嫌いだった課長と恋をするまで
第23話 どうして、ほっとしたんだろう ~美月視点~
会社を出ると、高橋さんと並んで駅へ向かった。私は少し前まで、会社の入口から離れた場所で二人の様子を見ていた。
あの女性が高橋さんの元恋人だと知ったときも、二人が何を話しているのか聞きたいとは思わなかった。ただ、仕事の確認をするために待っていただけだった。
それでも、女性が高橋さんに復縁を求めていることは聞こえてきたし、高橋さんが何度も断っていることも分かった。だから、二人の話が終わったとき、高橋さんがこちらへ歩いてくるのを見て、私は自然に姿勢を正してしまった。
仕事の話をするために待っていた。それだけのはずだったのに、彼が私のところまで来た瞬間、胸の奥にあった緊張が抜けていくのを感じた。
「課長、さっきはすみませんでした。仕事の話をする予定だったのに、元カノのことで待たせてしまいました」
「気にしなくていいです。元恋人なら、いろいろあるのでしょう。私も、あの場で声をかけるのはどうかと思ったので、終わるまで待っていただけです」
私はそう答えながら歩き出した。ところが、高橋さんが「もう終わった話です」と言った瞬間、自分でも驚くほど胸の奥がふっと軽くなる。さっきまで握っていた鞄の持ち手から指の力が抜け、肩に入っていた力まで落ちていく。
私は何も言わずに歩きながら、一度だけ高橋さんの横顔を見た。彼はいつものように前を向いている。何かを引きずっているようにも見えない。その姿を見ていると、さっきまで胸の中にあった重さまで消えていくようだった。
私はどうして、こんなに安心しているのだろう。高橋さんが元恋人と復縁しなかったことが、どうして私にとってこんなにも嬉しいのだろう。
「課長、どうかしましたか? さっきから少し考え込んでいるように見えます」
「……何でもありません。明日の打ち合わせについて少し考えていただけです」
「明日の打ち合わせなら、資料はもう確認しています。先方から追加で来た数字も、さっき修正しておきました」
「そうですか。では、明日の朝にもう一度確認しましょう」
仕事の話をしているうちに、少しずついつもの調子に戻っていく。私はそれでいいと思った。仕事の話なら、何も考えずに済む。それなのに、数分もしないうちに、また先ほどの女性の姿が頭に浮かんだ。私は歩きながら前を向いたまま、高橋さんに聞くべきではないと思っていたことを口にしてしまった。
「高橋さんは、あの女性とは長く付き合っていたんですか? 先ほどの様子を見る限り、簡単な関係ではなかったように見えました」
「高校からです。卒業してからも付き合っていました。だから、別れたあともしばらくは引きずりました。でも、もう終わっています。今日も、復縁するつもりはないと伝えました」
「……そうですか」
「課長、やっぱり気になっていました?」
私は返事をする前に、視線を前へ固定した。高橋さんはこちらを見ている。私は鞄の持ち手を握り直し、少し間を置いてから答えた。
「気になっていたというより、少し驚いただけです。突然あんな形で元恋人が現れたので、何か事情があるのだろうと思っただけです。それに、高橋さんがどうするかは高橋さん自身が決めることです。私が口を出すような話ではありません」
「そうですよね。でも、課長にはちゃんと知っておいてほしかったんです。俺は、もうあの人に戻るつもりはありません」
「……どうして、私に?」
「課長には、どう見られているのか気になるからです」
その言葉に、私は一瞬だけ足を緩めた。高橋さんは何でもないことのように話している。でも、私の胸の奥では、その言葉だけが何度も繰り返されていた。
『どう見られているのか気になる』
仕事のできる部下として評価してほしいという意味なのだろうか。それなら、今までの高橋さんらしい。そう考えようとしたのに、なぜか胸が熱くなった。私はその感覚をごまかすように前を向き、歩く速度を少しだけ上げた。
「最初の頃の私は、高橋さんのことを仕事はできるのに、自分のことを大切にしない人だと思っていました。生活のことまで口を出してしまったのは、そのせいです。でも、今は少し違います。高橋さんがどういう理由で自分を後回しにしていたのかも分かってきましたし、仕事に対する姿勢については、私はもう心配していません」
「それなら、少しは信用してもらえていますか?」
「ええ。仕事については、十分に信用しています」
「仕事については、ですか」
「……そこを強調しないでください」
高橋さんが笑ったので、私は思わず横を向き、その笑顔を見て、すぐに前へ戻す。なのに、口元が少しだけ緩んでいることに気づいて、慌てて表情を引き締める。
最近、私は高橋さんの笑顔を見つけると、自然に目で追ってしまう。今日もそうだった。しかも今は、元恋人を拒絶したことに安心して、そのうえ私の評価を気にしていると知ったことで、胸の奥に別の感情まで生まれていた。
それを考えないようにしていると、ふいに別の女性の姿が浮かんだ。
高橋さんの隣にいる女性。
会社の女性社員でも、取引先の女性でもいい。高橋さんがその人に笑いかけ、その人から届いた連絡を嬉しそうに確認して、仕事が終われば二人で食事に行く。そんな場面を想像しただけで、私は無意識に高橋さんとの距離を縮めていた。気づいたときには、さっきまで半歩ほど空いていた距離がなくなっている。私は自分の足元へ目を落とし、何事もなかったように一歩横へずれた。
「課長、どうしました?」
「何でもありません。少し歩きにくかっただけです」
「人が多いですからね」
「そうですね」
高橋さんはそれ以上聞かないことに、また安心し、そして、その安心に自分で驚いてしまう。
高橋さんに元恋人が戻ってこないことにも安心した。今、私が妙な動きをしたことを追及されなかったことにも安心した。どうして私は、こんなにも高橋さんの反応を気にしているのだろう。私は課長で、彼は部下だ。彼の恋愛について考える必要などない。そう思っているのに、頭の中ではさっきの想像が消えてくれなかった。
「課長、駅までで大丈夫ですか? 明日の確認なら、メールでもいいですよ」
「大丈夫です。せっかくなので、一緒に確認しておきましょう」
気づけば、私は自分から一緒に歩くことを選んでいた。
仕事の確認があるから。
そう理由をつければ、それで十分だった。
駅が近づき、人の流れがさらに増えてくる。高橋さんが前を向いて歩いている。私はその横顔を見ながら、さっき聞いた言葉を思い出していた。
『俺は、もうあの人に戻るつもりはありません』
その言葉に、どうして、ほっとしたんだろう。私はまだ、その理由を考えないことにする。ただ、高橋さんの隣を歩くこの時間が、誰か別の女性のものになってしまうことだけは、なぜか嫌だった。
そのことに気づいた私は、また一度だけ高橋さんの横顔を見た。
高橋さんもこちらを見て、目が合った瞬間、私は何も言わずに前を向いた。
歩幅だけが、ほんの少しだけ速くなった。
私の鼓動と同じように。
あの女性が高橋さんの元恋人だと知ったときも、二人が何を話しているのか聞きたいとは思わなかった。ただ、仕事の確認をするために待っていただけだった。
それでも、女性が高橋さんに復縁を求めていることは聞こえてきたし、高橋さんが何度も断っていることも分かった。だから、二人の話が終わったとき、高橋さんがこちらへ歩いてくるのを見て、私は自然に姿勢を正してしまった。
仕事の話をするために待っていた。それだけのはずだったのに、彼が私のところまで来た瞬間、胸の奥にあった緊張が抜けていくのを感じた。
「課長、さっきはすみませんでした。仕事の話をする予定だったのに、元カノのことで待たせてしまいました」
「気にしなくていいです。元恋人なら、いろいろあるのでしょう。私も、あの場で声をかけるのはどうかと思ったので、終わるまで待っていただけです」
私はそう答えながら歩き出した。ところが、高橋さんが「もう終わった話です」と言った瞬間、自分でも驚くほど胸の奥がふっと軽くなる。さっきまで握っていた鞄の持ち手から指の力が抜け、肩に入っていた力まで落ちていく。
私は何も言わずに歩きながら、一度だけ高橋さんの横顔を見た。彼はいつものように前を向いている。何かを引きずっているようにも見えない。その姿を見ていると、さっきまで胸の中にあった重さまで消えていくようだった。
私はどうして、こんなに安心しているのだろう。高橋さんが元恋人と復縁しなかったことが、どうして私にとってこんなにも嬉しいのだろう。
「課長、どうかしましたか? さっきから少し考え込んでいるように見えます」
「……何でもありません。明日の打ち合わせについて少し考えていただけです」
「明日の打ち合わせなら、資料はもう確認しています。先方から追加で来た数字も、さっき修正しておきました」
「そうですか。では、明日の朝にもう一度確認しましょう」
仕事の話をしているうちに、少しずついつもの調子に戻っていく。私はそれでいいと思った。仕事の話なら、何も考えずに済む。それなのに、数分もしないうちに、また先ほどの女性の姿が頭に浮かんだ。私は歩きながら前を向いたまま、高橋さんに聞くべきではないと思っていたことを口にしてしまった。
「高橋さんは、あの女性とは長く付き合っていたんですか? 先ほどの様子を見る限り、簡単な関係ではなかったように見えました」
「高校からです。卒業してからも付き合っていました。だから、別れたあともしばらくは引きずりました。でも、もう終わっています。今日も、復縁するつもりはないと伝えました」
「……そうですか」
「課長、やっぱり気になっていました?」
私は返事をする前に、視線を前へ固定した。高橋さんはこちらを見ている。私は鞄の持ち手を握り直し、少し間を置いてから答えた。
「気になっていたというより、少し驚いただけです。突然あんな形で元恋人が現れたので、何か事情があるのだろうと思っただけです。それに、高橋さんがどうするかは高橋さん自身が決めることです。私が口を出すような話ではありません」
「そうですよね。でも、課長にはちゃんと知っておいてほしかったんです。俺は、もうあの人に戻るつもりはありません」
「……どうして、私に?」
「課長には、どう見られているのか気になるからです」
その言葉に、私は一瞬だけ足を緩めた。高橋さんは何でもないことのように話している。でも、私の胸の奥では、その言葉だけが何度も繰り返されていた。
『どう見られているのか気になる』
仕事のできる部下として評価してほしいという意味なのだろうか。それなら、今までの高橋さんらしい。そう考えようとしたのに、なぜか胸が熱くなった。私はその感覚をごまかすように前を向き、歩く速度を少しだけ上げた。
「最初の頃の私は、高橋さんのことを仕事はできるのに、自分のことを大切にしない人だと思っていました。生活のことまで口を出してしまったのは、そのせいです。でも、今は少し違います。高橋さんがどういう理由で自分を後回しにしていたのかも分かってきましたし、仕事に対する姿勢については、私はもう心配していません」
「それなら、少しは信用してもらえていますか?」
「ええ。仕事については、十分に信用しています」
「仕事については、ですか」
「……そこを強調しないでください」
高橋さんが笑ったので、私は思わず横を向き、その笑顔を見て、すぐに前へ戻す。なのに、口元が少しだけ緩んでいることに気づいて、慌てて表情を引き締める。
最近、私は高橋さんの笑顔を見つけると、自然に目で追ってしまう。今日もそうだった。しかも今は、元恋人を拒絶したことに安心して、そのうえ私の評価を気にしていると知ったことで、胸の奥に別の感情まで生まれていた。
それを考えないようにしていると、ふいに別の女性の姿が浮かんだ。
高橋さんの隣にいる女性。
会社の女性社員でも、取引先の女性でもいい。高橋さんがその人に笑いかけ、その人から届いた連絡を嬉しそうに確認して、仕事が終われば二人で食事に行く。そんな場面を想像しただけで、私は無意識に高橋さんとの距離を縮めていた。気づいたときには、さっきまで半歩ほど空いていた距離がなくなっている。私は自分の足元へ目を落とし、何事もなかったように一歩横へずれた。
「課長、どうしました?」
「何でもありません。少し歩きにくかっただけです」
「人が多いですからね」
「そうですね」
高橋さんはそれ以上聞かないことに、また安心し、そして、その安心に自分で驚いてしまう。
高橋さんに元恋人が戻ってこないことにも安心した。今、私が妙な動きをしたことを追及されなかったことにも安心した。どうして私は、こんなにも高橋さんの反応を気にしているのだろう。私は課長で、彼は部下だ。彼の恋愛について考える必要などない。そう思っているのに、頭の中ではさっきの想像が消えてくれなかった。
「課長、駅までで大丈夫ですか? 明日の確認なら、メールでもいいですよ」
「大丈夫です。せっかくなので、一緒に確認しておきましょう」
気づけば、私は自分から一緒に歩くことを選んでいた。
仕事の確認があるから。
そう理由をつければ、それで十分だった。
駅が近づき、人の流れがさらに増えてくる。高橋さんが前を向いて歩いている。私はその横顔を見ながら、さっき聞いた言葉を思い出していた。
『俺は、もうあの人に戻るつもりはありません』
その言葉に、どうして、ほっとしたんだろう。私はまだ、その理由を考えないことにする。ただ、高橋さんの隣を歩くこの時間が、誰か別の女性のものになってしまうことだけは、なぜか嫌だった。
そのことに気づいた私は、また一度だけ高橋さんの横顔を見た。
高橋さんもこちらを見て、目が合った瞬間、私は何も言わずに前を向いた。
歩幅だけが、ほんの少しだけ速くなった。
私の鼓動と同じように。