嫌いだった課長と恋をするまで
第4章 課長が好きだと気づいた
第26話 課長が距離を置く
月曜日の朝、会社へ向かう電車の中で、俺は今日の仕事の予定を頭の中で整理していた。午前中に取引先へ提出する資料を確認し、午後から営業担当との打ち合わせが一件。そのあと、先週から進めている案件の修正まで終わらせれば、今日は定時を少し過ぎる程度で帰れそうだ。
部署へ入ると、神谷課長はすでに席についていた。パソコンを起動しながら、手元の資料に目を通している。俺は自分の席へ鞄を置き、コートを椅子の背へ掛けてから課長のところへ向かった。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
いつもと変わらない挨拶。俺も軽く頭を下げて自分の席へ戻ろうとしたが、その途中で課長と目が合った。課長は一瞬だけ俺を見つめ、それから何事もなかったように視線を資料へ戻した。ほんのわずかな時間だったから、俺も気のせいだと思うことにした。朝から課長の様子を気にしても仕方がない。仕事が始まれば、それどころではなくなる。そう考えてパソコンを立ち上げ、届いていたメールを確認し始めた。それでも、胸の片隅には小さな引っかかりが残った。
午前中は忙しかった。取引先へ提出する資料の数字を確認し、担当者から上がってきた報告書に目を通す。課長からもいくつか指示があり、俺は順番に片づけていった。仕事に関しては何も変わっていない。課長は必要なところをきちんと確認し、俺が判断に迷う部分については意見を求めてくる。だからこそ、俺は余計に違和感を覚えていた。仕事の話が終わった瞬間、課長は必ず会話を切り上げる。資料について確認したあとに続いていた何気ないやり取りが、今日は一度もない。
「高橋さん、この数字ですが、先月の実績と照合してもらえますか」
「分かりました。昼までに確認しておきます」
「お願いします」
課長は資料を受け取ると、自分の席へ戻っていき、俺も画面へ視線を戻す。仕事としては、それで十分だ。なのに、課長の背中が妙に遠く感じられた。何が気になるのか、自分でも分からない。俺は余計なことを考えないよう、目の前の数字に集中することにした。
午前十一時を過ぎた頃、俺は先ほど頼まれた資料の確認を終えた。印刷したものを持って課長の席へ向かい、内容を説明する。課長は資料を受け取り、数字を確認しながら二、三個質問をした。俺が答えると、小さく頷く。
「問題ありません。ありがとうございます」
「はい」
そこで終わってしまった。俺は席へ戻ったが、どうにも落ち着かない。課長は忙しいだけなのかもしれない。祖父のこともあるし、仕事だって抱えている。俺に話しかける余裕がない日があっても不思議じゃない。そう考えているうちに昼休みの時間になった。
俺はパソコンの画面を閉じ、財布を手に取る。立ち上がって部署の出口へ向かいかけたところで、課長が椅子から立ち上がる気配がした。何となくそちらを見ると、課長も昼食へ向かう準備をしていた。机の上の書類をまとめ、パソコンをスリープ状態にしてから鞄の中へ財布を入れている。
「課長、昼食はどうします?」
「今日は外へ出ます。少し用事もありますので」
「そうですか」
「高橋さんは?」
「俺は食堂へ行きます」
「そうですか。では、午後に」
「はい」
課長は俺より先に部署を出る。俺はその後ろ姿を見送ってから、少し時間を置いて歩き出した。同じ方向へ行くと、また話をしなければならないような気がしたからだ。俺はエレベーターへ向かい、一階まで降りる。昼休みの社員で混み合うエントランスを抜け、食堂へ向かう廊下を歩いていると、少し先に課長の姿が見えた。
課長は一人ではなかった。営業部の社員と並んで歩きながら、何か話している。俺が見る限り、仕事の話をしているようだった。二人はそのまま廊下の角を曲がり、社員食堂とは反対側にある来客用のスペースへ向かっていった。俺は足を止めず、そのまま食堂へ向かう。さっき課長が言っていた「外へ出ます」という言葉を思い出す。あぁ、そういうことか。そう納得しようとしたのに、胸の奥には妙なものが残る。
午後の仕事が始まると、課長は何事もなかったように席へ戻ってきた。俺にも必要な指示を出す。質問をすれば答える。資料に問題があれば指摘する。上司としては完璧なくらい普通だった。だからこそ、俺は自分の感覚を疑った。俺が勝手に気にしているだけなんじゃないか。そう思いながら仕事を続けていると、課長が俺の席まで来た。
「高橋さん、明日の打ち合わせですが、先方から時間変更の連絡がありました」
「何時になりました?」
「午後三時です。予定を変更しておいてください」
「分かりました」
「それだけです。よろしくお願いします」
「はい」
課長はすぐに自分の席へ戻っていく。
(まただ)
俺は無意識にそう思ってしまう。必要な話だけをして、すぐに離れていく。偶然なら一度や二度で終わるはずなのに、今日は朝からずっと同じだからだ。
俺が何かしたのか。それとも、課長の身の回りで何かあったのか。考えてみても答えは出ない。仕事上のミスをした覚えもない。課長から注意を受けたわけでもない。それなのに、課長との間に見えない線が引かれているように感じる。
夕方になり、部署に残る社員が少しずつ減っていく。俺は残っていた資料をまとめながら、何度も課長の席を見そうになる自分を抑えていた。課長はまだ仕事をしている。机の上には資料が積まれ、パソコンの画面を見ながら何かを入力している。俺はそれを確認すると、なぜか少し安心した。話をする必要なんてない。ただ同じ場所にいる。それだけでいいと思っている自分に気づき、俺は戸惑った。
午後七時を過ぎた頃、課長がようやく仕事を終えたようだった。資料をまとめ、机の上を整理している。俺は自分の仕事を続けながら、その様子を横目で見ていた。課長が鞄を持ち上げる。やがて足音が近づき、俺の席の横で止まった。
「高橋さん、私はこれで帰ります。先ほどの資料だけ、明日の午前中までに確認をお願いします」
「分かりました。お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
課長はそれだけ言って、部署の出口へ向かう。俺は顔を上げたまま、無意識にその背中を目で追ってしまった。出口のドアが開き、課長が廊下へ出ていき、少ししてドアが閉まった。
仕事が終われば、それぞれ帰る。それが普通だ。なのに、課長がいなくなった途端、妙に寂しくなってしまう。だが、自分でも、その感情が理解できなかった。
俺は最初、課長と距離が近くなることを嫌がっていた。細かいことまで指摘されるのが鬱陶しくて、もっと放っておいてくれと思ったこともある。仕事さえきちんとできれば、それ以上の関係なんて必要ないと思っていた。
それなのに今は、課長から話しかけられないことが気になって仕方がない。
俺は椅子に背中を預け、天井を見上げて考える。やはり、課長は、俺を避けている。そう考えると、胸の奥が妙に痛んだ。
翌朝、俺が出社すると、課長はまだ来ていなかった。席について仕事を始め、しばらくすると部署の入口から課長が入ってくる。俺が顔を上げると、課長もこちらへ視線を向けた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
一瞬だけ目が合う。課長はすぐに自分の席へ向かい、俺も画面へ視線を戻す。仕事は何も変わっていない。必要な会話もできる。上司と部下として、何の問題もない。それなのに、俺の中には昨日よりはっきりとした寂しさが残っていた。
課長との距離が、少しずつ遠くなっている。
そのことが、俺にはどうしても気になって仕方がなかった。
部署へ入ると、神谷課長はすでに席についていた。パソコンを起動しながら、手元の資料に目を通している。俺は自分の席へ鞄を置き、コートを椅子の背へ掛けてから課長のところへ向かった。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
いつもと変わらない挨拶。俺も軽く頭を下げて自分の席へ戻ろうとしたが、その途中で課長と目が合った。課長は一瞬だけ俺を見つめ、それから何事もなかったように視線を資料へ戻した。ほんのわずかな時間だったから、俺も気のせいだと思うことにした。朝から課長の様子を気にしても仕方がない。仕事が始まれば、それどころではなくなる。そう考えてパソコンを立ち上げ、届いていたメールを確認し始めた。それでも、胸の片隅には小さな引っかかりが残った。
午前中は忙しかった。取引先へ提出する資料の数字を確認し、担当者から上がってきた報告書に目を通す。課長からもいくつか指示があり、俺は順番に片づけていった。仕事に関しては何も変わっていない。課長は必要なところをきちんと確認し、俺が判断に迷う部分については意見を求めてくる。だからこそ、俺は余計に違和感を覚えていた。仕事の話が終わった瞬間、課長は必ず会話を切り上げる。資料について確認したあとに続いていた何気ないやり取りが、今日は一度もない。
「高橋さん、この数字ですが、先月の実績と照合してもらえますか」
「分かりました。昼までに確認しておきます」
「お願いします」
課長は資料を受け取ると、自分の席へ戻っていき、俺も画面へ視線を戻す。仕事としては、それで十分だ。なのに、課長の背中が妙に遠く感じられた。何が気になるのか、自分でも分からない。俺は余計なことを考えないよう、目の前の数字に集中することにした。
午前十一時を過ぎた頃、俺は先ほど頼まれた資料の確認を終えた。印刷したものを持って課長の席へ向かい、内容を説明する。課長は資料を受け取り、数字を確認しながら二、三個質問をした。俺が答えると、小さく頷く。
「問題ありません。ありがとうございます」
「はい」
そこで終わってしまった。俺は席へ戻ったが、どうにも落ち着かない。課長は忙しいだけなのかもしれない。祖父のこともあるし、仕事だって抱えている。俺に話しかける余裕がない日があっても不思議じゃない。そう考えているうちに昼休みの時間になった。
俺はパソコンの画面を閉じ、財布を手に取る。立ち上がって部署の出口へ向かいかけたところで、課長が椅子から立ち上がる気配がした。何となくそちらを見ると、課長も昼食へ向かう準備をしていた。机の上の書類をまとめ、パソコンをスリープ状態にしてから鞄の中へ財布を入れている。
「課長、昼食はどうします?」
「今日は外へ出ます。少し用事もありますので」
「そうですか」
「高橋さんは?」
「俺は食堂へ行きます」
「そうですか。では、午後に」
「はい」
課長は俺より先に部署を出る。俺はその後ろ姿を見送ってから、少し時間を置いて歩き出した。同じ方向へ行くと、また話をしなければならないような気がしたからだ。俺はエレベーターへ向かい、一階まで降りる。昼休みの社員で混み合うエントランスを抜け、食堂へ向かう廊下を歩いていると、少し先に課長の姿が見えた。
課長は一人ではなかった。営業部の社員と並んで歩きながら、何か話している。俺が見る限り、仕事の話をしているようだった。二人はそのまま廊下の角を曲がり、社員食堂とは反対側にある来客用のスペースへ向かっていった。俺は足を止めず、そのまま食堂へ向かう。さっき課長が言っていた「外へ出ます」という言葉を思い出す。あぁ、そういうことか。そう納得しようとしたのに、胸の奥には妙なものが残る。
午後の仕事が始まると、課長は何事もなかったように席へ戻ってきた。俺にも必要な指示を出す。質問をすれば答える。資料に問題があれば指摘する。上司としては完璧なくらい普通だった。だからこそ、俺は自分の感覚を疑った。俺が勝手に気にしているだけなんじゃないか。そう思いながら仕事を続けていると、課長が俺の席まで来た。
「高橋さん、明日の打ち合わせですが、先方から時間変更の連絡がありました」
「何時になりました?」
「午後三時です。予定を変更しておいてください」
「分かりました」
「それだけです。よろしくお願いします」
「はい」
課長はすぐに自分の席へ戻っていく。
(まただ)
俺は無意識にそう思ってしまう。必要な話だけをして、すぐに離れていく。偶然なら一度や二度で終わるはずなのに、今日は朝からずっと同じだからだ。
俺が何かしたのか。それとも、課長の身の回りで何かあったのか。考えてみても答えは出ない。仕事上のミスをした覚えもない。課長から注意を受けたわけでもない。それなのに、課長との間に見えない線が引かれているように感じる。
夕方になり、部署に残る社員が少しずつ減っていく。俺は残っていた資料をまとめながら、何度も課長の席を見そうになる自分を抑えていた。課長はまだ仕事をしている。机の上には資料が積まれ、パソコンの画面を見ながら何かを入力している。俺はそれを確認すると、なぜか少し安心した。話をする必要なんてない。ただ同じ場所にいる。それだけでいいと思っている自分に気づき、俺は戸惑った。
午後七時を過ぎた頃、課長がようやく仕事を終えたようだった。資料をまとめ、机の上を整理している。俺は自分の仕事を続けながら、その様子を横目で見ていた。課長が鞄を持ち上げる。やがて足音が近づき、俺の席の横で止まった。
「高橋さん、私はこれで帰ります。先ほどの資料だけ、明日の午前中までに確認をお願いします」
「分かりました。お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
課長はそれだけ言って、部署の出口へ向かう。俺は顔を上げたまま、無意識にその背中を目で追ってしまった。出口のドアが開き、課長が廊下へ出ていき、少ししてドアが閉まった。
仕事が終われば、それぞれ帰る。それが普通だ。なのに、課長がいなくなった途端、妙に寂しくなってしまう。だが、自分でも、その感情が理解できなかった。
俺は最初、課長と距離が近くなることを嫌がっていた。細かいことまで指摘されるのが鬱陶しくて、もっと放っておいてくれと思ったこともある。仕事さえきちんとできれば、それ以上の関係なんて必要ないと思っていた。
それなのに今は、課長から話しかけられないことが気になって仕方がない。
俺は椅子に背中を預け、天井を見上げて考える。やはり、課長は、俺を避けている。そう考えると、胸の奥が妙に痛んだ。
翌朝、俺が出社すると、課長はまだ来ていなかった。席について仕事を始め、しばらくすると部署の入口から課長が入ってくる。俺が顔を上げると、課長もこちらへ視線を向けた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
一瞬だけ目が合う。課長はすぐに自分の席へ向かい、俺も画面へ視線を戻す。仕事は何も変わっていない。必要な会話もできる。上司と部下として、何の問題もない。それなのに、俺の中には昨日よりはっきりとした寂しさが残っていた。
課長との距離が、少しずつ遠くなっている。
そのことが、俺にはどうしても気になって仕方がなかった。