嫌いだった課長と恋をするまで

第15話 あなたのこと、誤解していました

 オフィスを出た俺たちは、駅へ向かう道を並んで歩いていた。仕事を終えた人たちがそれぞれの帰路につき、交差点では信号が変わるたびに人の流れが入れ替わっている。俺と課長も、その流れの中にいた。
 さっきまで案件のことで頭がいっぱいだったのに、会社を離れてしまうと急に話すことがなくなってしまう。以前なら、それを気まずい沈黙だと思っただろう。課長と二人きりになると、次に何を注意されるのかと身構えていたからだ。
 ところが今夜は、不思議とそうならなかった。隣を見ると、課長は仕事用の鞄を片手に持ち、少し疲れた顔で前を向いている。俺はその横顔を見ながら、今日の案件を思い返していた。自分の判断を認めてもらえたことが、時間が経つほど嬉しくなってくる。仕事で褒められたからというだけではない。これまで自分のことをどう見ていたのかを知っているからこそ、その評価が余計にありがたかった。

「高橋さん、今日の案件について、もう一度だけ伝えておきたいことがあります。私は今回、あなたに任せてよかったと思っています。取引先から話を聞いて、社内の事情だけで判断せずに調整したでしょう。あの場面で先方の希望をそのまま受け入れるのではなく、何が問題なのかを確認してから各部署に話を通した。ああいう判断は、現場を知らない人間にはなかなかできません。私も、あなたの仕事についてはもっと早くきちんと見るべきでした」

 課長からそんなふうに言われると、どうしても照れてしまう。俺は歩道の先を見ながら、頭をかく。褒められることに慣れていないわけではない。これまでにも仕事を評価されたことはある。それでも課長から言われると、なぜか素直に受け取れなかった。たぶん、最初の頃に言われた言葉が強く残っているからだ。食事のこと、体型のこと、生活のこと。俺自身がだらしないと思われているのは分かっていたし、それが仕事への評価にもつながっているように感じていた。だから今日も、褒められたあとに何か厳しい話が続くのではないかと警戒していた。そんな俺の様子に気づいたのか、課長は少しだけ歩く速度を落とした。

「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。注意するために話しているわけではありません」

「いや、警戒するなというほうが無理ですよ。課長には今まで、かなりいろいろ言われていますから。褒められたと思ったら、そのあとに別の問題を指摘されるんじゃないかって、つい考えてしまいます」

「……そうですね。私も、言い方を考えるべきでした」

 課長の返事は思ったより素直で、俺は思わず隣を見る。課長は前を向いたまま、少しだけ眉を下げている。謝ることに慣れていないのかもしれない。いつものようにすぐ答えを出すのではなく、言葉を探しながら話しているようにみえる。その姿を見ていると、俺の中にあった課長のイメージがまた少し変わってきた。何でも自分で決めて、人に弱みを見せず、間違いを認めない人。俺はずっとそんなふうに考えていた。でも、目の前にいる課長は、自分の言葉を振り返っている。俺はそのことが少し嬉しくて、さっきまでより肩の力が抜けていくのを感じた。

「私、最初に高橋さんを見たときから、少し決めつけていたんです。体型や食事の量を見て、自己管理ができない人なのだと思いました。それだけならまだしも、そういう部分を理由にして、仕事まで同じように見てしまった。今考えると、かなり失礼なことをしていました」

「まぁ……否定はできないです。俺も、課長のことをかなり悪く見ていましたから」

「どんなふうに?」

「仕事しか見ていない人。何を言っても正論で返してくる人。人の気持ちなんて考えていない人。最初は本気でそう思っていました」

 そこまで言ってから、俺は少しだけ笑った。今なら、その言葉をそのまま課長にぶつけても大丈夫な気がした。以前なら絶対に言えなかった。言えばすぐに言い返されると思っていたし、俺自身も腹を立ててしまうと思っていたのだ。ところが課長は怒らなかった。むしろ、しばらく黙ってから小さく息を吐いた。

「……当たっている部分もありますね。私は仕事になると、相手にも自分と同じように動いてほしいと思ってしまいます。できることなら自分でやってしまったほうが早いと思うことも多いですし、誰かに頼ることも得意ではありません。でも、それで周りがどう感じるかまで考えられていなかったのかもしれません」

「それは、俺も同じですよ。課長に言われるまで、自分が周りにどう見えているかなんて、あまり考えていませんでした。自分では普通にやっているつもりでも、外から見れば違うことってありますから」

「そうですね。だから、お互いに少しずつ間違えていたのだと思います」

 信号が赤になり、俺たちは横断歩道の手前で足を止める。隣では自転車が何台も通り過ぎ、向かいの店から明るい照明が歩道まで届いている。課長は信号を見ながら、さっきより少しだけ柔らかい表情をしていた。俺はそんな課長を見ているうちに、ふと以前なら聞かなかったことを口にしたくなった。課長が何を考えているのか、もっと知りたいと思ったのだ。ただ、踏み込みすぎるのは違う気もした。だから、仕事の話から少しだけ離れたところで言葉を選んだ。

「課長って、仕事以外ではどんな人なんですか?」

「急に難しい質問をしますね」

「いや、俺も自分で聞いてから変な質問だと思いました。でも、会社にいる課長しか知らないので」

「私も高橋さんのことは、会社にいる姿しか知らないですよ」

「だったら、お互い様ですね」

 青信号になり、俺たちは歩き出した。課長はすぐには答えず、少し考えていた。無理に答えを求めるつもりはなかったので、俺も黙って歩く。しばらくして課長が口を開いた。

「仕事をしていないときは、そんなに面白い人間ではありませんよ。家に帰ったら簡単なものを食べて、必要なことをして、早く寝る。それくらいです。ただ……仕事をしているときのほうが、余計なことを考えなくて済むんです。だから、仕事ばかりしているように見えたのかもしれません」

「それなら、俺と少し似ていますね」

「高橋さんもですか?」

「俺も、考えたくないことがあると仕事をしていたほうが楽なときがあります。家に帰って一人になると、余計なことまで考えてしまうから」

 課長は俺の顔を見た。何か聞きたいことがあるのだろう。でも、何も聞かなかった。そのことがありがたかった。俺も課長について知りたいと思ったからこそ、同じように相手が話したくないところまで踏み込むつもりはなかった。
 二人の間にしばらく沈黙が続いたが、今度はそれを気まずいとは感じなかった。話さなくても隣にいられる。そんな時間が、いつの間にか普通になり始めていることに気づいた。

 駅が近づくにつれて人通りが増え、仕事帰りの会社員や学生が俺たちの横を追い越していく。改札が見えてきたところで、課長が足を止めた。俺もつられて立ち止まる。ここで別れるのだと思うと、さっきまで普通に歩いていたことが少し惜しく感じられた。課長は鞄を持ち直してから、俺を見る。

「高橋さん。今日、話せてよかったです。仕事についてもそうですが、私はあなたのことを誤解していたと思います。もっと早く仕事そのものを見ていれば、必要以上にぶつかることもなかったでしょうね」

「俺も、課長のことを誤解していました。だから、これからはもう少しちゃんと見ます。課長が何でも一人でやろうとしても、無理なときは言ってください。仕事なら俺も手伝えますから」

「分かりました。そのときは頼らせてもらいます」

 課長がそう言って笑う。大きな笑顔ではない。それでも、その表情を見た瞬間、俺は何となく嬉しくなってしまう。今までの俺なら、課長とこんな話をすることすら考えなかっただろう。仕事のことでぶつかって、互いに腹を立てて、それぞれの席へ戻る。それが俺たちの関係だった。
 だが、今は、相手のことを少し知りたいと思える。自分のことも、少しなら話していいと思っている。まだ上司と部下という関係は変わらないし、親しい友人になったわけでもない。それでも、嫌いだから距離を取るというだけの関係ではなくなっていた。

「じゃあ、また明日」

「はい。お疲れさまでした」

 課長が改札へ向かっていく。俺は反対側の改札へ歩き出した。数歩進んだところで振り返ると、課長も一度だけこちらを振り返っていた。目が合うと、課長は小さく会釈をする。俺も同じように返す。たったそれだけのことなのに、胸の中に残った感覚は今までとは違っていた。

 俺はまだ、この気持ちに名前をつけるつもりはない。ただ、明日オフィスで課長に会ったら、少しだけ自然に話せそうだと思った。そしてたぶん、課長も同じように感じている。

 そんな気がした。
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