嫌いだった課長と恋をするまで
第19話 元カノが現れた
仕事を終えたのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。最後に残っていたメールを確認し、明日の予定を整理してからパソコンの電源を落とす。チームリーダーになってから、自分一人の仕事だけを終わらせれば帰れる日が減っている。メンバーの進捗を確認し、取引先からの連絡に対応し、誰かが困っていれば間に入る。仕事そのものは嫌いではないし、任されることに不満があるわけでもない。ただ、一日を終える頃には、それなりに疲れている。椅子から立ち上がって鞄を手にしたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、俺の指が止まった。
白石里奈。
その名前を見るのは、一年半ぶりだった。高校時代から付き合っていた女だ。卒業してからも関係は続き、俺が社会人になってからも休日には会っていた。何年も一緒にいたから、俺は当然のように、この先も里奈と一緒にいるのだと思っていた。将来の話をしたこともあるし、結婚という言葉が出たことだってあった。俺の中では、付き合っていることそのものが、いつの間にか将来につながっていたのだと思う。
だから、一年半前に別れを告げられた日のことは、今でも鮮明に覚えている。里奈は俺の目を見て、申し訳なさそうにするでもなく、長年付き合ってきたことを惜しむでもなく、ただ「好きな男ができたから」と言った。あまりにもあっさりしていた。その一言で、俺たちが積み重ねてきた時間まで簡単に切り捨てられたような気がした。
それから俺は、自分のことをどうでもいいと思うようになった。食べる量が増え、運動をしなくなり、服装にも体型にも気を使わなくなった。以前は体を動かすことも嫌いではなかったし、鏡を見ることだって今ほど嫌ではなかった。それが、里奈と別れてからは、仕事さえしていればいいと思うようになった。家に帰れば適当に食べて、何も考えずに眠る。そんな生活を続けているうちに、体重は九十キロを超えた。それでも、自分を変えようとは思わなかった。誰かに好かれる必要なんてない。誰かに選んでもらうために頑張る必要もない。そんなふうに考えていたからだ。
『久しぶり。突然ごめんね。少し話したいことがあるんだけど、今日会えないかな?』
里奈から届いたメッセージを、俺はしばらく黙って見つめていた。一年半ぶりに連絡してきて、最初の言葉が「少し話したい」か。何の話なのかは、だいたい想像できるような気もしたし、まったく分からない気もした。俺は会うつもりなんてない。昔のことを掘り返すのも面倒だったし、終わった関係をわざわざ自分から開く理由もない。だから、しばらく考えた末、俺は短く返信した。
『また、今度な』
それだけ送って、スマートフォンをポケットへ戻す。会う約束はしていない。会社の場所を教えたわけでもないし、帰る時間を伝えたわけでもない。「また、今度な」と返したのだから、今日の話はそれで終わったと思っていた。
俺は残っていた仕事を片付け、フロアにいる社員へ挨拶をしてからエレベーターへ向かう。扉が閉まり、一人になる。ようやく仕事から解放された気がして、小さく息を吐く。自動ドアを抜けて外へ出た、その瞬間だった。
会社の前に、一人の女が立っていた。見間違えるはずがない。
「……里奈?」
俺が名前を呼ぶと、女がこちらを振り向いた。高校時代から知っている顔だった。一年半という時間が経っても、見ればすぐに分かる。
「恒一。やっと出て……。太ったわね」
里奈は笑いながら俺へ近づいてきた。だが、抱きつこうとするわけでも、懐かしそうに昔の話をするわけでもなかった。まず俺の顔を見て、腹を見る。それから胸元の社員証へ視線を落とし、次に会社の建物を見上げた。その視線が妙に忙しい。
俺は思わずスマートフォンを取り出し、さっき送ったメッセージを確認した。
『また、今度な』
やっぱり、そう書いてある。
「俺、また今度って返したよな。今日会うなんて一言も言ってないと思うんだけど」
「うん、分かってる。でも、恒一って昔からそうだったじゃない。今度って言ったら、いつになるか分からないでしょ。だから、今日来たの」
里奈はそう言いながら、俺の服装を上から下まで眺めた。スーツの仕立て、腕時計、革靴。それから胸元の社員証へ目を戻す。
「チームリーダーって、あの名札にも書いてあるんだね」
「……そこを見るのか?」
「だって、ちゃんと確認したかったから」
里奈は悪びれる様子もなく笑った。その笑顔のまま、俺の腕に手を伸ばしかけ、途中で止める。そして代わりに、俺のスーツの袖口を軽くつまんだ。
「昔より、ちゃんとした格好するようになったね」
「仕事だからな」
「そっか」
それだけ言って、また会社の建物へ目を向ける。懐かしさより先に、確認したいものがある。そんな視線だった。
「どうやって、ここが分かったんだ?」
「由美から聞いたの。高校のときの由美、覚えてるでしょ? 今も私とは連絡を取ってるんだけど、今は恒一の会社と取引している会社で働いてるの。それで、恒一のことを聞いたのよ。チームリーダーになってることも聞いたの」
そこまでは理解できた。高校時代の共通の知人が、仕事を通じて俺の名前を見つけた。それを里奈に伝えたということだ。
ただ、その先が引っかかった。
「それで、わざわざ俺に連絡してきたのか?」
「うん。だって、びっくりしたから。恒一がチームリーダーになってるって聞いて」
里奈は俺の顔を見ながら話していたが、俺が黙っていると、今度は会社の入口へ視線を向けた。社員が何人か出てくるたびに、その胸元の社員証を確認するように目を動かしている。
「ここって、結構大きい会社だよね。恒一、ここでチームリーダーなんだ」
「そうだけど」
「課長とか部長とかも、ちゃんといるんだよね?」
「そりゃいるだろ」
「じゃあ、これから上に行く可能性もあるんだ」
里奈は少し笑って、また俺を見る。
「給料も、昔より上がった?」
「どうしてそこまで気になるんだ?」
「だって大事でしょ。私だってもう子供じゃないから。恋愛するなら、その先のことまで考えるようになったの。好きだけで付き合って、また将来が見えないまま終わるのは嫌なの。仕事が安定していて、ちゃんと責任のある立場にいて、収入もある程度あって、将来のことを一緒に考えられる人がいい。そういう意味では、今の恒一ってすごく条件がいいと思う」
”条件”
その言葉が、胸に引っかかる。俺が黙っていると、里奈は少し慌てたように笑った。
「もちろん、それだけじゃないよ。昔から恒一のことを知ってるから、安心できるっていうのもあるし」
「安心?」
「うん。昔から優しかったし、私のことを大事にしてくれたでしょ。それに、今は仕事も安定してる。チームリーダーなら、これからもっと収入も上がるかもしれない。結婚したって生活に困ることもなさそうだし、そういうことまで考えたら、やっぱり恒一がいいと思ったの」
言いながら、里奈は俺の隣へ半歩近づき、そして、俺の腕に手を添えようとしてくる。俺が一歩横へ避けると、その手が宙で止まった。
「……恒一?」
「何だ?」
「昔は、こんなに避けなかったじゃない」
「昔とは違うからな」
里奈は少し寂しそうな顔を作るが、その直後には視線が俺の社員証へ戻っていた。
その一瞬を見て、俺は確信した。
やっぱり、こいつが見ているのは俺だけじゃない。
俺の肩書きも、会社も、収入も、その先にある生活まで見ている。
「じゃあ、俺が今も普通の社員だったら? 俺がチームリーダーじゃなくて、給料も一年半前と変わってなくて、これから昇進できるかも分からなかったら。それでも今日、ここまで来たか?」
「……分からない」
「そうだよな」
「でも、それだけで決めつけないでよ。私は恒一のことも好きだよ」
「好きなら、会社の規模や役職や給料を最初に確認する必要があるか?」
「結婚するなら必要でしょ。私は、ちゃんと現実を考えてるの。好きなだけじゃ生活できないよ。恒一なら仕事も安定してるし、これからもっと上に行けるかもしれない。私は、そういう将来まで考えて恒一に戻りたいと思ったの」
もう十分だ。
里奈にとって俺は、昔好きだった男であり、今は結婚相手として条件のいい男なのだ。一年半前に俺を捨てたときより、今の俺のほうが価値がある。
だから戻ってきた。
その構図が、はっきり見えた。
「俺は、里奈のところには戻らない」
「どうして? 私、本当に後悔してるんだよ」
「それは里奈の気持ちだろ」
「恒一だって、私のことを嫌いになったわけじゃないでしょ?」
その問いには、すぐに答えられなかった。嫌いになったわけではない。でも、もう好きでもない。
「一年半前に俺を捨てたことを責めるつもりはない。でも、俺はもう、あの頃の俺じゃない。里奈が今の俺を見て戻ってきたとしても、俺には受け入れられない」
「今の恒一だから戻ってきたんだよ」
「それが嫌なんだ」
そのとき、背後で会社の自動ドアが開いた。
「高橋さん?」
聞き慣れた声に、俺は振り返ると、神谷課長が立っていた。仕事を終えたらしく、片手に鞄を持っている。俺を見て、それから隣にいる里奈へ視線を移した。いつもなら、こんな時間に会社の前で俺が誰かと話していても、課長は何も気にしないだろう。だが、その視線が里奈に向いた瞬間、課長の足がわずかに止まった。
「お疲れさまです、課長」
「……お疲れさまです」
返ってきた声が、いつもより少しだけ硬い。
里奈は課長を見る。そして、今度は俺を見るのではなく、課長の服装、鞄、社員証、表情へと視線を動かした。ほんの数秒だったが、その目は明らかに相手を値踏みするように動いていた。
「恒一、この人は?」
「俺の上司だよ。神谷課長」
「課長……。初めまして。白石里奈です。恒一とは高校の頃から付き合っていたんです」
里奈は小さく呟くと、すぐに笑顔を作り、わざわざ「付き合っていた」と言う。
俺はその言葉に引っかかる。それだけなら、昔の恋人として紹介しただけなのかもしれない。
だが里奈は、そのまま俺の腕へ近づき、さっき避けられた距離を埋めるように立ってきたからだ。
「今日は久しぶりに会って、これから少し話をするところなんです」
まるで、俺との関係がまだ続いているように聞こえる言い方だった。
俺が訂正しようとした、そのときだった。
「そうですか」
課長が短く答えた。里奈は笑ったまま、課長を見た。
「課長さんは、恒一のことをよくご存じなんですよね?」
「仕事では、そうですね」
「じゃあ、恒一って会社ではどんな感じなんですか? 昔から仕事は真面目だったんですけど、今はチームリーダーだって聞いて、私も少し驚いていて」
その質問を聞いた瞬間、俺は里奈を見た。
まだ聞くのか。
しかも、本人の前で。
里奈は気にする様子もなく、課長の返事を待っている。
その顔には、俺とよりを戻したい女の顔というより、俺の価値を第三者に確認しようとする女の顔が浮かんでいた。
課長が俺を見る視線に何かを読み取ろうとしたが、俺には分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
里奈は俺に会いに来た。
でも、本当に欲しいのは俺だけじゃない。
今の俺が持っているものまで、全部欲しがっている。
その事実が、さっきよりもはっきりと見えていた。
画面に表示された名前を見た瞬間、俺の指が止まった。
白石里奈。
その名前を見るのは、一年半ぶりだった。高校時代から付き合っていた女だ。卒業してからも関係は続き、俺が社会人になってからも休日には会っていた。何年も一緒にいたから、俺は当然のように、この先も里奈と一緒にいるのだと思っていた。将来の話をしたこともあるし、結婚という言葉が出たことだってあった。俺の中では、付き合っていることそのものが、いつの間にか将来につながっていたのだと思う。
だから、一年半前に別れを告げられた日のことは、今でも鮮明に覚えている。里奈は俺の目を見て、申し訳なさそうにするでもなく、長年付き合ってきたことを惜しむでもなく、ただ「好きな男ができたから」と言った。あまりにもあっさりしていた。その一言で、俺たちが積み重ねてきた時間まで簡単に切り捨てられたような気がした。
それから俺は、自分のことをどうでもいいと思うようになった。食べる量が増え、運動をしなくなり、服装にも体型にも気を使わなくなった。以前は体を動かすことも嫌いではなかったし、鏡を見ることだって今ほど嫌ではなかった。それが、里奈と別れてからは、仕事さえしていればいいと思うようになった。家に帰れば適当に食べて、何も考えずに眠る。そんな生活を続けているうちに、体重は九十キロを超えた。それでも、自分を変えようとは思わなかった。誰かに好かれる必要なんてない。誰かに選んでもらうために頑張る必要もない。そんなふうに考えていたからだ。
『久しぶり。突然ごめんね。少し話したいことがあるんだけど、今日会えないかな?』
里奈から届いたメッセージを、俺はしばらく黙って見つめていた。一年半ぶりに連絡してきて、最初の言葉が「少し話したい」か。何の話なのかは、だいたい想像できるような気もしたし、まったく分からない気もした。俺は会うつもりなんてない。昔のことを掘り返すのも面倒だったし、終わった関係をわざわざ自分から開く理由もない。だから、しばらく考えた末、俺は短く返信した。
『また、今度な』
それだけ送って、スマートフォンをポケットへ戻す。会う約束はしていない。会社の場所を教えたわけでもないし、帰る時間を伝えたわけでもない。「また、今度な」と返したのだから、今日の話はそれで終わったと思っていた。
俺は残っていた仕事を片付け、フロアにいる社員へ挨拶をしてからエレベーターへ向かう。扉が閉まり、一人になる。ようやく仕事から解放された気がして、小さく息を吐く。自動ドアを抜けて外へ出た、その瞬間だった。
会社の前に、一人の女が立っていた。見間違えるはずがない。
「……里奈?」
俺が名前を呼ぶと、女がこちらを振り向いた。高校時代から知っている顔だった。一年半という時間が経っても、見ればすぐに分かる。
「恒一。やっと出て……。太ったわね」
里奈は笑いながら俺へ近づいてきた。だが、抱きつこうとするわけでも、懐かしそうに昔の話をするわけでもなかった。まず俺の顔を見て、腹を見る。それから胸元の社員証へ視線を落とし、次に会社の建物を見上げた。その視線が妙に忙しい。
俺は思わずスマートフォンを取り出し、さっき送ったメッセージを確認した。
『また、今度な』
やっぱり、そう書いてある。
「俺、また今度って返したよな。今日会うなんて一言も言ってないと思うんだけど」
「うん、分かってる。でも、恒一って昔からそうだったじゃない。今度って言ったら、いつになるか分からないでしょ。だから、今日来たの」
里奈はそう言いながら、俺の服装を上から下まで眺めた。スーツの仕立て、腕時計、革靴。それから胸元の社員証へ目を戻す。
「チームリーダーって、あの名札にも書いてあるんだね」
「……そこを見るのか?」
「だって、ちゃんと確認したかったから」
里奈は悪びれる様子もなく笑った。その笑顔のまま、俺の腕に手を伸ばしかけ、途中で止める。そして代わりに、俺のスーツの袖口を軽くつまんだ。
「昔より、ちゃんとした格好するようになったね」
「仕事だからな」
「そっか」
それだけ言って、また会社の建物へ目を向ける。懐かしさより先に、確認したいものがある。そんな視線だった。
「どうやって、ここが分かったんだ?」
「由美から聞いたの。高校のときの由美、覚えてるでしょ? 今も私とは連絡を取ってるんだけど、今は恒一の会社と取引している会社で働いてるの。それで、恒一のことを聞いたのよ。チームリーダーになってることも聞いたの」
そこまでは理解できた。高校時代の共通の知人が、仕事を通じて俺の名前を見つけた。それを里奈に伝えたということだ。
ただ、その先が引っかかった。
「それで、わざわざ俺に連絡してきたのか?」
「うん。だって、びっくりしたから。恒一がチームリーダーになってるって聞いて」
里奈は俺の顔を見ながら話していたが、俺が黙っていると、今度は会社の入口へ視線を向けた。社員が何人か出てくるたびに、その胸元の社員証を確認するように目を動かしている。
「ここって、結構大きい会社だよね。恒一、ここでチームリーダーなんだ」
「そうだけど」
「課長とか部長とかも、ちゃんといるんだよね?」
「そりゃいるだろ」
「じゃあ、これから上に行く可能性もあるんだ」
里奈は少し笑って、また俺を見る。
「給料も、昔より上がった?」
「どうしてそこまで気になるんだ?」
「だって大事でしょ。私だってもう子供じゃないから。恋愛するなら、その先のことまで考えるようになったの。好きだけで付き合って、また将来が見えないまま終わるのは嫌なの。仕事が安定していて、ちゃんと責任のある立場にいて、収入もある程度あって、将来のことを一緒に考えられる人がいい。そういう意味では、今の恒一ってすごく条件がいいと思う」
”条件”
その言葉が、胸に引っかかる。俺が黙っていると、里奈は少し慌てたように笑った。
「もちろん、それだけじゃないよ。昔から恒一のことを知ってるから、安心できるっていうのもあるし」
「安心?」
「うん。昔から優しかったし、私のことを大事にしてくれたでしょ。それに、今は仕事も安定してる。チームリーダーなら、これからもっと収入も上がるかもしれない。結婚したって生活に困ることもなさそうだし、そういうことまで考えたら、やっぱり恒一がいいと思ったの」
言いながら、里奈は俺の隣へ半歩近づき、そして、俺の腕に手を添えようとしてくる。俺が一歩横へ避けると、その手が宙で止まった。
「……恒一?」
「何だ?」
「昔は、こんなに避けなかったじゃない」
「昔とは違うからな」
里奈は少し寂しそうな顔を作るが、その直後には視線が俺の社員証へ戻っていた。
その一瞬を見て、俺は確信した。
やっぱり、こいつが見ているのは俺だけじゃない。
俺の肩書きも、会社も、収入も、その先にある生活まで見ている。
「じゃあ、俺が今も普通の社員だったら? 俺がチームリーダーじゃなくて、給料も一年半前と変わってなくて、これから昇進できるかも分からなかったら。それでも今日、ここまで来たか?」
「……分からない」
「そうだよな」
「でも、それだけで決めつけないでよ。私は恒一のことも好きだよ」
「好きなら、会社の規模や役職や給料を最初に確認する必要があるか?」
「結婚するなら必要でしょ。私は、ちゃんと現実を考えてるの。好きなだけじゃ生活できないよ。恒一なら仕事も安定してるし、これからもっと上に行けるかもしれない。私は、そういう将来まで考えて恒一に戻りたいと思ったの」
もう十分だ。
里奈にとって俺は、昔好きだった男であり、今は結婚相手として条件のいい男なのだ。一年半前に俺を捨てたときより、今の俺のほうが価値がある。
だから戻ってきた。
その構図が、はっきり見えた。
「俺は、里奈のところには戻らない」
「どうして? 私、本当に後悔してるんだよ」
「それは里奈の気持ちだろ」
「恒一だって、私のことを嫌いになったわけじゃないでしょ?」
その問いには、すぐに答えられなかった。嫌いになったわけではない。でも、もう好きでもない。
「一年半前に俺を捨てたことを責めるつもりはない。でも、俺はもう、あの頃の俺じゃない。里奈が今の俺を見て戻ってきたとしても、俺には受け入れられない」
「今の恒一だから戻ってきたんだよ」
「それが嫌なんだ」
そのとき、背後で会社の自動ドアが開いた。
「高橋さん?」
聞き慣れた声に、俺は振り返ると、神谷課長が立っていた。仕事を終えたらしく、片手に鞄を持っている。俺を見て、それから隣にいる里奈へ視線を移した。いつもなら、こんな時間に会社の前で俺が誰かと話していても、課長は何も気にしないだろう。だが、その視線が里奈に向いた瞬間、課長の足がわずかに止まった。
「お疲れさまです、課長」
「……お疲れさまです」
返ってきた声が、いつもより少しだけ硬い。
里奈は課長を見る。そして、今度は俺を見るのではなく、課長の服装、鞄、社員証、表情へと視線を動かした。ほんの数秒だったが、その目は明らかに相手を値踏みするように動いていた。
「恒一、この人は?」
「俺の上司だよ。神谷課長」
「課長……。初めまして。白石里奈です。恒一とは高校の頃から付き合っていたんです」
里奈は小さく呟くと、すぐに笑顔を作り、わざわざ「付き合っていた」と言う。
俺はその言葉に引っかかる。それだけなら、昔の恋人として紹介しただけなのかもしれない。
だが里奈は、そのまま俺の腕へ近づき、さっき避けられた距離を埋めるように立ってきたからだ。
「今日は久しぶりに会って、これから少し話をするところなんです」
まるで、俺との関係がまだ続いているように聞こえる言い方だった。
俺が訂正しようとした、そのときだった。
「そうですか」
課長が短く答えた。里奈は笑ったまま、課長を見た。
「課長さんは、恒一のことをよくご存じなんですよね?」
「仕事では、そうですね」
「じゃあ、恒一って会社ではどんな感じなんですか? 昔から仕事は真面目だったんですけど、今はチームリーダーだって聞いて、私も少し驚いていて」
その質問を聞いた瞬間、俺は里奈を見た。
まだ聞くのか。
しかも、本人の前で。
里奈は気にする様子もなく、課長の返事を待っている。
その顔には、俺とよりを戻したい女の顔というより、俺の価値を第三者に確認しようとする女の顔が浮かんでいた。
課長が俺を見る視線に何かを読み取ろうとしたが、俺には分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
里奈は俺に会いに来た。
でも、本当に欲しいのは俺だけじゃない。
今の俺が持っているものまで、全部欲しがっている。
その事実が、さっきよりもはっきりと見えていた。