嫌いだった課長と恋をするまで
第25話 好きになるはずがない
翌週の月曜日、朝から会議が続いていた。俺は自分の席で資料を確認しながら、前に座っている課長の背中を何度も見ていた。見ようとしているわけではない。資料から顔を上げるたび、自然と目に入ってしまうのだ。
課長はいつも通り、机の上に資料をきれいに並べ、必要な数字だけを抜き出して確認している。髪を耳へかける仕草も、ペンを持つ指の動きも、俺は以前より細かく覚えていることに気づいてしまう。
そんな自分が妙に気持ち悪くて、俺は慌てて視線をパソコンへ戻す。仕事に集中しようとすればするほど、今度は隣の席から聞こえてくる課長の声が気になってくる。たったそれだけのことで落ち着かなくなる自分に、俺は小さく息を吐く。
何をしているんだ、俺は。仕事中に課長を目で追うなんて、どう考えても普通じゃない。
「高橋さん、先ほどの資料ですが、三ページ目の数字だけ確認してもらえますか。先方へ出す前に、念のためこちらでも合わせておきたいので」
「はい。そこなら今確認できます。……あぁ、すみません。こちらの入力が一つずれています。すぐ直しておきます」
「お願いします。あと、今日の午後に先方との打ち合わせがありますから、その修正が終わったら私にも一度見せてください。高橋さんが作った資料なら大丈夫だと思っていますが、今回はこちらの判断で条件が変わる可能性があります。私も同席しますので、事前に二人で確認しておいたほうが話が早いでしょう」
課長はそう言って、俺の机へ資料を置く。ほんの数秒のやり取りなのに、胸の奥が妙にざわついてしまう。
仕事を任せてもらえていることが嬉しいのは分かる。それなら、こんなふうに課長の声を聞いただけで気持ちが浮つく理由は何だ。
俺は資料を持ち上げ、数字を確認しながら意識を無理やり仕事へ戻す。午後の打ち合わせでは、課長と並んで先方の話を聞き、必要な部分を俺が答え、課長が最後に条件を整理した。互いに言葉を交わさなくても次に何をするか分かる場面が増えている。それが心地よく感じられるほど、俺の中で何かが変わっていることを認めざるを得なかった。
打ち合わせが終わり、先方を見送って会議室へ戻ると、課長が資料を机に置いた。窓から午後の日差しが差し込み、会議室の中にはさっきまでの緊張が残っている。課長は椅子に座ると、肩を一度だけ回した。その仕草が目に入った瞬間、俺は反射的に口を開いていた。課長は疲れているのに本人は、それを隠すように資料へ目を向けている。俺は以前なら気づいても、そのままにしていたはずだった。今は違う。課長が無理をしているように見えると、どうしても気になってしまう。
「課長、少し休みませんか。次の予定まで、まだ二十分あります。今のうちにコーヒーでも飲んでください」
「大丈夫です。次の資料を確認しておきたいので」
「それ、俺が確認しておきます。課長が見なくても問題ないところですし、もし判断が必要になったら呼びますから」
「高橋さんは、自分の仕事がありますよね?」
「あります。でも、これくらいならできます。課長が全部やる必要はないでしょう」
課長の手が止まり、資料の上に置かれていた指が、ほんの少しだけ動く。俺はその反応を見ながら、言い方が強かったかもしれないと思ってしまう。課長は人に頼ることを苦手としている。だったら、無理に休めと言うより、俺ができることを渡せばいい。そう考えていると、課長が顔を上げた。いつもの仕事中の目とは少し違って見えた。
「……高橋さんは、最近、私のことをよく見ていますね」
「えっ?」
「仕事中のことだけではありません。疲れているとか、資料が多いとか、休んだほうがいいとか。以前のあなたなら、そこまで気にしなかったでしょう」
図星だった。返事をしようとして、言葉が出てこない。
課長は俺から目を逸らさずに待っている。俺は誤魔化そうとしたが、変な言い訳をすれば余計に不自然になる気がした。
「……課長だから、気になるんですよ。俺の上司ですし、無理をして倒れられたら困りますから」
「そうですか……」
課長はそれだけ言うと、視線を資料へ戻す。だが、口元にはわずかな変化が見えた気がした。笑ったようにも見えたし、何かを考えているようにも見える。俺はその横顔を見ながら、さっきの自分の言葉を頭の中で繰り返した。課長だから気になる。それなら問題ない。上司だから心配する。仕事を一緒にしているから、疲れていれば気づく。それだけだ。そう考えれば、胸の中にある妙な感覚も説明できる。
その日の夕方、営業部の男性社員が課長のところへ来た。次の案件について相談があるらしく、課長は資料を受け取って話を聞いていた。俺は少し離れた席で自分の仕事をしていたが、なぜか二人の会話が耳に入ってくる。男性社員が何か冗談を言ったのか、課長が小さく笑っている。
その瞬間、俺の手が止まってしまう。顔を上げると、課長はいつもより柔らかい表情をしている。別に珍しいことではない。仕事相手と話しているだけだ。そう分かっているのに、胸の奥が妙にざらつく。
俺はマウスを握り直し、画面へ目を戻すことにした。ところが、文章が頭に入ってこない。数秒後、また顔を上げてしまった。まだ二人は話している。俺は自分でも理由が分からないまま、椅子の背にもたれた。
「高橋さん、どうしました? さっきから、こちらを見てましたけど」
突然声をかけられて顔を上げると、営業部の社員がこちらを見ていた。俺は慌てて首を振った。
「いや、何でもないです。ちょっと考え事をしていただけです」
「そうですか。では、課長、先ほどの件はこの方向で進めます。ありがとうございました」
「はい。よろしくお願いします」
男性社員が去っていく。課長はその背中を見送ってから、飼料へと目を落としている。
俺は画面を見つめたまま、さっき胸に生まれた感情を何度も考えた。
何が気に入らないんだろうか。
課長が誰と話そうが、俺には関係ない。課長は独身だし、仕事で誰と親しく話していても当然だ。俺が口を出す理由なんてどこにもない。それなのに、さっきの笑顔が頭から離れない。里奈のときとは違う。あの頃は失いたくないという気持ちがあった。今は、誰かに取られたくないと思ったような気がする。でも、そんなことを考える自分を認めるわけにはいかなかった。
帰り際、俺が資料を片づけていると、課長がコートを手にして近づいてきた。会社の中にはまだ何人か残っている。課長は俺の机の横で立ち止まり、明日の予定を確認するように話しかけてきた。俺はいつも通り返事をしたつもりだったが、課長の目がこちらを見ていることを意識すると、妙に言葉が詰まってしまった。課長はそんな俺を不思議そうに見たあと、ふっと表情を緩める。
「高橋さん、今日は少し変ですね。何かありましたか?」
「何もありません。ただ、少し疲れているだけです」
「そうですか。無理はしないでください。明日の朝までに終わればいい仕事なら、今日全部片づける必要はありませんから」
「……課長もですよ」
「私も?」
「課長も、全部一人でやらなくていいです。俺ができることなら言ってください。前にも言いましたけど、俺も頼られれば嬉しいですから」
課長は少し黙ってから、「分かりました」と答えた。その声を聞いた途端、胸の奥にあったものがほどけた気がする。俺は課長が誰かに頼る姿を見たいと思った。自分だけに頼ってほしいと思ったような気もする。だが、そこまで考えたところで、俺はすぐにその考えを打ち消す。
何を考えているんだ。課長は俺の上司だ。俺は部下で、課長は課長。それ以上でも、それ以下でもない。
会社を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。駅へ向かいながらも、頭の中には今日の課長の顔が何度も浮かんでくる。疲れたときの表情も、仕事をしているときの横顔も、誰かと話して笑った顔も、全部が妙に鮮明だった。
俺は歩きながら一度だけ足を止め、夜空を見上げる。こんなことで気持ちが乱れるなんて、どうかしている。俺が課長を好きになるなんて、あるはずがない。そう思ったところで、胸の奥に残った違和感は消えてくれなかった。俺はそれを無理やり押し込むように歩き出した。
好きになるはずがない。
そう言い聞かせながら歩いているのに、俺の頭に浮かんでいたのは、今日の課長の笑顔だった。
課長はいつも通り、机の上に資料をきれいに並べ、必要な数字だけを抜き出して確認している。髪を耳へかける仕草も、ペンを持つ指の動きも、俺は以前より細かく覚えていることに気づいてしまう。
そんな自分が妙に気持ち悪くて、俺は慌てて視線をパソコンへ戻す。仕事に集中しようとすればするほど、今度は隣の席から聞こえてくる課長の声が気になってくる。たったそれだけのことで落ち着かなくなる自分に、俺は小さく息を吐く。
何をしているんだ、俺は。仕事中に課長を目で追うなんて、どう考えても普通じゃない。
「高橋さん、先ほどの資料ですが、三ページ目の数字だけ確認してもらえますか。先方へ出す前に、念のためこちらでも合わせておきたいので」
「はい。そこなら今確認できます。……あぁ、すみません。こちらの入力が一つずれています。すぐ直しておきます」
「お願いします。あと、今日の午後に先方との打ち合わせがありますから、その修正が終わったら私にも一度見せてください。高橋さんが作った資料なら大丈夫だと思っていますが、今回はこちらの判断で条件が変わる可能性があります。私も同席しますので、事前に二人で確認しておいたほうが話が早いでしょう」
課長はそう言って、俺の机へ資料を置く。ほんの数秒のやり取りなのに、胸の奥が妙にざわついてしまう。
仕事を任せてもらえていることが嬉しいのは分かる。それなら、こんなふうに課長の声を聞いただけで気持ちが浮つく理由は何だ。
俺は資料を持ち上げ、数字を確認しながら意識を無理やり仕事へ戻す。午後の打ち合わせでは、課長と並んで先方の話を聞き、必要な部分を俺が答え、課長が最後に条件を整理した。互いに言葉を交わさなくても次に何をするか分かる場面が増えている。それが心地よく感じられるほど、俺の中で何かが変わっていることを認めざるを得なかった。
打ち合わせが終わり、先方を見送って会議室へ戻ると、課長が資料を机に置いた。窓から午後の日差しが差し込み、会議室の中にはさっきまでの緊張が残っている。課長は椅子に座ると、肩を一度だけ回した。その仕草が目に入った瞬間、俺は反射的に口を開いていた。課長は疲れているのに本人は、それを隠すように資料へ目を向けている。俺は以前なら気づいても、そのままにしていたはずだった。今は違う。課長が無理をしているように見えると、どうしても気になってしまう。
「課長、少し休みませんか。次の予定まで、まだ二十分あります。今のうちにコーヒーでも飲んでください」
「大丈夫です。次の資料を確認しておきたいので」
「それ、俺が確認しておきます。課長が見なくても問題ないところですし、もし判断が必要になったら呼びますから」
「高橋さんは、自分の仕事がありますよね?」
「あります。でも、これくらいならできます。課長が全部やる必要はないでしょう」
課長の手が止まり、資料の上に置かれていた指が、ほんの少しだけ動く。俺はその反応を見ながら、言い方が強かったかもしれないと思ってしまう。課長は人に頼ることを苦手としている。だったら、無理に休めと言うより、俺ができることを渡せばいい。そう考えていると、課長が顔を上げた。いつもの仕事中の目とは少し違って見えた。
「……高橋さんは、最近、私のことをよく見ていますね」
「えっ?」
「仕事中のことだけではありません。疲れているとか、資料が多いとか、休んだほうがいいとか。以前のあなたなら、そこまで気にしなかったでしょう」
図星だった。返事をしようとして、言葉が出てこない。
課長は俺から目を逸らさずに待っている。俺は誤魔化そうとしたが、変な言い訳をすれば余計に不自然になる気がした。
「……課長だから、気になるんですよ。俺の上司ですし、無理をして倒れられたら困りますから」
「そうですか……」
課長はそれだけ言うと、視線を資料へ戻す。だが、口元にはわずかな変化が見えた気がした。笑ったようにも見えたし、何かを考えているようにも見える。俺はその横顔を見ながら、さっきの自分の言葉を頭の中で繰り返した。課長だから気になる。それなら問題ない。上司だから心配する。仕事を一緒にしているから、疲れていれば気づく。それだけだ。そう考えれば、胸の中にある妙な感覚も説明できる。
その日の夕方、営業部の男性社員が課長のところへ来た。次の案件について相談があるらしく、課長は資料を受け取って話を聞いていた。俺は少し離れた席で自分の仕事をしていたが、なぜか二人の会話が耳に入ってくる。男性社員が何か冗談を言ったのか、課長が小さく笑っている。
その瞬間、俺の手が止まってしまう。顔を上げると、課長はいつもより柔らかい表情をしている。別に珍しいことではない。仕事相手と話しているだけだ。そう分かっているのに、胸の奥が妙にざらつく。
俺はマウスを握り直し、画面へ目を戻すことにした。ところが、文章が頭に入ってこない。数秒後、また顔を上げてしまった。まだ二人は話している。俺は自分でも理由が分からないまま、椅子の背にもたれた。
「高橋さん、どうしました? さっきから、こちらを見てましたけど」
突然声をかけられて顔を上げると、営業部の社員がこちらを見ていた。俺は慌てて首を振った。
「いや、何でもないです。ちょっと考え事をしていただけです」
「そうですか。では、課長、先ほどの件はこの方向で進めます。ありがとうございました」
「はい。よろしくお願いします」
男性社員が去っていく。課長はその背中を見送ってから、飼料へと目を落としている。
俺は画面を見つめたまま、さっき胸に生まれた感情を何度も考えた。
何が気に入らないんだろうか。
課長が誰と話そうが、俺には関係ない。課長は独身だし、仕事で誰と親しく話していても当然だ。俺が口を出す理由なんてどこにもない。それなのに、さっきの笑顔が頭から離れない。里奈のときとは違う。あの頃は失いたくないという気持ちがあった。今は、誰かに取られたくないと思ったような気がする。でも、そんなことを考える自分を認めるわけにはいかなかった。
帰り際、俺が資料を片づけていると、課長がコートを手にして近づいてきた。会社の中にはまだ何人か残っている。課長は俺の机の横で立ち止まり、明日の予定を確認するように話しかけてきた。俺はいつも通り返事をしたつもりだったが、課長の目がこちらを見ていることを意識すると、妙に言葉が詰まってしまった。課長はそんな俺を不思議そうに見たあと、ふっと表情を緩める。
「高橋さん、今日は少し変ですね。何かありましたか?」
「何もありません。ただ、少し疲れているだけです」
「そうですか。無理はしないでください。明日の朝までに終わればいい仕事なら、今日全部片づける必要はありませんから」
「……課長もですよ」
「私も?」
「課長も、全部一人でやらなくていいです。俺ができることなら言ってください。前にも言いましたけど、俺も頼られれば嬉しいですから」
課長は少し黙ってから、「分かりました」と答えた。その声を聞いた途端、胸の奥にあったものがほどけた気がする。俺は課長が誰かに頼る姿を見たいと思った。自分だけに頼ってほしいと思ったような気もする。だが、そこまで考えたところで、俺はすぐにその考えを打ち消す。
何を考えているんだ。課長は俺の上司だ。俺は部下で、課長は課長。それ以上でも、それ以下でもない。
会社を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。駅へ向かいながらも、頭の中には今日の課長の顔が何度も浮かんでくる。疲れたときの表情も、仕事をしているときの横顔も、誰かと話して笑った顔も、全部が妙に鮮明だった。
俺は歩きながら一度だけ足を止め、夜空を見上げる。こんなことで気持ちが乱れるなんて、どうかしている。俺が課長を好きになるなんて、あるはずがない。そう思ったところで、胸の奥に残った違和感は消えてくれなかった。俺はそれを無理やり押し込むように歩き出した。
好きになるはずがない。
そう言い聞かせながら歩いているのに、俺の頭に浮かんでいたのは、今日の課長の笑顔だった。