嫌いだった課長と恋をするまで
第21話 もう、あなたには戻らない
その日の夕方、俺はデスクの上に置いていたスマホを何度目か分からないほど裏返した。画面を伏せても、振動が止まるわけではない。今日も昼過ぎから里奈からのメッセージが三件届いていた。
『少しだけ話したい』
『この前はごめん』
『昔の写真を見つけたから送るね』
その前の日も、その前の日も、似たような連絡が入っている。電話も毎日のようにかかってくる。俺は一度も返していない。メッセージも開かずに消している。それでも着信拒否まではしていなかった。そこまでしてしまえば、本当に過去を切り捨てることになる気がして、どこかで踏み切れずにいた。そんな俺のところへ、定時を少し過ぎた頃、課長がやってきた。
「高橋さん、明日の取引先との打ち合わせについて、少し確認したいことがあります。今、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「では、資料を一度確認してもらえますか。私は先に玄関へ行っています」
「分かりました。すぐ行きます」
課長はそう言って、自分のデスクへ戻っていった。俺は残っていた資料を整理してから、明日の打ち合わせに必要なファイルを確認した。いつもなら俺のほうから課長のところへ持っていけば済む話なのに、今日は課長が先に玄関へ向かった。
理由は簡単だった。課長は仕事が終わったあと、そのまま俺と駅まで歩きながら打ち合わせの確認をするつもりだったらしい。最近、仕事の話をしながら帰ることが増えていたから、俺も特に不思議には思わなかった。
資料を持って正面玄関へ向かうと、夕方の神戸の街はすでに帰宅する人たちで賑わっていた。ビルから吐き出されるように社員が歩道へ流れ、駅へ向かう人の足音が重なっている。その人波の向こうに、見覚えのある女が立っていた。
里奈だった。
俺が足を止めたのと同時に、里奈も俺を見つけた。少し離れたところでは、先に玄関へ出ていた課長が資料を手に立っていた。課長も里奈の存在に気づいたらしい。俺と目が合ったあと、一度だけ里奈を見て、それから何も言わずに植え込みの近くまで移動した。
俺たちの会話を聞こうとしているわけではない。ただ、俺が話をしている最中に仕事の確認をするのは避けたのだろう。課長はスマホを取り出し、画面を見ながらそこで待っている。俺はその姿を一瞬だけ確認してから、目の前の里奈へ視線を戻した。
「恒一、やっと会えた。何度連絡しても返事をくれないから、今日は直接来たの」
「連絡なら見てるよ」
「だったら、どうして何も返してくれないの?」
「返事をする必要がないと思ってるから」
「そんな言い方しなくてもいいでしょう。私はちゃんと話したいだけなの。あのときは急に終わらせちゃったし、ちゃんと話す時間もなかったから」
里奈は困ったように笑った。昔なら、その顔を見るだけで俺のほうが折れていたと思う。相手が困っているなら助けたい。怒っているなら謝りたい。そんなふうに、自分の気持ちより相手の機嫌を優先していた。高校生の頃からずっとそうだった。だから、里奈に別れを告げられたときも、俺は最後まで理由を理解しようとしていた。好きな男ができた。その一言だけで終わったのに、それでも俺は自分の何が悪かったのかを考え続けた。今思えば、あれほど自分を責める必要なんてなかった。
「何を話したいんだ?」
「もちろん、これからのこと」
「これから?」
「うん。私、あれからいろいろ考えたの。やっぱり恒一とやり直したい」
予想していた言葉だった。それでも、実際に聞くと胸の奥が重くなる。俺が黙っていると、里奈は昔を思い出させるように笑って、放課後に一緒に帰ったことや、休日に出かけたことを話し始めた。別れるまでの思い出は、俺の中にも残っている。楽しかったし、本当に里奈が好きだった。だからこそ、今の里奈がその思い出を並べて、俺の気持ちを昔へ戻そうとしていることに違和感を覚えてしまう。
「あんなに私のことが好きだったじゃない」
「そうだな」
「毎日のように一緒に帰って、休みの日も会って、ずっと一緒にいたでしょう。あの頃の気持ちって、そんなに簡単になくなるものなの?」
「なくなったんじゃない。終わったんだ」
「どうして?」
「里奈が終わらせたからだろ」
「……あのことは、本当に悪かったと思ってる」
「好きな男ができたから別れる。それがあの日の里奈の答えだった」
「だから、それは若かったから……」
「若かったから?」
「うん。あの頃は将来のことなんて何も考えてなかったし、目の前のことしか見えてなかったの。今は違う。私もいろいろ経験したから、何が大事なのか分かるようになった」
「何が大事なんだ?」
「一緒にいて安心できることとか、将来をちゃんと考えられることとか……。恒一、今ってチームリーダーなんでしょう?」
「そうだよ」
「仕事も順調なんだよね?」
「まあ、それなりには」
「収入も、前より上がったんでしょう? ごめん。変な意味じゃないよ。将来のことを考えるなら、仕事って大事でしょう?」
「そうだな。大事だと思う」
「でしょう? だから、私も今なら恒一とちゃんと付き合えると思ったの。うん。恒一も昔より大人になったし、仕事もしっかりしてる。私ももう、あの頃みたいに何も考えずに付き合ったりしないから」
「じゃあ、俺が今も普通の社員で、収入も昔と大きく変わってなかったら? それでも、同じように俺とやり直したいと思ったか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「答えろ」
「そんなの、今さら分からないでしょう。今の恒一を見て、もう一度好きになったんだから」
「今の俺を見て……か」
「そうよ。だから何が悪いの?」
「別に悪いとは言ってない。ただ、俺には引っかかるんだ」
「何が?」
「俺を好きだと言いながら、俺自身より先に仕事や収入の話をするところだよ」
「だから、それは将来を考えたら普通でしょう?」
「俺を捨てたときは、そんなこと考えなかったよな」
「だから、今は考えるようになったの!」
「つまり、あのときは俺に将来を感じなかった。でも今の俺には感じる。そういうことか?」
「そんな単純な話じゃないって言ってるでしょう」
「俺には、そう聞こえる」
里奈の声に苛立ちが混じり始めた。俺はそれを見ながら、妙に冷静だった。昔なら、ここで俺が謝っていただろう。里奈を怒らせたことを気にして、余計なことを言ったと引っ込めていたと思う。
でも、今は違う。俺はただ、自分がどう感じているのかを言っているだけだ。里奈がそれを気に入らないからといって、俺まで考えを変える必要はない。
「恒一、私は別にお金だけを見てるわけじゃないよ」
「だったら、どうして何度も俺の仕事の話をする?」
「久しぶりに会ったんだから、今どうしてるのか知りたいだけでしょう」
「どうしてチームリーダーになったことまで知ってる?」
「友達から聞いたの」
「収入のことも?」
「だから、少し聞いただけだって言ってるでしょう」
「それを俺は、収入しか見てないように感じるんだ」
「違うって言ってるでしょう!」
里奈の声が大きくなった。周囲を歩いていた何人かが振り返る。夕方の街は人が多く、車の音も駅へ向かう足音も絶えない。その中で、俺たちの間だけが妙に浮いているように感じた。俺は一度息を吐き、里奈を見た。もう、何を言われても昔のようには揺れない。俺が知りたかった答えは、もう十分に分かった。
「里奈は、俺が昔のままだったら戻ってこなかったと思う」
「そんなことない!」
「そう思いたいなら、それでいいよ」
「何、その言い方。私が悪いみたいじゃない」
「悪いとか、そういう話じゃない」
「じゃあ、何なのよ!」
里奈が声を荒らげる。俺はそれでも声を上げなかった。怒りをぶつけたところで、俺の過去が変わるわけではない。里奈が俺を捨てた事実も、俺がそこから自分を見失った時間も、今さら消えることはない。そして、その時間を越えてきた俺自身を、今さら里奈に評価される筋合いもない。
「俺は、もう里奈とは付き合わない」
「……どうして?」
「俺には、俺を一度捨てた人に、今の俺を評価してもらう必要がないからだ」
「私は恒一を評価してるんじゃない。好きだから戻ってきたの」
「だったら、なおさら戻れない」
「どうしてよ!」
「俺が好きだったのは、あの頃の里奈だ。俺と一緒に笑って、何でもないことで喜んでくれた里奈を好きだった。でも、今の里奈を見て、俺はもう同じ気持ちにはなれない」
「……昔の私が好きだったってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ、今の私は?」
「もう、俺が好きだった人じゃない」
里奈は何も言わなくなった。俺も、それ以上は言わなかった。これでいい。ようやく、自分の中に残っていた最後の迷いまで切り離せた気がした。
「俺が好きだったのは、あの頃の里奈じゃない。今の俺は、もう昔の俺じゃない。それと、お前の連絡先は拒否させてもらう」
その言葉を最後に、俺は里奈の横を通り過ぎた。背中から何か言われる気がしたが、振り返らなかった。少し歩いたところで、植え込みの近くに立っていた課長が目に入った。課長は俺を見ると、手にしていたスマホをポケットへしまった。
「課長、待たせました」
「いえ」
「さっきの話……聞こえてました?」
「少しだけです」
課長はそれ以上、里奈のことを聞かなかった。ただ、俺が近づくと、先ほどまで持っていた資料を差し出した。
「明日の打ち合わせについて、駅まで歩きながら確認しましょう」
「はい」
俺たちは並んで歩き始めた。会社の正面玄関から駅へ向かう道には、仕事を終えた人たちが途切れることなく続いている。課長は俺の隣を歩きながら、いつものように明日の仕事の話をしていた。俺もそれに答えた。ただ、少しだけ気になっていた。課長は、俺と里奈が話している間、ずっと離れた場所で待っていた。その理由はもう分かっている。俺たちの話が終わるまで、仕事の用件を後回しにしてくれていたのだ。
駅へ向かう途中、課長が一度だけ後ろを振り返り、俺もつられて振り返ったが、里奈の姿はもう人の流れに紛れて見えなくなっていた。
課長は何も言わずに前を向く。いつも通りの横顔なのに、どこか安心したように見えたのは、俺の気のせいだったのかもしれない。
それでも、その表情がなぜか頭に残った。里奈との関係を終わらせたことで、俺の胸は確かに軽くなっていた。
そして、その隣を歩いている課長の存在まで、いつもより近く感じていた。
『少しだけ話したい』
『この前はごめん』
『昔の写真を見つけたから送るね』
その前の日も、その前の日も、似たような連絡が入っている。電話も毎日のようにかかってくる。俺は一度も返していない。メッセージも開かずに消している。それでも着信拒否まではしていなかった。そこまでしてしまえば、本当に過去を切り捨てることになる気がして、どこかで踏み切れずにいた。そんな俺のところへ、定時を少し過ぎた頃、課長がやってきた。
「高橋さん、明日の取引先との打ち合わせについて、少し確認したいことがあります。今、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「では、資料を一度確認してもらえますか。私は先に玄関へ行っています」
「分かりました。すぐ行きます」
課長はそう言って、自分のデスクへ戻っていった。俺は残っていた資料を整理してから、明日の打ち合わせに必要なファイルを確認した。いつもなら俺のほうから課長のところへ持っていけば済む話なのに、今日は課長が先に玄関へ向かった。
理由は簡単だった。課長は仕事が終わったあと、そのまま俺と駅まで歩きながら打ち合わせの確認をするつもりだったらしい。最近、仕事の話をしながら帰ることが増えていたから、俺も特に不思議には思わなかった。
資料を持って正面玄関へ向かうと、夕方の神戸の街はすでに帰宅する人たちで賑わっていた。ビルから吐き出されるように社員が歩道へ流れ、駅へ向かう人の足音が重なっている。その人波の向こうに、見覚えのある女が立っていた。
里奈だった。
俺が足を止めたのと同時に、里奈も俺を見つけた。少し離れたところでは、先に玄関へ出ていた課長が資料を手に立っていた。課長も里奈の存在に気づいたらしい。俺と目が合ったあと、一度だけ里奈を見て、それから何も言わずに植え込みの近くまで移動した。
俺たちの会話を聞こうとしているわけではない。ただ、俺が話をしている最中に仕事の確認をするのは避けたのだろう。課長はスマホを取り出し、画面を見ながらそこで待っている。俺はその姿を一瞬だけ確認してから、目の前の里奈へ視線を戻した。
「恒一、やっと会えた。何度連絡しても返事をくれないから、今日は直接来たの」
「連絡なら見てるよ」
「だったら、どうして何も返してくれないの?」
「返事をする必要がないと思ってるから」
「そんな言い方しなくてもいいでしょう。私はちゃんと話したいだけなの。あのときは急に終わらせちゃったし、ちゃんと話す時間もなかったから」
里奈は困ったように笑った。昔なら、その顔を見るだけで俺のほうが折れていたと思う。相手が困っているなら助けたい。怒っているなら謝りたい。そんなふうに、自分の気持ちより相手の機嫌を優先していた。高校生の頃からずっとそうだった。だから、里奈に別れを告げられたときも、俺は最後まで理由を理解しようとしていた。好きな男ができた。その一言だけで終わったのに、それでも俺は自分の何が悪かったのかを考え続けた。今思えば、あれほど自分を責める必要なんてなかった。
「何を話したいんだ?」
「もちろん、これからのこと」
「これから?」
「うん。私、あれからいろいろ考えたの。やっぱり恒一とやり直したい」
予想していた言葉だった。それでも、実際に聞くと胸の奥が重くなる。俺が黙っていると、里奈は昔を思い出させるように笑って、放課後に一緒に帰ったことや、休日に出かけたことを話し始めた。別れるまでの思い出は、俺の中にも残っている。楽しかったし、本当に里奈が好きだった。だからこそ、今の里奈がその思い出を並べて、俺の気持ちを昔へ戻そうとしていることに違和感を覚えてしまう。
「あんなに私のことが好きだったじゃない」
「そうだな」
「毎日のように一緒に帰って、休みの日も会って、ずっと一緒にいたでしょう。あの頃の気持ちって、そんなに簡単になくなるものなの?」
「なくなったんじゃない。終わったんだ」
「どうして?」
「里奈が終わらせたからだろ」
「……あのことは、本当に悪かったと思ってる」
「好きな男ができたから別れる。それがあの日の里奈の答えだった」
「だから、それは若かったから……」
「若かったから?」
「うん。あの頃は将来のことなんて何も考えてなかったし、目の前のことしか見えてなかったの。今は違う。私もいろいろ経験したから、何が大事なのか分かるようになった」
「何が大事なんだ?」
「一緒にいて安心できることとか、将来をちゃんと考えられることとか……。恒一、今ってチームリーダーなんでしょう?」
「そうだよ」
「仕事も順調なんだよね?」
「まあ、それなりには」
「収入も、前より上がったんでしょう? ごめん。変な意味じゃないよ。将来のことを考えるなら、仕事って大事でしょう?」
「そうだな。大事だと思う」
「でしょう? だから、私も今なら恒一とちゃんと付き合えると思ったの。うん。恒一も昔より大人になったし、仕事もしっかりしてる。私ももう、あの頃みたいに何も考えずに付き合ったりしないから」
「じゃあ、俺が今も普通の社員で、収入も昔と大きく変わってなかったら? それでも、同じように俺とやり直したいと思ったか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「答えろ」
「そんなの、今さら分からないでしょう。今の恒一を見て、もう一度好きになったんだから」
「今の俺を見て……か」
「そうよ。だから何が悪いの?」
「別に悪いとは言ってない。ただ、俺には引っかかるんだ」
「何が?」
「俺を好きだと言いながら、俺自身より先に仕事や収入の話をするところだよ」
「だから、それは将来を考えたら普通でしょう?」
「俺を捨てたときは、そんなこと考えなかったよな」
「だから、今は考えるようになったの!」
「つまり、あのときは俺に将来を感じなかった。でも今の俺には感じる。そういうことか?」
「そんな単純な話じゃないって言ってるでしょう」
「俺には、そう聞こえる」
里奈の声に苛立ちが混じり始めた。俺はそれを見ながら、妙に冷静だった。昔なら、ここで俺が謝っていただろう。里奈を怒らせたことを気にして、余計なことを言ったと引っ込めていたと思う。
でも、今は違う。俺はただ、自分がどう感じているのかを言っているだけだ。里奈がそれを気に入らないからといって、俺まで考えを変える必要はない。
「恒一、私は別にお金だけを見てるわけじゃないよ」
「だったら、どうして何度も俺の仕事の話をする?」
「久しぶりに会ったんだから、今どうしてるのか知りたいだけでしょう」
「どうしてチームリーダーになったことまで知ってる?」
「友達から聞いたの」
「収入のことも?」
「だから、少し聞いただけだって言ってるでしょう」
「それを俺は、収入しか見てないように感じるんだ」
「違うって言ってるでしょう!」
里奈の声が大きくなった。周囲を歩いていた何人かが振り返る。夕方の街は人が多く、車の音も駅へ向かう足音も絶えない。その中で、俺たちの間だけが妙に浮いているように感じた。俺は一度息を吐き、里奈を見た。もう、何を言われても昔のようには揺れない。俺が知りたかった答えは、もう十分に分かった。
「里奈は、俺が昔のままだったら戻ってこなかったと思う」
「そんなことない!」
「そう思いたいなら、それでいいよ」
「何、その言い方。私が悪いみたいじゃない」
「悪いとか、そういう話じゃない」
「じゃあ、何なのよ!」
里奈が声を荒らげる。俺はそれでも声を上げなかった。怒りをぶつけたところで、俺の過去が変わるわけではない。里奈が俺を捨てた事実も、俺がそこから自分を見失った時間も、今さら消えることはない。そして、その時間を越えてきた俺自身を、今さら里奈に評価される筋合いもない。
「俺は、もう里奈とは付き合わない」
「……どうして?」
「俺には、俺を一度捨てた人に、今の俺を評価してもらう必要がないからだ」
「私は恒一を評価してるんじゃない。好きだから戻ってきたの」
「だったら、なおさら戻れない」
「どうしてよ!」
「俺が好きだったのは、あの頃の里奈だ。俺と一緒に笑って、何でもないことで喜んでくれた里奈を好きだった。でも、今の里奈を見て、俺はもう同じ気持ちにはなれない」
「……昔の私が好きだったってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ、今の私は?」
「もう、俺が好きだった人じゃない」
里奈は何も言わなくなった。俺も、それ以上は言わなかった。これでいい。ようやく、自分の中に残っていた最後の迷いまで切り離せた気がした。
「俺が好きだったのは、あの頃の里奈じゃない。今の俺は、もう昔の俺じゃない。それと、お前の連絡先は拒否させてもらう」
その言葉を最後に、俺は里奈の横を通り過ぎた。背中から何か言われる気がしたが、振り返らなかった。少し歩いたところで、植え込みの近くに立っていた課長が目に入った。課長は俺を見ると、手にしていたスマホをポケットへしまった。
「課長、待たせました」
「いえ」
「さっきの話……聞こえてました?」
「少しだけです」
課長はそれ以上、里奈のことを聞かなかった。ただ、俺が近づくと、先ほどまで持っていた資料を差し出した。
「明日の打ち合わせについて、駅まで歩きながら確認しましょう」
「はい」
俺たちは並んで歩き始めた。会社の正面玄関から駅へ向かう道には、仕事を終えた人たちが途切れることなく続いている。課長は俺の隣を歩きながら、いつものように明日の仕事の話をしていた。俺もそれに答えた。ただ、少しだけ気になっていた。課長は、俺と里奈が話している間、ずっと離れた場所で待っていた。その理由はもう分かっている。俺たちの話が終わるまで、仕事の用件を後回しにしてくれていたのだ。
駅へ向かう途中、課長が一度だけ後ろを振り返り、俺もつられて振り返ったが、里奈の姿はもう人の流れに紛れて見えなくなっていた。
課長は何も言わずに前を向く。いつも通りの横顔なのに、どこか安心したように見えたのは、俺の気のせいだったのかもしれない。
それでも、その表情がなぜか頭に残った。里奈との関係を終わらせたことで、俺の胸は確かに軽くなっていた。
そして、その隣を歩いている課長の存在まで、いつもより近く感じていた。