嫌いだった課長と恋をするまで
第27話 何かがおかしい
会社の入っているビルへ続く歩道には、出勤する人の姿が途切れることなく続いている。俺はエレベーターを降り、いつものように部署へ入る。窓の向こうには神戸の街並みが広がり、その先には六甲の山並みが見える。自分の席へ鞄を置き、パソコンを起動してから、少し離れた課長の席へ視線を向けた。神谷課長はすでに出社していて、資料を確認している。俺と目が合うと、ほんの一瞬だけ視線が止まり、それから課長は、何もなかったように手元の資料へ目を落とした。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
俺もメールを確認し、取引先から届いた資料を開く。今日やるべきことはいくつもある。俺はチームリーダーとして担当者の進捗も確認しなければならないし、自分が受け持っている案件もある。仕事をしている間は、課長との距離なんて気にする必要はない。
そう考えていたのだが、仕事を始めて三十分もしないうちに、俺はまた課長の席を見ていた。課長はこちらを見ていない。俺が見たことに気づいた様子もない。視線を画面へ戻しながら、俺は小さく息を吐いく。
(何なんだ、この感じは)
ここ数日、ずっと同じである。仕事の話なら何も問題がない。課長は俺の判断を信用して案件を任せてくれるし、俺が提出した資料についても細かいところまで確認してくれる。チームの中で問題が起きれば俺の判断を求めることもある。今日も午前中の案件について意見を聞かれ、俺が状況を説明すると、課長はすぐに頷いてくれた。仕事の評価が下がったわけではない。それどころか、任される仕事は増えている。だから、嫌われたという線は考えにくい。それなのに、課長と俺の間にだけ、目には見えない壁ができている。雑談がなくなり、視線が減り、仕事が終われば課長は自然に俺から離れていく。その変化が、日に日に気になっていた。
「高橋さん、この案件について、先方への返答はどうしますか?」
「先方の希望は納期の確約です。ただ、今の人員では無理があります。代わりに納品を二段階に分ける案を出そうと思っています」
「分かりました。その案で進めてください。高橋さんの判断に任せます」
「ありがとうございます」
「何か問題が出たら、すぐに言ってください」
「はい」
課長はそれだけ伝えると、自分の席へ戻っていく。俺は手元の資料を見つめながら、妙な気持ちになってしまう。任せてもらえることは嬉しい。チームリーダーとして、自分の判断を信用されていることも分かっている。だからこそ、俺には分からない。仕事ではこれまで以上に信頼されているのに、どうして仕事以外では距離を置かれるんだろう。
俺が何かしたのか。
課長を怒らせるような言葉を口にしたか。
それとも、俺が気づいていないだけで、何か失礼なことをしてしまったのか。
頭の中でここ数日の会話を探ってみても、思い当たることは一つもなかった。
昼休みになると、部署の空気が少し緩む。社員たちがそれぞれ席を立ち、廊下へ出ていく。俺も財布を手にして席を立つ。ふと課長を見ると、課長はまだパソコンの画面を確認していた。声をかけようかと思ったが、やめた。最近の課長の態度を考えれば、こちらから無理に近づく必要はない。そう思って部署を出ようとしたところで、課長が顔を上げた。
「高橋さん」
「はい?」
「午後の会議資料ですが、戻ってきたら私のところへ持ってきてください」
「分かりました」
「お願いします」
「はい」
それだけだった。俺はそのまま廊下へ出た。エレベーターを待っている間も、さっきのやり取りが頭に残っていた。仕事の話しかしていない。課長もそれ以上何か言おうとした様子はなかった。俺は一階へ降り、ビルの外へ出た。昼の神戸は車の音が多く、道路の向こうにはオフィスビルが並んでいる。少し歩いてから、俺は足を止めた。何気なく空を見上げたとき、遠くに六甲の山が見えたからだ。
その瞬間、魚屋道を歩いたときの光景が頭に浮かぶ。
山道の途中で息が上がり、足が重くなって、俺は何度も立ち止まりそうになっていた。九十キロを超えた身体で普段ほとんど運動をしていないのだから、当然といえば当然だった。膝まで痛くなって、ゼェ、ハァと情けない息を吐きながら歩いていた俺を、課長は急かさなかった。先へ行こうと思えば行けたはずなのに、俺が追いつくまで待っていた。そのときの課長の横顔が、今になって鮮明に蘇ってくる。どうしてこんなことを思い出すんだ。俺は山から視線を外し、再び歩き始めた。それなのに、頭の中から課長の姿が消えてくれなかった。
午後、俺は会議資料を持って課長の席へ向かう。課長は資料を受け取り、内容を確認しながらいくつか質問をしてくる。俺が答えるたびに課長は頷き、最後まで聞き終えると資料を閉じた。
「ありがとうございます。内容は分かりました」
「ほかに確認するところはありますか?」
「今はありません」
「分かりました」
俺が席へ戻ろうとしたとき、課長が俺を呼び止めた。
「高橋さん」
「はい」
「……いえ、何でもありません」
「そうですか?」
「はい。仕事に戻ってください」
「分かりました」
俺は自分の席へ戻った。途中で一度だけ振り返ったが、課長はもう資料へ目を落としていた。あの一瞬、課長は何かを言おうとしていた。俺にはそう見えた。
だったら、どうして言わなかったんだろう。
俺は椅子に座り、画面へ向かったものの、頭の中ではさっきの課長の表情ばかりが繰り返されてしまう。避けられているだけなら、こんな顔をする必要はない。課長も何かを抱えているのだろうか。
仕事を終えて会社を出ると、空はもう夕暮れに変わっていた。駅へ向かう人の流れに混ざりながら、俺はまた課長のことを考えてしまう。
「……何なんだよ」
交差点を渡りながら、俺は小さく呟いてしまった。課長が俺を避けている理由も分からない。俺自身が、どうしてそこまで課長のことを気にしているのかも分からない。ただ、距離を置かれていることが気になるだけなら、こんなふうに一日中考え続けるはずがない。仕事の評価は変わっていない。俺が何か失敗したわけでもない。課長から嫌われた証拠もない。それなのに、課長の視線や声の調子を気にしてしまう。俺は駅の階段を下りながら、ようやく一つのことだけを認めた。課長との距離が広がることを、俺は嫌だと思っている。そこまで気づいた途端、胸の奥が大きく揺れてしまった。俺は何も答えを出せないまま、ホームへ向かう人の流れに紛れて歩き続けた。
翌朝、俺が部署へ入ると、課長はすでに席についていた。俺が挨拶をすると、課長は顔を上げてこちらを見る。視線が重なった瞬間、課長の表情がほんの少し揺れたように感じた。俺はその変化を見逃さない。課長も何かを気にしている。そんな気がした。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
課長はそれ以上何も言わず、仕事へ戻る。俺も自分の席へ座り、パソコンを立ち上げ、画面に表示されたメールを開きながら、俺は昨日から考え続けていたことをもう一度思い返してみる。
課長は俺を嫌っているわけじゃない。仕事では信頼してくれている。それなのに、俺から距離を取っている。そして俺は、その距離が広がることを嫌だと思っている。理由はまだ分からない。ただ、今まで自分の中になかった感情が、確かにそこにある。
俺はキーボードへ指を置き、頭を仕事へと切り替えることにした。隣の席から聞こえる社員の声や電話の音がいつも通りに流れていく中で、俺だけが自分の胸の奥に生まれたものを持て余していた。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
俺もメールを確認し、取引先から届いた資料を開く。今日やるべきことはいくつもある。俺はチームリーダーとして担当者の進捗も確認しなければならないし、自分が受け持っている案件もある。仕事をしている間は、課長との距離なんて気にする必要はない。
そう考えていたのだが、仕事を始めて三十分もしないうちに、俺はまた課長の席を見ていた。課長はこちらを見ていない。俺が見たことに気づいた様子もない。視線を画面へ戻しながら、俺は小さく息を吐いく。
(何なんだ、この感じは)
ここ数日、ずっと同じである。仕事の話なら何も問題がない。課長は俺の判断を信用して案件を任せてくれるし、俺が提出した資料についても細かいところまで確認してくれる。チームの中で問題が起きれば俺の判断を求めることもある。今日も午前中の案件について意見を聞かれ、俺が状況を説明すると、課長はすぐに頷いてくれた。仕事の評価が下がったわけではない。それどころか、任される仕事は増えている。だから、嫌われたという線は考えにくい。それなのに、課長と俺の間にだけ、目には見えない壁ができている。雑談がなくなり、視線が減り、仕事が終われば課長は自然に俺から離れていく。その変化が、日に日に気になっていた。
「高橋さん、この案件について、先方への返答はどうしますか?」
「先方の希望は納期の確約です。ただ、今の人員では無理があります。代わりに納品を二段階に分ける案を出そうと思っています」
「分かりました。その案で進めてください。高橋さんの判断に任せます」
「ありがとうございます」
「何か問題が出たら、すぐに言ってください」
「はい」
課長はそれだけ伝えると、自分の席へ戻っていく。俺は手元の資料を見つめながら、妙な気持ちになってしまう。任せてもらえることは嬉しい。チームリーダーとして、自分の判断を信用されていることも分かっている。だからこそ、俺には分からない。仕事ではこれまで以上に信頼されているのに、どうして仕事以外では距離を置かれるんだろう。
俺が何かしたのか。
課長を怒らせるような言葉を口にしたか。
それとも、俺が気づいていないだけで、何か失礼なことをしてしまったのか。
頭の中でここ数日の会話を探ってみても、思い当たることは一つもなかった。
昼休みになると、部署の空気が少し緩む。社員たちがそれぞれ席を立ち、廊下へ出ていく。俺も財布を手にして席を立つ。ふと課長を見ると、課長はまだパソコンの画面を確認していた。声をかけようかと思ったが、やめた。最近の課長の態度を考えれば、こちらから無理に近づく必要はない。そう思って部署を出ようとしたところで、課長が顔を上げた。
「高橋さん」
「はい?」
「午後の会議資料ですが、戻ってきたら私のところへ持ってきてください」
「分かりました」
「お願いします」
「はい」
それだけだった。俺はそのまま廊下へ出た。エレベーターを待っている間も、さっきのやり取りが頭に残っていた。仕事の話しかしていない。課長もそれ以上何か言おうとした様子はなかった。俺は一階へ降り、ビルの外へ出た。昼の神戸は車の音が多く、道路の向こうにはオフィスビルが並んでいる。少し歩いてから、俺は足を止めた。何気なく空を見上げたとき、遠くに六甲の山が見えたからだ。
その瞬間、魚屋道を歩いたときの光景が頭に浮かぶ。
山道の途中で息が上がり、足が重くなって、俺は何度も立ち止まりそうになっていた。九十キロを超えた身体で普段ほとんど運動をしていないのだから、当然といえば当然だった。膝まで痛くなって、ゼェ、ハァと情けない息を吐きながら歩いていた俺を、課長は急かさなかった。先へ行こうと思えば行けたはずなのに、俺が追いつくまで待っていた。そのときの課長の横顔が、今になって鮮明に蘇ってくる。どうしてこんなことを思い出すんだ。俺は山から視線を外し、再び歩き始めた。それなのに、頭の中から課長の姿が消えてくれなかった。
午後、俺は会議資料を持って課長の席へ向かう。課長は資料を受け取り、内容を確認しながらいくつか質問をしてくる。俺が答えるたびに課長は頷き、最後まで聞き終えると資料を閉じた。
「ありがとうございます。内容は分かりました」
「ほかに確認するところはありますか?」
「今はありません」
「分かりました」
俺が席へ戻ろうとしたとき、課長が俺を呼び止めた。
「高橋さん」
「はい」
「……いえ、何でもありません」
「そうですか?」
「はい。仕事に戻ってください」
「分かりました」
俺は自分の席へ戻った。途中で一度だけ振り返ったが、課長はもう資料へ目を落としていた。あの一瞬、課長は何かを言おうとしていた。俺にはそう見えた。
だったら、どうして言わなかったんだろう。
俺は椅子に座り、画面へ向かったものの、頭の中ではさっきの課長の表情ばかりが繰り返されてしまう。避けられているだけなら、こんな顔をする必要はない。課長も何かを抱えているのだろうか。
仕事を終えて会社を出ると、空はもう夕暮れに変わっていた。駅へ向かう人の流れに混ざりながら、俺はまた課長のことを考えてしまう。
「……何なんだよ」
交差点を渡りながら、俺は小さく呟いてしまった。課長が俺を避けている理由も分からない。俺自身が、どうしてそこまで課長のことを気にしているのかも分からない。ただ、距離を置かれていることが気になるだけなら、こんなふうに一日中考え続けるはずがない。仕事の評価は変わっていない。俺が何か失敗したわけでもない。課長から嫌われた証拠もない。それなのに、課長の視線や声の調子を気にしてしまう。俺は駅の階段を下りながら、ようやく一つのことだけを認めた。課長との距離が広がることを、俺は嫌だと思っている。そこまで気づいた途端、胸の奥が大きく揺れてしまった。俺は何も答えを出せないまま、ホームへ向かう人の流れに紛れて歩き続けた。
翌朝、俺が部署へ入ると、課長はすでに席についていた。俺が挨拶をすると、課長は顔を上げてこちらを見る。視線が重なった瞬間、課長の表情がほんの少し揺れたように感じた。俺はその変化を見逃さない。課長も何かを気にしている。そんな気がした。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
課長はそれ以上何も言わず、仕事へ戻る。俺も自分の席へ座り、パソコンを立ち上げ、画面に表示されたメールを開きながら、俺は昨日から考え続けていたことをもう一度思い返してみる。
課長は俺を嫌っているわけじゃない。仕事では信頼してくれている。それなのに、俺から距離を取っている。そして俺は、その距離が広がることを嫌だと思っている。理由はまだ分からない。ただ、今まで自分の中になかった感情が、確かにそこにある。
俺はキーボードへ指を置き、頭を仕事へと切り替えることにした。隣の席から聞こえる社員の声や電話の音がいつも通りに流れていく中で、俺だけが自分の胸の奥に生まれたものを持て余していた。