嫌いだった課長と恋をするまで

第16話 二人で歩く魚屋道(ととやみち)

 土曜日の朝、俺は阪神深江駅の改札を出た。昨日、神谷課長から聞いた予定では、ここから魚屋道を歩いて有馬温泉まで向かい、そこから公共交通機関を使っておじいさんの入院している病院へ行くことになっている。
 おじいさんの荷物を病院へ届けるだけなら、病院の近くで待ち合わせればいい。それなのに、なぜ深江なのか。そこには課長なりの理由があった。

 課長が見せてくれた一枚の古い写真には、若い頃の祖父が山道に立っていた。写真の裏には、祖父自身の字で『魚屋道(ととやみち)』と書かれている。

 深江から六甲山を越えて有馬へ通じるこの道は、昔、海側から魚を運ぶために使われた道で、今は登山道として歩かれている。

 
 昨日、課長から「祖父の荷物を病院へ持っていきたいので、手伝ってもらえませんか」と頼まれたのが、今日ここへ来たきっかけだった。着替えや日用品など、病院へ持っていくものがいくつかあるらしく、一人で運ぶより高橋さんに手伝ってもらえると助かると課長が頼んできたのだった。俺はもちろん引き受けることにした。課長が誰かに助けを求めてくれたことが、単純に嬉しかったからだ。そのうえで課長は、病院へ向かう前にどうしても寄りたい場所があると言う。それが、魚屋道だという。

 課長は祖父が病院で過ごしている今だけを見るのではなく、元気だった頃に祖父が歩いた道を、自分の足でたどってみたいとそうだ。その話を聞いた俺は、おじいさんの荷物を持つ役目もあるし、一緒に歩くことにした。

「おはようございます、高橋さん」

 振り返ると、課長が駅の出口から歩いてきた。スーツではなく、動きやすそうな服にリュックを背負っている。仕事中とは違う格好が妙に新鮮で、俺は一瞬その姿を見つめてしまった。課長に気づかれる前に視線をリュックへ移す。

「おはようございます。荷物、持ちます」

「ありがとうございます。祖父の着替えや日用品が入っています。少し重いと思いますが、お願いします」

「これくらいなら大丈夫です。病院へ届けるんですよね」

「はい。今日は高橋さんに頼ってしまって、すみません」

「頼ってください。それが、俺が来た理由でもありますから」

 俺がリュックを受け取ると、課長は一度だけ頭を下げてきた。職場なら、俺が課長から荷物を受け取るのは単なる指示の一つとして終わっていたと思う。だが、今日は違う。課長が自分から俺に頼み、俺がそれを引き受ける。たったそれだけのことなのに、妙に新鮮に思える。俺たちは駅を出て、北へ向かって歩き始めた。

 深江の街中を進むにつれて、道は少しずつ坂になっていく。住宅の間から見える山がだんだん大きくなり、海側の街を離れて山へ向かっていることがはっきり分かる。俺は肩にかかった荷物を持ち直しながら、こんな場所から魚を背負って有馬まで歩いた人たちを想像してしまう。
 
 車も電車もない時代なら、この道を歩くしかなかったのだろう。今の俺でさえ坂道だけで息が上がりそうなのに、魚を運ぶ仕事なら荷物も相当な重さだったはずだ。

 ただ、そう考えていた数分後には、俺自身の呼吸も少しずつ乱れ始めた。普段の俺は、会社と自宅を往復するくらいで、運動らしい運動なんてほとんどしていない。九十キロを超えた体で坂道を歩けば、平地とは比べものにならない負担が足にかかる。肩のリュックも次第に重く感じられ、俺は何度か大きく息を吸った。
 
「ゼェ……ハァ……」

 まだ街中だというのに、喉が熱くなってくる。自分では普通に歩いているつもりなのに、心臓は早くなり、額にはじんわり汗が浮かんでいた。

「昔の人って、すごいですよね。この坂を魚を背負って登ったんでしょう?」

「そうですね。深江で魚を仕入れて、六甲山を越えて有馬まで運んだそうです。だから魚屋道と呼ばれるようになったと聞いています」

「名前だけ聞くと、魚屋さんが歩く道みたいですけど、実際に歩くと結構きついですね」

「まだ街中ですよ」

「課長、それは聞きたくなかったです」

 課長と同時に笑ってしまう。仕事中なら、こんな話をしているだけで「無駄話をする時間があるなら仕事をしてください」と言われそうなのに、今日は誰も急かさない。隣を歩いている課長も、俺が何か話すたびにちゃんと聞いている。そのことを意識すると、妙に落ち着かなくなった。

 街中の坂道をさらに登っていくと、住宅が減り、木々が目立つようになってきた。その先に見えてきた大きな岩を、課長が指差した。

「ここです。蛙岩(かえるいわ)」

 課長の指さす方向を見ると、驚くほどカエルがうずくまって座っている姿に見える巨大な奇岩である。その蛙岩の周辺を過ぎると、道の雰囲気がはっきり変わる。舗装された街中の道から、土と石が混じった山道へ入っていく。木の根が道を横切り、足元を見なければつまずきそうな場所もある。ここから本格的な登山道になるのだと実感した。

「ここからが魚屋道なんですね」

「はい。ここから先は、山を越えていきます」

「課長、最初に言っておいてくださいよ」

「何をですか?」

「もっと大変だって」

「言ったら来ませんでしたか?」

「たぶん、少し考えました」

「では、言わなくて正解でしたね」

 俺は苦笑しながら山道へ足を踏み入れ、数分も歩くと、俺の呼吸は苦しくなる。平地なら気にならない体の重さが、坂道ではそのまま足へ返ってくるからだ。俺が少し歩く速度を落とすと、課長も自然に歩調を落としてくれた。先へ進めるはずなのに、俺を置いていこうとはしない。そのことがありがたい反面、俺は自分が情けなくなってくる。

 一歩ごとに、太ももが重くなり、息を吸っても吸っても足りないような感覚があり、俺は口を開けて呼吸を繰り返した。

「ゼェ……ハァ……」

 足を前へ出すだけなのに、こんなに苦しい。体重が重いことも、普段から運動していないことも、こういう場所へ来ると全部そのまま返ってくる。さらに坂の角度が増すたび、膝の奥にも鈍い痛みが走った。

 俺は一度だけ右膝を手でさすり、何事もなかったように前を向いた。課長には見られたくなかった。

「高橋さん、無理しなくて大丈夫ですよ」

「大丈夫です。まだ歩けます」

「そう言うと思いました。でも、ここから先は長いですから、最初に頑張りすぎない方がいいです」

「課長は余裕ですね」

「私は山道を歩くことに慣れていますから。それに、今日は競争ではありません」

「分かっています。でも、課長に合わせてもらっているのが申し訳なくて」

「私は自分のために歩いているわけではありません。高橋さんと一緒に来たのですから、一緒に進めばいいでしょう」

 課長は当然のことのように言い、その言葉に俺は返事をせず、前を向く。

 ”一緒に来た。”

 その言葉を、なぜか何度も頭の中で繰り返してしまう。荷物を持つために来た。課長の祖父のために来た。それは分かっている。それなのに課長が「一緒に」と口にすると、仕事上の関係とは別のところで、その言葉を意識してしまった。

 ただ、そんなことを考えている余裕がなくなるほど、坂道は俺の体力を削っていく。歩いているだけなのに呼吸が乱れ、膝の痛みも少しずつはっきりしてくる。俺は課長に悟られないよう、何度も深く息を吐いた。

 
 山道を登っていくと、木々の隙間から海側の街が見える場所が増えてきた。課長は時々足を止め、古い写真と周囲の景色を見比べている。俺も横から写真を覗き込む。若い祖父が山道に立ち、こちらを向いて笑っていた。病院で横になっている今の姿からは想像しにくいほど、元気そうな顔だった。

「この辺りも、おじいさんが歩いたんでしょうね」

「そうですね。写真に写っている木と似たものが残っています」

「写真を持ってきてよかったですね」

「はい。写真がなければ、ただ山を歩いて終わっていたと思います」

 課長は写真を見つめながら、少し考えるように続けた。

「祖父から魚屋道の話を聞いたことは何度もありました。深江から山へ入り、蛙岩を過ぎて、風吹岩(かざふきいわ)へ向かう。その先には雨ヶ峠(あまがとうげ)があって、本庄橋跡(ほんじょうばしあと)を通り、一軒茶屋の近くを抜けて有馬へ下りる。子どもの頃は、ただ長い道の名前を覚えているだけでした。でも、祖父が歩いていた写真を見つけたら、実際に歩いてみたくなってしまって」

「おじいさんが見ていたものを、自分でも見てみたかったんですね」

「はい。病院で眠っている祖父を見ていると、今の祖父の姿ばかり考えてしまいます。でも、写真の中では、祖父は自分の足で山を歩いている。だったら、その人が歩いた道を私も歩いてみれば、少しは祖父のことを思い出せる気がしたんです」

「それなら、俺が荷物を持ってきた意味もありますね」

「荷物だけではありませんよ。今日は一人で歩くつもりだったんです。でも、高橋さんが来てくれることになって、少し安心しました」

「俺がいると安心するんですか?」

「はい」

 あまりに素直な返事だったので、俺は言葉を失ってしまう。課長は何も気にしていないように前を向いて歩き、俺だけが妙に意識してしまう。

「……課長、そういうことを普通に言うんですね」

「何がですか?」

「いや、何でもありません」

「変な高橋さんですね」

「課長にだけは言われたくないです」

 課長が笑い、俺も笑う。その笑顔を見ながら、もっと、この人のこういう顔を見ていたい。

 その考えに自分で驚き、慌てて前を向く。
 しばらく進むと、視界が開けた。

「風吹岩です」

 風吹岩から見下ろす神戸の街は、深江駅から見た景色とはまるで違っていた。海が広く、その向こうまで視界が伸びている。俺は岩の近くに立ち、しばらく何も言わずに景色を眺める。深江から歩いてきた道が、ずっと下の方へ続いている。そこからさらに山を越えて、有馬まで行くのだと思うと、この魚屋道が昔の人たちにとってどれほど大変な道だったのか、少しだけ実感できた。

 同時に、俺は自分の胸が大きく上下していることにも気づいた。立ち止まった途端、張りつめていた呼吸が一気に乱れる。

「ゼェ……ハァ……」

 膝に手をつきたいくらいだったが、課長の前では何とか立ったままでいた。景色を眺めながら呼吸を整えていると、膝の痛みも少しずつ落ち着いてくる。

「おじいさんも、ここから海を見たんでしょうね」

「そうだと思います」

「何を考えていたんでしょう?」

「分かりません。でも、今の私と同じように、深江の街を見ていたのかもしれません。でも、そう考えると、少し嬉しいです」

「嬉しい?」

「祖父と同じ場所に立って、同じ方向を見ている。それだけですけど、離れていた時間が少しだけ近くなった気がします」

「俺も、課長と一緒に来てよかったです」

「どうしてですか?」

「一人で来ていたら、たぶん景色を見る余裕もありませんでした。課長が写真を見たり、おじいさんの話をしたりするから、俺も魚屋道のことを考えるようになったんです」

「高橋さんがそう言ってくれるなら、私も来てよかったです」

 風吹岩を離れ、俺たちはさらに山の奥へ進んでいく。道は登り下りを繰り返し、木々に囲まれた場所では海も見えなくなる。

 風吹岩で少し休んだことで、呼吸は落ち着いた。だが、歩き始めて坂に入ると、すぐにまた息が上がってくる。足は重く、さっきまでの疲労が抜けていない。特に膝には、歩くたびに鈍い痛みが残っている。

 雨ヶ峠へ向かう道に入ると、俺の足はさらに重くなる。課長は何度も俺の歩調を確認しながら進み、俺が遅れれば自然に待ってくれる。最初は申し訳なかったのに、今ではそのことが少し嬉しくなっている自分に気づいていた。

 俺は何度も息を吐きながら、一歩ずつ足を前へ出した。

「ゼェ……ハァ……」

 声に出さないようにしているつもりなのに、荒い呼吸は隠せない。膝が痛むたびに足の置き場を変え、少しでも楽な場所を探しながら進む。それでも課長は急かさない。俺が止まれば、課長も自然に立ち止まってくれる。

「高橋さん、少し休みますか?」

「大丈夫です。でも、課長も疲れているでしょう」

「私は大丈夫です」

「その言葉、信用できません」

「どうしてですか?」

「仕事のときも、自分が大変なのに平気な顔をするからです」

「高橋さんも同じでしょう」

「俺は体力がないだけです」

「そういうところですよ」

「何がです?」

「自分のことを簡単に片づけてしまうところです」

「……課長にそんなこと言われるとは思いませんでした」

「私も、高橋さんから言われるとは思いませんでした」

「じゃあ、お互い様ですね」

「そうですね」

 やがて、雨ヶ峠に差しかかった。山道の中で一つの区切りを越えたような感覚がある。俺は息を整えながら、課長と並んで立った。ここまで来れば、有馬まで残された道も少しずつ見えてくる。

 俺は膝に手を置き、ゆっくり息を吐いた。

「ゼェ……ハァ……」

 さっきから何度目か分からない。歩くだけでこんなに息が切れるなんて、普段の生活では考えもしなかった。九十キロを超えた体は、山道では容赦なく俺の体力を奪っていく。

「ここが雨ヶ峠なんですね」

「はい。ここを越えて、さらに進みます」

「まだあるんですか?」

「あります」

「聞かなければよかったです」

「でも、高橋さんなら歩けます」

「どうしてですか?」

「私が一緒に歩いていますから」

 また、その言葉だった。

「……それ、反則ですよ」

「何がですか?」

「何でもありません」

 課長は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

 
 雨ヶ峠を越えた道を進み、本庄橋跡へ向かう。道の景色は深江側とはまた違う。俺は足元を確かめながら歩き、途中で立ち止まって周囲を見回した。昔の人が魚を背負って通った道であり、課長の祖父が歩いた道であり、今は俺たちが並んで歩いている。その時間の重なりが、妙に不思議だった。

 俺の方は不思議に思う余裕がある一方で、体は正直だった。坂を下ると膝への負担が増し、足を踏み出すたびに痛みが響く。登りで疲れた脚には、下りも決して楽ではない。

 俺は歩幅を小さくし、膝をかばいながら進んだ。

「ここが本庄橋跡です」

「名前だけ聞くと、昔はここに橋があったんですね」

「はい。祖父の話では、この辺りも魚屋道の目印として聞いていたそうです」

「課長、おじいさんの話をよく覚えていますね」

「全部ではありません。でも、こうして歩いていると、思い出すんです。祖父が話していた場所の名前や、山を越える順番とか。子どもの頃は、祖父がそんなに長い道を歩いていたことなんて、深く考えていませんでした。今になって、もっと聞いておけばよかったと思います」

「今でも聞けるんじゃないですか?」

「病院で、ですか?」

「はい。少し元気になったら、魚屋道の話をしてもらえばいいじゃないですか。課長が聞きたいことを全部聞けばいい」

「……そうですね。高橋さんがそう言ってくれると、聞いてみたくなります」

「じゃあ、病院へ行ったら聞きましょう」

「高橋さんも一緒に聞いてくれますか?」

「もちろんです」

 その言葉を口にしてから、俺は少しだけ照れてしまった。課長は何も言わずに歩き出す。ただ、その口元には小さな笑みが残っていた。

 そこから先は、二人とも必要以上に話さなかった。歩く速度が自然に揃い、足元を確認するタイミングまで似てくる。俺が立ち止まれば課長も立ち止まり、課長が写真を取り出せば俺も一緒に覗き込む。最初は荷物を持つために来ただけだったはずなのに、いつの間にか俺自身がこの道を歩く時間を大切にしていることに気づいてしまった。

 ただ、静かになった分、自分の呼吸音がよく聞こえるようになった。

「ゼェ……ハァ……」

 俺は何度も深く息を吐きながら歩いた。体は重い。足も重い。膝も痛い。それでも、課長が少し前を歩いている姿を見ると、置いていかれたくないと思う。

 一軒茶屋へ近づく頃には、俺の足はかなり重く、疲れ切っていた。そこは六甲最高峰のすぐ下に位置する場所で、ここまで来ると山を越えてきたという実感が強くなる。課長も足を止め、俺が追いつくのを待っていた。

 俺は最後の坂を登り切ったところで、とうとう大きく息を吐いた。

「ゼェ……ハァ……ゼェ……ハァ……」

 胸が激しく上下している。額から汗が流れ、脚には力が残っていない。特に膝が熱を持ったように痛み、俺はその場で数秒立ち止まった。

「高橋さん、ここまで来ましたね」

「一軒茶屋ですよね。もう山を越えたと思っていいんですか?」

「はい。ここから有馬側へ下っていきます」

「下りなら助かります」

「ただし、下りも足にきますよ」

「課長、今日は俺に厳しくないですか?」

「高橋さんが弱音を吐くからです」

「課長の前だから吐いているんですよ」

「……それは、どういう意味ですか?」

「いや、その……」

 言葉が詰まった。課長は俺を急かさずに待っている。

「一人だったら、たぶん黙って歩いていると思います。でも課長がいるから、疲れたとか、きついとか、そういうことも言えるんです」

「それなら、私も嬉しいです」

「嬉しい?」

「はい。高橋さんが私の前では無理をしなくていいと思ってくれているなら」

「では、行きましょう。有馬まで、あと少しです」

「はい」

 峠を越えて有馬側へ入ると、道は下り坂になる。魚屋道は山を越え、ここから有馬へ向かって下っていく。木々の間を抜けながら歩いていると、少しずつ空気が変わり、遠くから街の気配が近づいてくる。深江から始まった道が、ようやく終わりへ向かっている。

 下り坂なら楽になると思っていた俺の考えは、すぐに甘かったと分かる。登りで疲れた太ももと膝に、今度は下りの衝撃が加わる。俺は足を着くたびに膝へ伝わる痛みを感じ、無意識に歩幅を狭くした。

「……痛っ」

 小さく漏らした声を、課長が聞き逃さなかった。

「高橋さん?」

「大丈夫です。膝が少し痛いだけです」

「少し休みましょうか?」

「いや、もう有馬が見えてきていますから」

「無理をしてはいけません」

「分かっています」

 そう答えながらも、俺は息を整えるために一度立ち止まった。

「ゼェ……ハァ……」

 課長は何も言わず、俺の隣に立って待ってくれる。急かされない。それだけで、もう一度歩き出す力が戻ってくる。

「課長。こうやって歩いてみると、おじいさんがこの道を何度も歩いていたって、少し分かる気がします」

「私もです。話だけ聞いていたときは、どこか遠い話でした。でも、実際に歩いてみると、祖父がここを歩いていたことが現実になります」

「今日、来てよかったですね」

「はい」

 課長は少し間を置いてから、俺を見た。

「高橋さんが一緒で、本当によかったです」

 俺はごまかすように前を向く。

「俺もです」

「何がですか?」

「課長と一緒に来てよかったって言ったんです」

「……そうですか」

 有馬温泉の街が見えてくる。長い山道の終わりが近づいていた。

 俺たちは深江から始まった魚屋道を歩き、蛙岩を過ぎ、風吹岩から海を眺め、雨ヶ峠を越え、本庄橋跡を通り、一軒茶屋を経て、有馬側へ下ってきた。
 昔、魚を運ぶために人が歩いた道を、今は俺たちが歩いている。その長い道のりの中で、俺は祖父のことを話す課長を見ていた。そして、職場では見えなかった課長の表情を、少しずつ知っていった。

 正直、体力的にはかなりきつかった。九十キロを超えた体で、普段ほとんど運動をしていない俺が、魚屋道を歩き切ろうとしている。途中では何度も息が切れ、膝も痛くなった。それでも、課長と並んで歩いたことで、最後まで自分の足で進むことができた。

 有馬温泉の街へ入ったところで、課長が足を止めた。リュックから古い写真を取り出し、目の前の景色と重ねるように眺めている。写真の中の祖父は笑っていた。課長はその写真をしばらく見つめてから、静かに息を吐いた。

「着きましたね」

「はい。長かったです」

「でも、歩けました」

「高橋さんが一緒でしたから」

「俺も、課長が一緒だったから歩けました」

「……ありがとうございます」

「こちらこそ」

 その笑顔を見ていると、もう少しこのまま一緒に歩いていたいと思ってしまう。
 だけど、すぐに病院へ向かわなければならない。おじいさんの荷物も届けなければならない。それでも俺は、深江からここまでの道が終わってしまうことを、少しだけ惜しいと思ってしまっていた。

 俺はまだ、この気持ちを恋だとは思わなかった。
 ただ、神谷課長と二人で歩いた魚屋道の時間を、俺はきっと忘れない。

 この時、もう少しだけ、この人の隣にいたいと思っていたのだ。
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