嫌いだった課長と恋をするまで

第24話 課長の知らない俺

 午後から、取引先との打ち合わせが入っていた。先方が求めている納期と、こちらが現実的に対応できる納期に差があり、営業担当だけでは話がまとまらない可能性があり、チームリーダーとして俺も同席することになった。

 会議室に入ると、先方の担当者は開口一番、予定より三日早められないかと切り出してきた。営業担当が「社内でも調整してみます」と答えたところで、俺は資料に目を落とした。数字だけを見れば難しい。今の人員で三日縮めれば、どこかの工程に無理が出る。それでも、先方がなぜ三日を求めているのかを聞いてみると、納品先の都合で、その日を逃すと次の作業に一週間の遅れが出るという。
 俺はそこで初めて、先方が欲しがっているのは単純な納期短縮ではなく、全体の予定を崩さない方法なのだと分かった。

「三日すべてを縮める必要はありません。こちらで先に進められる工程を前倒しして、最後の現場作業だけ予定日に合わせる方法なら、二日までは縮められます。残り一日は、先方で準備していただける部分を一つだけ早めてもらえれば対応できます。こちらの負担だけを増やして無理に三日縮めるより、そのほうが確実です。今日のうちに双方の担当者を交えて工程を組み直せば、明日には具体的な日程を出せます」

 先方はしばらく資料を見つめ、それから営業担当へ確認するように頷いた。話はそこで動き始めた。打ち合わせが終わり、会社へ戻る車の中で、営業担当から「高橋さんが入ってくれて助かりました」と言われた。俺は「俺がやったのは話を整理しただけですよ」と返したが、窓の外へ視線を向けながら、胸の奥に小さな充足感を覚えていた。仕事をしているときだけは、自分の体型も、過去のことも、里奈とのことも関係ない。目の前にある問題をどう片づけるか。それだけを考えていればいい。だから俺は、仕事を嫌いになれなかった。

 
 午後の報告で課長の席へ行くと、課長は届いたばかりの資料を確認していた。先方の要求、こちらの提案、明日までに必要な調整事項を説明すると、課長は途中で口を挟まず最後まで聞いてくれ、それから資料を閉じ、俺を見る。

「高橋さんの判断で進めた理由は分かりました。先方の事情を確認したうえで、こちらだけが負担を抱えない形にしたんですね。以前の高橋さんなら、相手が困っていると分かった時点で、こちらが無理をしてでも引き受けていたように思います」

「そう見えますか」

「ええ。ただ、今の判断のほうがチームリーダーとして正しいと思います。誰か一人が無理をすれば解決する仕事なら簡単です。でも、それでは次も同じことになります。高橋さんが周囲のことまで考えて判断したのであれば、私はその判断を支持します」

 その言葉を聞いて、俺は少しだけ驚いてしまう。課長から仕事を評価されること自体は初めてではない。なのに、今日は違うような感じを受ける。
 俺が何をしたかだけではなく、なぜそうしたのかまで見てくれている気がした。前までなら俺も課長も互いの欠点ばかり探していた。
 俺は課長を、人の気持ちを考えない仕事人間だと思っていたし、課長も俺を自己管理のできない男だと思っていたようだ。その見方が、少しずつ変わっている。そう思った瞬間、俺は目の前にいる女性を以前とは違う目で見ている自分に気づいてしまう。

 報告を終えて自席へ戻ろうとしたとき、机の端に積まれた資料の束が目に入る。課長はそれを持って別の会議室へ向かおうとしている。かなりの量だった。

「課長、それ、俺が持ちます」

「大丈夫です。これくらいなら一人で運べます」

「知っています。課長が一人で持てることは分かっています。でも、俺も持てますから。二人で持ったほうが早いでしょう。次の会議、時間がないんですよね」

 課長が顔を上げる。俺は資料の半分を手に取ってから、そのまま続けた。課長は何も言わなかった。ただ、俺の手にある資料を取り返そうとはしなかった。
 二人で会議室へ向かい、俺が扉を開けると、課長が先に中へ入った。資料を机に置いたあと、課長が小さく息を吐いていた。
 疲れている。魚屋道で見たときと同じだった。仕事中は隠しているだけで、この人も普通に疲れるし、誰かの手を借りなければならない瞬間だってある。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。これくらいなら、いつでも言ってください」

 課長の目が、いつもの仕事中とは違っていた。何かを言おうとして、結局言葉を飲み込むような表情に感じる。俺はそれ以上聞かないことにする。課長が何を考えているのか、無理に知ろうとは思わなかった。ただ、俺が資料を持ったことで、ほんの少しでも課長の負担が減ったのなら、それでいいのだと。

 
 その日の帰り、エレベーターを待っていると、課長が隣に並び、二人きりになると、課長は正面を向いたまま静かに口を開いた。

「高橋さん。今日、取引先との話を聞いていて思ったのですが、仕事のときのあなたは、私が最初に思っていた人とはかなり違いますね。最初は、仕事をしているのに自分の生活だけは放置している人だと思っていました。でも、周囲の人間のことを考えて判断できる人なのだと、最近は分かってきました」

「俺も、課長のことを最初はかなり誤解していました。何でも一人でやって、人に頼る気がない人だと思っていました」

「……今も、そう見えますか?」

「少しは。でも、前ほどじゃないです。魚屋道のときもそうでしたけど、課長だって誰かに頼っていいんじゃないですか。俺でよければ、仕事でも、それ以外でも」

 言ってから、少し踏み込みすぎた気がして口を閉じる。課長は返事をしなかった。エレベーターの扉が開き、俺たちは並んで乗り込む。沈黙が妙に長く感じられたが、やがて課長が小さな声で答えた。

「……高橋さんも、私に頼ってください。仕事のことだけではなくて」

 その言葉に、今度は俺のほうが黙ってしまう。課長からそんなことを言われるとは思っていなかった。俺は誰かに頼ることが苦手なわけではない。ただ、頼る必要がないと思っていた。自分で何とかできるなら、自分でやればいい。それが当たり前だった。でも、課長にそう言われると、なぜか胸の奥が温かくなった。

 エレベーターを降り、会社の出口へ向かう。課長とはそこで別れるはずだった。なのに、俺は歩きながらふと思う。課長が俺のことを少しずつ知ってくれているなら、俺も課長のことをもっと知りたい。仕事ができることも、一人で何でも背負うことも、疲れていても平気な顔をすることも知っている。それでも、まだ知らないことがたくさんある。

「課長」

「はい?」

「今度、仕事じゃない話も聞かせてください」

「……高橋さんも、自分のことを話してくれるなら考えます」

「分かりました。じゃあ、お互いですね」

 課長は小さく頷いた横顔を見ながら、俺は思いなおす。

 俺はまだ、課長のことを何も知らない。
 だからこそ、もっと知りたいと思ってしまったのだった。
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