嫌いだった課長と恋をするまで
第3章 嫌いだったはずなのに
第17話 九十キロの男にはきつすぎる
魚屋道を歩いた日の疲れは、三日経っても身体の奥に残っていた。朝、いつもの駅で電車を降り、会社へ向かうために階段へ足をかける。普段なら何も考えずに上っている階段なのに、十段を過ぎたあたりから脚が重くなり、二十段を超える頃には胸の奥が熱くなってきた。まだ会社へ着いてもいないというのに、呼吸が少しずつ乱れていく。最後の段を上り切ったところで、俺は人の流れから少し外れ、手すりに手を置いた。
ゼェ、ハァ、と荒い息が漏れる。誰かに見られているわけでもないのに、妙に情けなくなってしまう。山道なら、坂が続いていたのだから仕方がないと思えた。だが、ここは駅の階段だ。毎日歩いている場所でさえ、今の俺には簡単ではない。その事実が、胸の奥へじわりと沈んでいった。
トイレの鏡の前に立ち、ネクタイを少し緩めて呼吸を整える。鏡に映っているのは、見慣れているはずの自分である。大きくなった身体、丸くなった顔、シャツの胸元から感じる窮屈さ。数字だけなら、体重計に乗れば嫌でも分かる。九十キロを超えたことも知っている。それでも普段は、なるべく考えないようにしていた。
高校の頃は身体を動かすことが好きだった。社会人になってからも、仕事が終わればジムへ行き、休日には走っていた時期がある。あの頃の自分なら、駅の階段程度で息を切らすことなどなかった。
今は違う。食べて、寝て、仕事へ行く。休日になれば家で過ごし、また食べる。そんな生活を何年も続けてきた。失恋した直後は、それでよかった。何も考えたくなかったし、自分の身体がどうなろうと気にする余裕もなかった。だが、あの日、坂道を上りながら何度も立ち止まり、膝まで痛くなったことを思い出すと、さすがに目を逸らせなくなる。俺は、自分のことを放っておきすぎたのかもしれない。
「高橋さん、ここにいたんですか」
やっと会社に到着し、息を整えている時、背後から聞こえた声に振り返ると、神谷課長が立っていた。片手には書類の束を抱え、いつものようにきちんと整えられたスーツを着ている。俺は反射的に背筋を伸ばしたが、課長の視線が一瞬だけ俺の顔へ向いたことに気づいた。さっきまで息を切らしていたのを見られたのかと思い、急に気まずくなる。魚屋道で散々な姿を見せたばかりなのに、会社でも息を切らしているところまで見られたくはない。俺が何でもない顔を作って歩き出そうとすると、課長が手にしていた書類を軽く持ち直した。
「始業時間まで、あと数分です。急ぐ必要はありませんが、今日は会議があります。体調が悪いなら、先に言ってください」
「体調は大丈夫です。ちょっと階段を急いだだけですから」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わなかった。もっと何か言われると思っていた。自己管理がどうだとか、体調管理も仕事のうちだとか、そんな説教が飛んでくると身構えていたのだ。だが、課長は俺の返事を聞くと、そのまま歩き出し、俺も少し遅れて後を追う。
廊下の窓から差し込む朝の光が床に伸び、まだ人の少ないオフィスには、出社した社員の足音だけが響いている。ほんの数日前までなら、課長と二人きりで歩くことさえ気まずかった。今は、その沈黙が以前ほど嫌ではない。それどころか、さっき自分の体調を気にしてくれたことが、妙に引っかかっていた。
「そういえば、高橋さん」
「はい?」
「膝は、もう大丈夫なんですか」
課長は前を向いたまま、こちらを見ていない。何でもないことのように尋ねている。その声も普段と変わらない。それなのに、俺は返事をするまで少し時間がかかってしまう。あの日、坂道の途中で膝を押さえたことを思い出す。痛みを隠していたつもりだったし、課長に心配をかけたくなくて平気なふりもした。それを覚えていたらしい。
「もう大丈夫です。昨日までは少し痛かったですけど、今は平気ですよ」
「なら、よかったです」
それだけ言うと、課長は再び歩き始め、俺も隣へ並ぶ。たったそれだけの会話なのに、胸の奥に何かが残る。
仕事の確認でもない。注意でもない。上司として部下の状態を確認しただけなのだろう。それでも、あの人が俺の膝の痛みを覚えていたことが、なぜか嬉しかった。少し前の俺なら、そんなことを考える自分を笑っていたと思う。課長は仕事しか見ていない女だ。そう決めつけていた。だが、今は少し違う。仕事中には厳しいし、言葉も容赦がない。それでも、人のことを何も見ていないわけではないらしい。そう思うようになった自分が、俺には少し不思議だった。
「今日の午前中、取引先との打ち合わせがあります。高橋さんにも同席してもらいます」
「分かりました」
「資料には目を通していますか」
「昨日のうちに確認しています。先方から追加で質問が来ていた件も、回答案を作ってあります」
課長が足を止め、初めてこちらを見る。その目は仕事のときのものだったが、以前とは少し違う気がした。
「分かりました。では、その回答案を会議前に見せてください」
「はい」
それだけで会話は終わったが、仕事の話をしている間だけは、身体の重さも膝の痛みも忘れられた。俺は自分の席へ向かいながら、魚屋道で課長が少し先に立っていた姿を思い出していた。俺が息を切らして立ち止まるたび、課長は先へ行かなかった。振り返って、俺が追いつくのを待っていた。あのときは、単に上司として部下を置いていかなかっただけだと思っていた。それで十分だったはずなのに、今になって、そのことが妙に気になっている。俺がどれだけ遅れても、急かすことなく待ってくれた。あの課長が、だ。仕事では少しでも遅れれば厳しく指摘する人なのに、あの道では俺の歩幅に合わせてくれた。その違いを思い返すほど、俺の中にあった”人の気持ちを考えない女”という印象が、少しずつ崩れていく。
「高橋さん、どうしたんですか?」
「え?」
声をかけられて顔を上げると、小川が机の向こうから俺を見ていた。いつの間にか資料を手にしたまま、ぼんやりしていたらしい。俺は慌ててパソコンへ視線を戻す。
「いや、何でもない」
「何でもない顔じゃないですよ。疲れてます?」
「ちょっと身体が重いだけ」
「珍しいですね。高橋さんが朝からそんな顔してるの」
「最近、少し身体を動かしてなかったからな」
口にした瞬間、自分でも意外だった。これまでなら、そんなことを誰かに話そうとは思わなかった。だが、あの道を歩いたことで、自分の身体が思っていた以上に衰えていることを実感した。九十キロを超えた身体を抱えたまま、何も変えずに生きていくのは、もう難しいのかもしれない。”痩せなければならない”、とまではまだ思えなかった。ただ、階段を上っただけで息を切らす自分は、このままでいいのかと、その疑問だけは消えなかった。
午前の仕事を終え、昼休みに俺は社員食堂へ向かう途中、窓の外へ目を向けると、遠くに六甲の山並みが見える。あの日は、あの山の中を歩いた。息が上がり、汗が止まらず、脚は重く、膝まで痛くなった。それでも、最後まで歩いた。途中で何度も帰りたくなった俺を、課長は急かさなかった。思い出すだけで、ふくらはぎの奥が少し重くなる。俺は苦笑しながら自分の脚を見下ろした。九十キロを超えた男が、何年も運動らしい運動をしていなければ、あれだけの道がきついのは当然だ。分かっていたはずなのに、実際に歩いてみるまで、本当のところは何も分かっていなかった。
「高橋さん」
また課長の声がして振り返ると、少し離れたところに彼女が立っている。
「昼食ですか」
「はい。課長もですか?」
「そうです。今日は少し休んでください」
「俺、そんなに疲れて見えます?」
「見えます」
「……相変わらず、はっきり言いますね」
「事実を言っただけです」
そう言いながら歩き出した課長の横顔を見ていると、なぜか笑いが込み上げてきた。以前なら腹を立てていた言葉なのに、今日は不思議と嫌ではない。
あの日の疲れはまだ身体に残っている。膝も完全には忘れていない。それでも、あの道を歩いたことを後悔してはいなかった。むしろ、あの日から俺の中で何かが変わり始めている気がする。自分の身体を気にするようになったことも、その一つだ。
そしてもう一つ、以前なら見ようともしなかった課長のことを、俺は少しずつ知りたいと思い始めていた。
ゼェ、ハァ、と荒い息が漏れる。誰かに見られているわけでもないのに、妙に情けなくなってしまう。山道なら、坂が続いていたのだから仕方がないと思えた。だが、ここは駅の階段だ。毎日歩いている場所でさえ、今の俺には簡単ではない。その事実が、胸の奥へじわりと沈んでいった。
トイレの鏡の前に立ち、ネクタイを少し緩めて呼吸を整える。鏡に映っているのは、見慣れているはずの自分である。大きくなった身体、丸くなった顔、シャツの胸元から感じる窮屈さ。数字だけなら、体重計に乗れば嫌でも分かる。九十キロを超えたことも知っている。それでも普段は、なるべく考えないようにしていた。
高校の頃は身体を動かすことが好きだった。社会人になってからも、仕事が終わればジムへ行き、休日には走っていた時期がある。あの頃の自分なら、駅の階段程度で息を切らすことなどなかった。
今は違う。食べて、寝て、仕事へ行く。休日になれば家で過ごし、また食べる。そんな生活を何年も続けてきた。失恋した直後は、それでよかった。何も考えたくなかったし、自分の身体がどうなろうと気にする余裕もなかった。だが、あの日、坂道を上りながら何度も立ち止まり、膝まで痛くなったことを思い出すと、さすがに目を逸らせなくなる。俺は、自分のことを放っておきすぎたのかもしれない。
「高橋さん、ここにいたんですか」
やっと会社に到着し、息を整えている時、背後から聞こえた声に振り返ると、神谷課長が立っていた。片手には書類の束を抱え、いつものようにきちんと整えられたスーツを着ている。俺は反射的に背筋を伸ばしたが、課長の視線が一瞬だけ俺の顔へ向いたことに気づいた。さっきまで息を切らしていたのを見られたのかと思い、急に気まずくなる。魚屋道で散々な姿を見せたばかりなのに、会社でも息を切らしているところまで見られたくはない。俺が何でもない顔を作って歩き出そうとすると、課長が手にしていた書類を軽く持ち直した。
「始業時間まで、あと数分です。急ぐ必要はありませんが、今日は会議があります。体調が悪いなら、先に言ってください」
「体調は大丈夫です。ちょっと階段を急いだだけですから」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わなかった。もっと何か言われると思っていた。自己管理がどうだとか、体調管理も仕事のうちだとか、そんな説教が飛んでくると身構えていたのだ。だが、課長は俺の返事を聞くと、そのまま歩き出し、俺も少し遅れて後を追う。
廊下の窓から差し込む朝の光が床に伸び、まだ人の少ないオフィスには、出社した社員の足音だけが響いている。ほんの数日前までなら、課長と二人きりで歩くことさえ気まずかった。今は、その沈黙が以前ほど嫌ではない。それどころか、さっき自分の体調を気にしてくれたことが、妙に引っかかっていた。
「そういえば、高橋さん」
「はい?」
「膝は、もう大丈夫なんですか」
課長は前を向いたまま、こちらを見ていない。何でもないことのように尋ねている。その声も普段と変わらない。それなのに、俺は返事をするまで少し時間がかかってしまう。あの日、坂道の途中で膝を押さえたことを思い出す。痛みを隠していたつもりだったし、課長に心配をかけたくなくて平気なふりもした。それを覚えていたらしい。
「もう大丈夫です。昨日までは少し痛かったですけど、今は平気ですよ」
「なら、よかったです」
それだけ言うと、課長は再び歩き始め、俺も隣へ並ぶ。たったそれだけの会話なのに、胸の奥に何かが残る。
仕事の確認でもない。注意でもない。上司として部下の状態を確認しただけなのだろう。それでも、あの人が俺の膝の痛みを覚えていたことが、なぜか嬉しかった。少し前の俺なら、そんなことを考える自分を笑っていたと思う。課長は仕事しか見ていない女だ。そう決めつけていた。だが、今は少し違う。仕事中には厳しいし、言葉も容赦がない。それでも、人のことを何も見ていないわけではないらしい。そう思うようになった自分が、俺には少し不思議だった。
「今日の午前中、取引先との打ち合わせがあります。高橋さんにも同席してもらいます」
「分かりました」
「資料には目を通していますか」
「昨日のうちに確認しています。先方から追加で質問が来ていた件も、回答案を作ってあります」
課長が足を止め、初めてこちらを見る。その目は仕事のときのものだったが、以前とは少し違う気がした。
「分かりました。では、その回答案を会議前に見せてください」
「はい」
それだけで会話は終わったが、仕事の話をしている間だけは、身体の重さも膝の痛みも忘れられた。俺は自分の席へ向かいながら、魚屋道で課長が少し先に立っていた姿を思い出していた。俺が息を切らして立ち止まるたび、課長は先へ行かなかった。振り返って、俺が追いつくのを待っていた。あのときは、単に上司として部下を置いていかなかっただけだと思っていた。それで十分だったはずなのに、今になって、そのことが妙に気になっている。俺がどれだけ遅れても、急かすことなく待ってくれた。あの課長が、だ。仕事では少しでも遅れれば厳しく指摘する人なのに、あの道では俺の歩幅に合わせてくれた。その違いを思い返すほど、俺の中にあった”人の気持ちを考えない女”という印象が、少しずつ崩れていく。
「高橋さん、どうしたんですか?」
「え?」
声をかけられて顔を上げると、小川が机の向こうから俺を見ていた。いつの間にか資料を手にしたまま、ぼんやりしていたらしい。俺は慌ててパソコンへ視線を戻す。
「いや、何でもない」
「何でもない顔じゃないですよ。疲れてます?」
「ちょっと身体が重いだけ」
「珍しいですね。高橋さんが朝からそんな顔してるの」
「最近、少し身体を動かしてなかったからな」
口にした瞬間、自分でも意外だった。これまでなら、そんなことを誰かに話そうとは思わなかった。だが、あの道を歩いたことで、自分の身体が思っていた以上に衰えていることを実感した。九十キロを超えた身体を抱えたまま、何も変えずに生きていくのは、もう難しいのかもしれない。”痩せなければならない”、とまではまだ思えなかった。ただ、階段を上っただけで息を切らす自分は、このままでいいのかと、その疑問だけは消えなかった。
午前の仕事を終え、昼休みに俺は社員食堂へ向かう途中、窓の外へ目を向けると、遠くに六甲の山並みが見える。あの日は、あの山の中を歩いた。息が上がり、汗が止まらず、脚は重く、膝まで痛くなった。それでも、最後まで歩いた。途中で何度も帰りたくなった俺を、課長は急かさなかった。思い出すだけで、ふくらはぎの奥が少し重くなる。俺は苦笑しながら自分の脚を見下ろした。九十キロを超えた男が、何年も運動らしい運動をしていなければ、あれだけの道がきついのは当然だ。分かっていたはずなのに、実際に歩いてみるまで、本当のところは何も分かっていなかった。
「高橋さん」
また課長の声がして振り返ると、少し離れたところに彼女が立っている。
「昼食ですか」
「はい。課長もですか?」
「そうです。今日は少し休んでください」
「俺、そんなに疲れて見えます?」
「見えます」
「……相変わらず、はっきり言いますね」
「事実を言っただけです」
そう言いながら歩き出した課長の横顔を見ていると、なぜか笑いが込み上げてきた。以前なら腹を立てていた言葉なのに、今日は不思議と嫌ではない。
あの日の疲れはまだ身体に残っている。膝も完全には忘れていない。それでも、あの道を歩いたことを後悔してはいなかった。むしろ、あの日から俺の中で何かが変わり始めている気がする。自分の身体を気にするようになったことも、その一つだ。
そしてもう一つ、以前なら見ようともしなかった課長のことを、俺は少しずつ知りたいと思い始めていた。