嫌いだった課長と恋をするまで
第18話 課長が待ってくれた
午後三時を過ぎた頃、取引先から電話が入った。先日提出した企画書について確認したいことがあるらしく、担当だった俺に直接話をしたいという。神谷課長へ報告すると、彼女は手元の資料から顔を上げ、少し考えてから俺へ企画書を差し出してきた。
先方が気にしているのは数字そのものではなく、実際の現場で問題なく運用できるかどうかだろうと説明すると、課長は黙って俺の話を聞いたあと、小さく頷いた。仕事の話になると、俺たちの間に余計なものは入らない。俺も課長も、必要なことだけを考えている。それが俺には心地よかった。最近は課長のことを以前とは違う目で見るようになっている。それでも仕事となれば別だ。俺は資料を鞄へ入れ、会議室へ向かった。予定では三十分程度の打ち合わせだったから、その程度ならすぐに終わると思っていた。
「高橋さん、先方から追加の質問が出たら、その場で答えられる範囲は答えてください。判断が必要なものだけ持ち帰れば大丈夫です」
「分かりました。任せてください」
会議室へ入ると、先方の担当者が待っていた。最初は企画書の内容について確認するだけだったが、話が進むにつれて質問が増えていった。費用の算出方法、導入後の担当者の負担、トラブルが起きた場合の対応まで、一つずつ説明していく。
俺は相手の表情を見ながら、資料に書かれている言葉だけでは足りない部分を補っていった。先方が納得したところで次の話題へ進む。その繰り返しで、気がつけば時計の針は予定時刻を大きく過ぎていた。最後の質問に答えたとき、相手の担当者がようやく笑ってくれたので、俺も肩の力を抜くことができた。仕事としてはうまくまとまったと思いながら資料を片づけて会議室を出た俺は、廊下の窓から外を見て、そこで初めて雨が降っていることに気づいた。
「高橋さん、お疲れさまでした」
廊下の先から聞こえた声に顔を上げると、神谷課長が壁際に立っていた。手には鞄がある。俺は一瞬、意味が分からなかった。それは、課長はとっくに自分の仕事を終えて帰ったと思っていたからだ。時計を見ると、打ち合わせを始めてから一時間近く経っている。俺は慌てて課長のところまで歩く。もしかすると、何か問題が起きて俺を待っていたのかもしれない。そう考えていたのに、課長はいつもと変わらない顔でこちらを見ていた。
「課長、まだ帰ってなかったんですか?」
「高橋さんを待っていました」
「俺を?」
「はい」
その答えがあまりに自然だったので、俺は言葉を失ってしまう。俺は一人で帰れるし、課長が俺を待つ必要などない。打ち合わせが長引くことも、途中で報告を入れることも、最初から分かっていたことだ。それなのに、課長は帰らずにここにいた。俺が戻ってくるまで待っていたのだ。以前の俺なら、仕事を遅らせたことを責められると思っていただろう。今は、そんな考えより先に別の疑問が浮かんだ。どうしてそこまでして待っていたのだろう。課長は俺の表情を見て、少しだけ眉を動かす。
「何かおかしいですか?」
「いや……課長なら、先に帰っていると思っていました」
「私にも確認したいことがありましたから」
「電話でもよかったですよね?」
「そうですね」
あっさり認められて、俺は苦笑してしまう。課長はいつも合理的だ。必要がなければ無駄なことはしない。だからこそ、目の前で俺を待っていたことが余計に気になってしまう。
課長は俺の手元にある資料へ視線を落とし、打ち合わせの結果を尋ねた。俺が先方の反応を説明すると、課長は頷きながら聞いている。仕事の話をしている間は、いつもの神谷課長だった。それでも、俺の中ではさっきの「待っていました」という言葉が消えてくれない。仕事の確認なら、本当に電話で済んだはずだ。なのに、課長は帰らなかった。その理由を聞きたいと思ったが、うまく言葉にできなかった。
「課長、今日は何か予定があったんじゃないですか?」
「ありました。でも、急ぎではありません」
「それなら、なおさら先に帰ってくださいよ」
「高橋さんが戻ってきてからでも間に合います」
「俺、そんなに時間がかかると思ってなかったんです」
「私もです」
課長がそう言って、ほんの少しだけ笑い、俺もつられて笑ってしまう。会議室へ入る前には、こんな時間になるとは誰も思っていなかった。予定通りなら、もう駅へ向かっていたはずだ。それなのに、課長はここにいる。俺のために残っていたのだと考えると、胸の奥が妙に落ち着かなくなってしまう。ふと窓の外を見ると、雨はまだ降っている。会社の玄関を出れば、駅までは少し歩かなければならない。俺は傘を持っていなかった。課長も同じらしく、鞄の中を確認してから小さく息を吐いた。
「傘、持ってきていませんね」
「はい。朝は降っていなかったので」
「私もです」
「どうしましょう」
「少し待ちましょうか」
俺たちは玄関脇のスペースで雨が弱くなるのを待つことになった。人が少なくなった会社の入口には、外から雨音が響いている。俺は壁にもたれながら、課長の横顔を見ないようにしていた。何を話せばいいのか分からない。仕事の話ならいくらでもできるのに、こうして二人で何もせずにいると、急に意識してしまう。そんな自分が可笑しくて、俺は窓の外へ目を向ける。しばらくして雨が少し弱くなったところで、課長が鞄を持ち直す。駅へ向かうらしい。俺も隣へ並んだ。
会社を出てから駅までの道で、課長は俺より少し前を歩いていた。いつもなら気にしない距離なのに、今日はその背中が妙に近く感じる。俺は歩きながら、ふと魚屋道のことを思い出した。あの日のことは、会社では誰にも話していない。課長と二人で歩いたことも、途中で俺が何度も足を止めたことも、課長が俺を待ってくれたことも、俺たちだけが知っている。あのときも課長は先へ行かなかった。俺が追いつくまで待ってくれた。今、会社を出たあとも同じように俺を待っている。その二つが頭の中で重なって、俺は急に胸が苦しくなった。身体が苦しいわけではない。課長が俺を気にかけてくれていることが、嬉しくて仕方がなかった。
「高橋さん、どうしました? 少し遅れましたよ」
「え? あぁ、すみません」
「急がなくて大丈夫です」
課長はそう言って、歩く速度を緩めてくれる。俺が追いつくのを待つように、自然に歩幅を小さくしている。俺はその隣へ並び、前を向く。何も言わなくても、課長は俺を置いていかない。仕事の帰り道なのだから、たまたま一緒になっただけだ。そう考えようとしたのに、心の中では別の答えが浮かんでいた。
あの日も、今日も、俺が追いつくまで待ってくれた。理由は分からない。聞く勇気もない。それでも、俺にとってその事実は大きい。
駅の明かりが近づき、人通りが増えたところで、俺たちは自然に少し距離を取る。会社では課長と部下。それでいい。そう思っているのに、別れる直前まで、俺は隣にいる彼女の歩幅を意識していたのだった。
先方が気にしているのは数字そのものではなく、実際の現場で問題なく運用できるかどうかだろうと説明すると、課長は黙って俺の話を聞いたあと、小さく頷いた。仕事の話になると、俺たちの間に余計なものは入らない。俺も課長も、必要なことだけを考えている。それが俺には心地よかった。最近は課長のことを以前とは違う目で見るようになっている。それでも仕事となれば別だ。俺は資料を鞄へ入れ、会議室へ向かった。予定では三十分程度の打ち合わせだったから、その程度ならすぐに終わると思っていた。
「高橋さん、先方から追加の質問が出たら、その場で答えられる範囲は答えてください。判断が必要なものだけ持ち帰れば大丈夫です」
「分かりました。任せてください」
会議室へ入ると、先方の担当者が待っていた。最初は企画書の内容について確認するだけだったが、話が進むにつれて質問が増えていった。費用の算出方法、導入後の担当者の負担、トラブルが起きた場合の対応まで、一つずつ説明していく。
俺は相手の表情を見ながら、資料に書かれている言葉だけでは足りない部分を補っていった。先方が納得したところで次の話題へ進む。その繰り返しで、気がつけば時計の針は予定時刻を大きく過ぎていた。最後の質問に答えたとき、相手の担当者がようやく笑ってくれたので、俺も肩の力を抜くことができた。仕事としてはうまくまとまったと思いながら資料を片づけて会議室を出た俺は、廊下の窓から外を見て、そこで初めて雨が降っていることに気づいた。
「高橋さん、お疲れさまでした」
廊下の先から聞こえた声に顔を上げると、神谷課長が壁際に立っていた。手には鞄がある。俺は一瞬、意味が分からなかった。それは、課長はとっくに自分の仕事を終えて帰ったと思っていたからだ。時計を見ると、打ち合わせを始めてから一時間近く経っている。俺は慌てて課長のところまで歩く。もしかすると、何か問題が起きて俺を待っていたのかもしれない。そう考えていたのに、課長はいつもと変わらない顔でこちらを見ていた。
「課長、まだ帰ってなかったんですか?」
「高橋さんを待っていました」
「俺を?」
「はい」
その答えがあまりに自然だったので、俺は言葉を失ってしまう。俺は一人で帰れるし、課長が俺を待つ必要などない。打ち合わせが長引くことも、途中で報告を入れることも、最初から分かっていたことだ。それなのに、課長は帰らずにここにいた。俺が戻ってくるまで待っていたのだ。以前の俺なら、仕事を遅らせたことを責められると思っていただろう。今は、そんな考えより先に別の疑問が浮かんだ。どうしてそこまでして待っていたのだろう。課長は俺の表情を見て、少しだけ眉を動かす。
「何かおかしいですか?」
「いや……課長なら、先に帰っていると思っていました」
「私にも確認したいことがありましたから」
「電話でもよかったですよね?」
「そうですね」
あっさり認められて、俺は苦笑してしまう。課長はいつも合理的だ。必要がなければ無駄なことはしない。だからこそ、目の前で俺を待っていたことが余計に気になってしまう。
課長は俺の手元にある資料へ視線を落とし、打ち合わせの結果を尋ねた。俺が先方の反応を説明すると、課長は頷きながら聞いている。仕事の話をしている間は、いつもの神谷課長だった。それでも、俺の中ではさっきの「待っていました」という言葉が消えてくれない。仕事の確認なら、本当に電話で済んだはずだ。なのに、課長は帰らなかった。その理由を聞きたいと思ったが、うまく言葉にできなかった。
「課長、今日は何か予定があったんじゃないですか?」
「ありました。でも、急ぎではありません」
「それなら、なおさら先に帰ってくださいよ」
「高橋さんが戻ってきてからでも間に合います」
「俺、そんなに時間がかかると思ってなかったんです」
「私もです」
課長がそう言って、ほんの少しだけ笑い、俺もつられて笑ってしまう。会議室へ入る前には、こんな時間になるとは誰も思っていなかった。予定通りなら、もう駅へ向かっていたはずだ。それなのに、課長はここにいる。俺のために残っていたのだと考えると、胸の奥が妙に落ち着かなくなってしまう。ふと窓の外を見ると、雨はまだ降っている。会社の玄関を出れば、駅までは少し歩かなければならない。俺は傘を持っていなかった。課長も同じらしく、鞄の中を確認してから小さく息を吐いた。
「傘、持ってきていませんね」
「はい。朝は降っていなかったので」
「私もです」
「どうしましょう」
「少し待ちましょうか」
俺たちは玄関脇のスペースで雨が弱くなるのを待つことになった。人が少なくなった会社の入口には、外から雨音が響いている。俺は壁にもたれながら、課長の横顔を見ないようにしていた。何を話せばいいのか分からない。仕事の話ならいくらでもできるのに、こうして二人で何もせずにいると、急に意識してしまう。そんな自分が可笑しくて、俺は窓の外へ目を向ける。しばらくして雨が少し弱くなったところで、課長が鞄を持ち直す。駅へ向かうらしい。俺も隣へ並んだ。
会社を出てから駅までの道で、課長は俺より少し前を歩いていた。いつもなら気にしない距離なのに、今日はその背中が妙に近く感じる。俺は歩きながら、ふと魚屋道のことを思い出した。あの日のことは、会社では誰にも話していない。課長と二人で歩いたことも、途中で俺が何度も足を止めたことも、課長が俺を待ってくれたことも、俺たちだけが知っている。あのときも課長は先へ行かなかった。俺が追いつくまで待ってくれた。今、会社を出たあとも同じように俺を待っている。その二つが頭の中で重なって、俺は急に胸が苦しくなった。身体が苦しいわけではない。課長が俺を気にかけてくれていることが、嬉しくて仕方がなかった。
「高橋さん、どうしました? 少し遅れましたよ」
「え? あぁ、すみません」
「急がなくて大丈夫です」
課長はそう言って、歩く速度を緩めてくれる。俺が追いつくのを待つように、自然に歩幅を小さくしている。俺はその隣へ並び、前を向く。何も言わなくても、課長は俺を置いていかない。仕事の帰り道なのだから、たまたま一緒になっただけだ。そう考えようとしたのに、心の中では別の答えが浮かんでいた。
あの日も、今日も、俺が追いつくまで待ってくれた。理由は分からない。聞く勇気もない。それでも、俺にとってその事実は大きい。
駅の明かりが近づき、人通りが増えたところで、俺たちは自然に少し距離を取る。会社では課長と部下。それでいい。そう思っているのに、別れる直前まで、俺は隣にいる彼女の歩幅を意識していたのだった。