓子店で笑っていた課長を見ましたから」

 課長は一瞬黙ったあと、少しだけ眉を寄せた。

「……まだ覚えていたんですか?」

「覚えていますよ。あんな顔、初めて見ましたから」

「忘れてください」

「無理です。あれは、かなり印象に残りました」

「高橋さん、そういうことを平然と言うところがありますよね」

 課長は呆れたように言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。つられて、俺も笑ってしまった。
 いつもなら、課長と二人で残っている時間は妙に緊張する。何を言われるのか、どこを指摘されるのかと身構えてしまうからだ。
 それなのに今日は、そんな感覚がなかった。オフィスの窓の外には三宮の街の明かりが増え、残っている社員の数も少なくなっている。仕事が片づいた安心感もあるのだろう。でも、それだけではない気がした。課長が俺を仕事のできない部下として見ていないように、俺も課長を仕事だけの人として見る必要はないのかもしれない。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。助かりました」

「課長にそう言ってもらえると、頑張った甲斐がありました」

「そういうところは素直なんですね」

「何ですか、それ」

「いえ。高橋さんらしいと思っただけです」

 課長はそう言って、自分の荷物を持つ。俺も席を立ち、パソコンを閉じる。二人で並んでオフィスを出ると、ビルのエントランスから夜の三宮へ出た。昼間の人通りとは違い、仕事を終えた人たちが駅へ向かっている。俺は隣を歩く課長をこっそりと覗き見た。仕事の話をしているときの顔とは少し違う。その横顔を見ながら、今日一日で課長との間にあった何かが変わった気がした。

 俺はまだ、この人を好きになるなんて考えていない。
 ただ、嫌いな上司と一緒にいるという感覚は、もう残っていなかった。
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