嫌いだった課長と恋をするまで
第20話 課長の知らない女
神谷課長が会社から出てきた瞬間、それまで俺と里奈の間にあった空気が、わずかに変わった。俺と里奈だけだったときは、一年半ぶりに顔を合わせた昔の恋人同士という、それだけの関係だった。
俺はもう戻るつもりがないと伝え、里奈はその答えを受け入れられずに立っている。そんな状況だったはずなのに、課長がこちらへ歩いてくると、里奈の視線が俺から離れた。課長の服装を見て、会社の入口を見て、それから俺を見る。その目には、高校時代の俺を懐かしむような色がない。
目の前にいる人間が何者なのか、自分にとってどれほど価値のある相手なのかを測るような視線だった。俺はその変化を見逃さなかった。里奈は俺の現在を確認しようとしている。そんなことを考えていると、課長の視線が一瞬だけ里奈の手元へ落ちた。さっき俺の袖に触れようとしていた手だ。すぐに課長は顔を上げたが、その一瞬だけが妙に印象に残った。
「白石さんでしたよね。高橋さんの……以前のお知り合いの方ですか?」
「はい。高校の頃から付き合っていたんです。恒一とは長かったので、課長さんも名前くらいは聞いたことがあるかもしれませんね」
里奈はそう言いながら、俺の隣へ一歩近づいてきた。その動きは偶然には思えない。さっき俺が距離を取ったことなど忘れたように、今度は課長の目の前で俺との距離を縮めてくる。腕が触れそうになった瞬間、俺は反射的に半歩横へ移動した。里奈の手が行き場を失って宙に浮いたが、本人は気まずそうな顔をすることもなく、すぐに笑ってみせる。
そのとき、課長の表情がほんの少しだけ変わった。何かを言うわけでもなく、俺と里奈の距離を確認するように視線を動かしただけだった。俺には、それが仕事相手を見るときの課長とは少し違って見えたが、そんなことを考えている場合ではない。里奈が俺との過去を課長に見せたいのは明らかだった。
「そうだったんですね」
課長は淡々と答える。声はいつもと変わらないし、表情も大きく変わってはいない。それなのに、なぜか俺には少しだけ硬く聞こえた。
気のせいだと思おうとしたが、課長はそれから里奈を見る時間を短くして、俺へ視線を戻した。まるで、俺と里奈の関係を必要以上に見ないようにしているようにも感じてしまう。
俺はその理由を考えても、答えは出ない。課長にとっては、俺の元カノなんて仕事とは何の関係もない存在だ。興味を持つ必要もない。それなのに、さっきから課長の視線が妙に気になってしまう。
「神谷課長って、東京から来られたんですよね?」
「はい、そうですけど」
「そうですよね。イントネーションが違うなって思ったんです。そうそう、恒一から聞いたことがあります。かなり仕事のできる方なんだって」
「……俺、お前と話すのは一年半ぶりだぞ」
「前に聞いたことがある気がする」
「いや、話してないだろ。お前とは連絡すらしてなかったのに」
「そうだっけ?」
里奈は笑って誤魔化した。俺はそれ以上追及しなかった。だが、引っかかるものは残った。里奈が課長のことを知っているはずがない。俺が話していない以上、今ここで課長について尋ねる理由もない。なのに里奈は、自然な会話のように課長へ話しかけている。
俺の元上司だから興味を持ったのか、それとも別の理由があるのか。考えながら里奈の顔を見ると、その目が俺ではなく課長へ向いていることに気づいた。
「恒一は、会社ではどうですか?」
「どうとは?」
「仕事です。チームリーダーになったって聞いたんですけど、実際どんな感じなのかなって。恒一って昔から、自分のことをあまり話さないので」
俺のことを知りたいなら、俺に聞けばいい。それなのに、里奈はわざわざ課長へ質問している。しかも、聞いている内容は昔の俺ではなく、今の俺についてだった。
チームリーダーになったのか。
仕事はできるのか。
会社から評価されているのか。
この先、さらに上を目指せるのか。
まるで面接でも受けているような質問だった。
「高橋さんは、チームをよく見ています。自分の仕事だけでなく、周囲の状況にも気を配るので、任せられる仕事は多いですね」
「やっぱりそうなんだ」
その言葉に続いて、課長が俺を見てくる。
「高橋さんは、以前からそうだったんですか?」
「……まあ、昔は今ほどじゃないですけど」
自分でも何となく答えるしかなかった。
課長が俺の高校時代を知りたがっているのか? そう思った瞬間、なぜか胸が少しざわつく。
「恒一は昔から、頼まれると断れないところがあったんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。だから私も、よく助けてもらっていました。高校の頃から、ずっとそういう人だったので」
課長も何も言わない。ただ、ほんの一瞬だけ、課長の目が俺へ向いた。その視線には、仕事の評価をするときとは違う何かが混じっているように思えた。
「それなら、これからもっと上に行く可能性もありますよね?」
「それは高橋さん自身の努力次第だと思います」
「課長さんから見ても、そう思いますか?」
「仕事については、評価しています」
「それなら安心しました。だって、恒一ならこれからも安定して働けそうだから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷える。
好きだからではない。
俺自身が大切だからでもない。
安定しているから。
これからも働けそうだから。
チームリーダーという立場にいて、今後も収入が増える可能性があるから。
里奈が見ているのは、そんなものだった。
「里奈、もう、その話はいいだろ」
「どうして? 大事なことじゃない」
「俺にとっては大事じゃない」
「私は大事だよ。付き合うなら、結婚のことも考えるでしょ。恒一だって、もう二十六なんだから」
里奈は、俺と結婚した場合にどんな生活ができるのかを考えている。
俺がどんな会社に勤めているのか。
どんな立場なのか。
これから収入がどうなるのか。
その条件を一つずつ確かめている。
隣にいる課長は、何も言わなかった。ただ、俺が里奈を見るのではなく、まっすぐ前を向いていることを確認するように、こちらへ視線を向けていた。
「じゃあ、一つ聞く」
「何?」
「俺がチームリーダーじゃなくても、同じ会社にいて、給料も昔と変わってなくても、それでも結婚したいと思ったか?」
里奈の口が止まった。今まで迷いなく答えていた女が、初めて言葉を失った。
その沈黙だけで、十分だった。
「……恒一、そんなこと聞いてどうするの?」
「答えが聞きたいだけだ」
「今の恒一を見て話してるんだから、昔の話をしても仕方ないでしょ」
「そういうことだよ。今の俺だからいいんだろ」
里奈は何も答えなかった。
課長も何も言わない。
ただ、すぐ隣から視線を感じた。
俺が課長を見ると、課長はすぐに目を逸らした。
その反応が、妙に気になった。
「……恒一。私、本当にやり直したいと思ってる。前は間違えたと思ってるし、今ならちゃんと将来のことも考えられる。仕事も安定してるし、恒一は責任のある立場になってる。私は、そういう恒一となら結婚しても大丈夫だと思ってる」
「俺は大丈夫じゃない」
「どうして?」
「里奈と結婚することが、俺にとって大丈夫じゃないからだ」
言葉にした瞬間、胸の奥に残っていたものが少しだけ軽くなった。
一年半前、俺は里奈に捨てられた。
好きな男ができた。
ただ、それだけを告げられて、俺は何もできなかった。その日から、自分のことをどうでもいいと思うようになった。運動もしなくなった。食べたいものを食べて、体重が増えても放っておいた。鏡を見ることさえ嫌になった。仕事だけは続けたが、それ以外のことはどうでもよかった。
そんな俺の前に、今になって里奈が戻ってきた。
もし俺があの頃と同じだったら。何の役職もなく、収入も変わらず、自分を見失ったままだったら。それでも里奈は俺の前に立っただろうか。その答えは、もう聞かなくても分かっていた。
「じゃあ、少し考えてよ。今すぐ答えなくてもいいから。昔から私たちのことを知ってるんだし、もう一度付き合ってみればいいじゃない」
「断る」
「どうしてそんなに冷たいの?」
「冷たいんじゃない。終わっただけだ」
里奈の表情が醜くゆがむ。以前なら、その顔を見るだけで胸が痛んだかもしれない。俺が悪かったのではないか、もう一度話し合えば何か変わるのではないか、そんなことを考えただろう。
でも、今は違う。
目の前にいる女が、自分を捨てたときの記憶が消えることはない。そして、その女が今の俺を見て戻ってきたという事実も消えない。俺はもう、あの頃のように誰かに選ばれることだけを待つ人間ではいたくなかった。
「……分かった。今日は帰る」
「あぁ」
数歩進んだところで振り返る。
「恒一、今度は、ちゃんと連絡してね」
「しない。もう、俺から連絡することはない」
「……本当に?」
里奈はしばらく俺を見つめ、それから、無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、私から連絡する」
「それも、やめてくれ」
「……分かった」
そう答えたものの、里奈は完全に納得した顔ではなかった。それでも、それ以上は何も言わず、駅の方向へ歩いていった。
追いかけたいとは思わなかった。
名前を呼び止めたいとも思わなかった。
ただ、胸の奥には妙な疲れが残っていた。怒っているわけでもない。悲しいわけでもない。自分の過去を、目の前に置かれて確認させられたような感覚だった。
「高橋さん」
「はい」
「……以前から、あの方と付き合っていたんですか?」
「はい。高校からです。一年半前に別れました」
「高校から……」
「何か?」
「いえ、長いお付き合いだったんですね」
「まあ、そうですね」
「そうですか」
それだけ言うと、課長は前を向く。だが、さっきまでより少しだけ口数が少ないように感じた。俺には、その理由が分からなかった。
「課長?」
「何ですか?」
「いや……何でもないです」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わなかった。
会社の入口には、仕事を終えた社員が何人か通り過ぎていく。俺たちが二人で立っていることに気づいて、軽く会釈していく人もいた。俺は何となく居心地が悪くなりながら、それでも隣にいる課長を意識してしまう。
さっきまで里奈がいた場所には、もう誰もいない。それなのに、課長は一度だけ、里奈が去っていった方向へ視線を向けていた。その横顔はいつもと変わらない。ただ、俺には少しだけ不機嫌そうに見えた。
「では、私は帰ります」
「お疲れさまです」
「高橋さんも、気をつけて帰ってください」
「はい。課長も」
課長が歩き出し、俺はその背中を見送り、いつもなら、そこで終わるはずだった。 仕事が終われば上司と部下に戻る。明日になれば、また会社で顔を合わせる。それだけの関係だ。
なのに、その日は違った。
俺の頭に、さっきの課長の表情が何度も浮かんでくる。里奈との会話を、どう思ったのだろう。俺が高校時代から付き合っていた女に振られたことを、どう感じたのだろう。俺が里奈を拒絶したことを、どう見ていたのだろう。
そして、なぜ課長は「高校から」と聞いたとき、あんな顔をしたのだろう。
「……何でだよ」
小さく呟いて、自分でも呆れてしまう。課長が俺の元カノのことを気にする理由なんてない。俺だって、課長に俺の過去をどう思われたのかを気にする必要なんてない。そう考えているのに、俺の視線は遠ざかっていく課長の背中から離れなかった。
その背中が見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
このときの俺は、まだ知らなかった。
課長の中にも、俺の知らない感情が、小さく芽を出し始めていたことを。
俺はもう戻るつもりがないと伝え、里奈はその答えを受け入れられずに立っている。そんな状況だったはずなのに、課長がこちらへ歩いてくると、里奈の視線が俺から離れた。課長の服装を見て、会社の入口を見て、それから俺を見る。その目には、高校時代の俺を懐かしむような色がない。
目の前にいる人間が何者なのか、自分にとってどれほど価値のある相手なのかを測るような視線だった。俺はその変化を見逃さなかった。里奈は俺の現在を確認しようとしている。そんなことを考えていると、課長の視線が一瞬だけ里奈の手元へ落ちた。さっき俺の袖に触れようとしていた手だ。すぐに課長は顔を上げたが、その一瞬だけが妙に印象に残った。
「白石さんでしたよね。高橋さんの……以前のお知り合いの方ですか?」
「はい。高校の頃から付き合っていたんです。恒一とは長かったので、課長さんも名前くらいは聞いたことがあるかもしれませんね」
里奈はそう言いながら、俺の隣へ一歩近づいてきた。その動きは偶然には思えない。さっき俺が距離を取ったことなど忘れたように、今度は課長の目の前で俺との距離を縮めてくる。腕が触れそうになった瞬間、俺は反射的に半歩横へ移動した。里奈の手が行き場を失って宙に浮いたが、本人は気まずそうな顔をすることもなく、すぐに笑ってみせる。
そのとき、課長の表情がほんの少しだけ変わった。何かを言うわけでもなく、俺と里奈の距離を確認するように視線を動かしただけだった。俺には、それが仕事相手を見るときの課長とは少し違って見えたが、そんなことを考えている場合ではない。里奈が俺との過去を課長に見せたいのは明らかだった。
「そうだったんですね」
課長は淡々と答える。声はいつもと変わらないし、表情も大きく変わってはいない。それなのに、なぜか俺には少しだけ硬く聞こえた。
気のせいだと思おうとしたが、課長はそれから里奈を見る時間を短くして、俺へ視線を戻した。まるで、俺と里奈の関係を必要以上に見ないようにしているようにも感じてしまう。
俺はその理由を考えても、答えは出ない。課長にとっては、俺の元カノなんて仕事とは何の関係もない存在だ。興味を持つ必要もない。それなのに、さっきから課長の視線が妙に気になってしまう。
「神谷課長って、東京から来られたんですよね?」
「はい、そうですけど」
「そうですよね。イントネーションが違うなって思ったんです。そうそう、恒一から聞いたことがあります。かなり仕事のできる方なんだって」
「……俺、お前と話すのは一年半ぶりだぞ」
「前に聞いたことがある気がする」
「いや、話してないだろ。お前とは連絡すらしてなかったのに」
「そうだっけ?」
里奈は笑って誤魔化した。俺はそれ以上追及しなかった。だが、引っかかるものは残った。里奈が課長のことを知っているはずがない。俺が話していない以上、今ここで課長について尋ねる理由もない。なのに里奈は、自然な会話のように課長へ話しかけている。
俺の元上司だから興味を持ったのか、それとも別の理由があるのか。考えながら里奈の顔を見ると、その目が俺ではなく課長へ向いていることに気づいた。
「恒一は、会社ではどうですか?」
「どうとは?」
「仕事です。チームリーダーになったって聞いたんですけど、実際どんな感じなのかなって。恒一って昔から、自分のことをあまり話さないので」
俺のことを知りたいなら、俺に聞けばいい。それなのに、里奈はわざわざ課長へ質問している。しかも、聞いている内容は昔の俺ではなく、今の俺についてだった。
チームリーダーになったのか。
仕事はできるのか。
会社から評価されているのか。
この先、さらに上を目指せるのか。
まるで面接でも受けているような質問だった。
「高橋さんは、チームをよく見ています。自分の仕事だけでなく、周囲の状況にも気を配るので、任せられる仕事は多いですね」
「やっぱりそうなんだ」
その言葉に続いて、課長が俺を見てくる。
「高橋さんは、以前からそうだったんですか?」
「……まあ、昔は今ほどじゃないですけど」
自分でも何となく答えるしかなかった。
課長が俺の高校時代を知りたがっているのか? そう思った瞬間、なぜか胸が少しざわつく。
「恒一は昔から、頼まれると断れないところがあったんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。だから私も、よく助けてもらっていました。高校の頃から、ずっとそういう人だったので」
課長も何も言わない。ただ、ほんの一瞬だけ、課長の目が俺へ向いた。その視線には、仕事の評価をするときとは違う何かが混じっているように思えた。
「それなら、これからもっと上に行く可能性もありますよね?」
「それは高橋さん自身の努力次第だと思います」
「課長さんから見ても、そう思いますか?」
「仕事については、評価しています」
「それなら安心しました。だって、恒一ならこれからも安定して働けそうだから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷える。
好きだからではない。
俺自身が大切だからでもない。
安定しているから。
これからも働けそうだから。
チームリーダーという立場にいて、今後も収入が増える可能性があるから。
里奈が見ているのは、そんなものだった。
「里奈、もう、その話はいいだろ」
「どうして? 大事なことじゃない」
「俺にとっては大事じゃない」
「私は大事だよ。付き合うなら、結婚のことも考えるでしょ。恒一だって、もう二十六なんだから」
里奈は、俺と結婚した場合にどんな生活ができるのかを考えている。
俺がどんな会社に勤めているのか。
どんな立場なのか。
これから収入がどうなるのか。
その条件を一つずつ確かめている。
隣にいる課長は、何も言わなかった。ただ、俺が里奈を見るのではなく、まっすぐ前を向いていることを確認するように、こちらへ視線を向けていた。
「じゃあ、一つ聞く」
「何?」
「俺がチームリーダーじゃなくても、同じ会社にいて、給料も昔と変わってなくても、それでも結婚したいと思ったか?」
里奈の口が止まった。今まで迷いなく答えていた女が、初めて言葉を失った。
その沈黙だけで、十分だった。
「……恒一、そんなこと聞いてどうするの?」
「答えが聞きたいだけだ」
「今の恒一を見て話してるんだから、昔の話をしても仕方ないでしょ」
「そういうことだよ。今の俺だからいいんだろ」
里奈は何も答えなかった。
課長も何も言わない。
ただ、すぐ隣から視線を感じた。
俺が課長を見ると、課長はすぐに目を逸らした。
その反応が、妙に気になった。
「……恒一。私、本当にやり直したいと思ってる。前は間違えたと思ってるし、今ならちゃんと将来のことも考えられる。仕事も安定してるし、恒一は責任のある立場になってる。私は、そういう恒一となら結婚しても大丈夫だと思ってる」
「俺は大丈夫じゃない」
「どうして?」
「里奈と結婚することが、俺にとって大丈夫じゃないからだ」
言葉にした瞬間、胸の奥に残っていたものが少しだけ軽くなった。
一年半前、俺は里奈に捨てられた。
好きな男ができた。
ただ、それだけを告げられて、俺は何もできなかった。その日から、自分のことをどうでもいいと思うようになった。運動もしなくなった。食べたいものを食べて、体重が増えても放っておいた。鏡を見ることさえ嫌になった。仕事だけは続けたが、それ以外のことはどうでもよかった。
そんな俺の前に、今になって里奈が戻ってきた。
もし俺があの頃と同じだったら。何の役職もなく、収入も変わらず、自分を見失ったままだったら。それでも里奈は俺の前に立っただろうか。その答えは、もう聞かなくても分かっていた。
「じゃあ、少し考えてよ。今すぐ答えなくてもいいから。昔から私たちのことを知ってるんだし、もう一度付き合ってみればいいじゃない」
「断る」
「どうしてそんなに冷たいの?」
「冷たいんじゃない。終わっただけだ」
里奈の表情が醜くゆがむ。以前なら、その顔を見るだけで胸が痛んだかもしれない。俺が悪かったのではないか、もう一度話し合えば何か変わるのではないか、そんなことを考えただろう。
でも、今は違う。
目の前にいる女が、自分を捨てたときの記憶が消えることはない。そして、その女が今の俺を見て戻ってきたという事実も消えない。俺はもう、あの頃のように誰かに選ばれることだけを待つ人間ではいたくなかった。
「……分かった。今日は帰る」
「あぁ」
数歩進んだところで振り返る。
「恒一、今度は、ちゃんと連絡してね」
「しない。もう、俺から連絡することはない」
「……本当に?」
里奈はしばらく俺を見つめ、それから、無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、私から連絡する」
「それも、やめてくれ」
「……分かった」
そう答えたものの、里奈は完全に納得した顔ではなかった。それでも、それ以上は何も言わず、駅の方向へ歩いていった。
追いかけたいとは思わなかった。
名前を呼び止めたいとも思わなかった。
ただ、胸の奥には妙な疲れが残っていた。怒っているわけでもない。悲しいわけでもない。自分の過去を、目の前に置かれて確認させられたような感覚だった。
「高橋さん」
「はい」
「……以前から、あの方と付き合っていたんですか?」
「はい。高校からです。一年半前に別れました」
「高校から……」
「何か?」
「いえ、長いお付き合いだったんですね」
「まあ、そうですね」
「そうですか」
それだけ言うと、課長は前を向く。だが、さっきまでより少しだけ口数が少ないように感じた。俺には、その理由が分からなかった。
「課長?」
「何ですか?」
「いや……何でもないです」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わなかった。
会社の入口には、仕事を終えた社員が何人か通り過ぎていく。俺たちが二人で立っていることに気づいて、軽く会釈していく人もいた。俺は何となく居心地が悪くなりながら、それでも隣にいる課長を意識してしまう。
さっきまで里奈がいた場所には、もう誰もいない。それなのに、課長は一度だけ、里奈が去っていった方向へ視線を向けていた。その横顔はいつもと変わらない。ただ、俺には少しだけ不機嫌そうに見えた。
「では、私は帰ります」
「お疲れさまです」
「高橋さんも、気をつけて帰ってください」
「はい。課長も」
課長が歩き出し、俺はその背中を見送り、いつもなら、そこで終わるはずだった。 仕事が終われば上司と部下に戻る。明日になれば、また会社で顔を合わせる。それだけの関係だ。
なのに、その日は違った。
俺の頭に、さっきの課長の表情が何度も浮かんでくる。里奈との会話を、どう思ったのだろう。俺が高校時代から付き合っていた女に振られたことを、どう感じたのだろう。俺が里奈を拒絶したことを、どう見ていたのだろう。
そして、なぜ課長は「高校から」と聞いたとき、あんな顔をしたのだろう。
「……何でだよ」
小さく呟いて、自分でも呆れてしまう。課長が俺の元カノのことを気にする理由なんてない。俺だって、課長に俺の過去をどう思われたのかを気にする必要なんてない。そう考えているのに、俺の視線は遠ざかっていく課長の背中から離れなかった。
その背中が見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
このときの俺は、まだ知らなかった。
課長の中にも、俺の知らない感情が、小さく芽を出し始めていたことを。