嫌いだった課長と恋をするまで
第28話 本社から来た男
午後一時を少し回った頃、フロアの入口に見慣れない男が立っていた。昼休みが終わって間もないせいか、席へ戻ってきた社員がまだ何人か行き交っていて、その男も受付でもらった入館証を確認しながら、誰かを探すように視線を動かしている。
三十代前半くらいだろうか。濃紺のスーツに白いシャツ、細身の鞄を片手に持っていて、いかにも仕事のできる人間という雰囲気だった。
俺はパソコンに向かったまま気にしないつもりでいたが、男の視線がフロアの奥で止まったことで、自然とそちらへ目が向く。男の先にいたのは、神谷課長だった。課長は席を立つと、こちらへ歩いてくる男を見て、ほんの少し表情を緩めた。
「神谷さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。わざわざ神戸まで来てもらって、ありがとうございます」
男は課長の前で足を止め、笑いながら頭を下げ、課長も軽く会釈を返している。俺は資料へ視線を戻そうとしたが、指先が紙の端を押さえたまま動かなかった。
普段、課長が誰かと話す姿を見ても何も感じない。仕事の相手なら必要な話をして、終われば席へ戻る。それが課長という人だと思っていた。
ところが、今の二人は少し違って見える。親しげに肩を並べているわけでもないし、仕事を忘れて雑談しているわけでもない。それでも、男が話すたびに課長の口元がわずかに緩み、返事にも普段より柔らかい響きがある。俺が知っている課長の姿と重なるようで、どこか重ならない。その違いが何なのか考える前に、隣の席から小川の声が飛んできた。
「高橋さん、あの人、本社の人ですよね?」
「たぶんそうだと思う。俺は聞いてないけど」
「さっき課長のところに電話が入ってましたよ。東京から誰か来るって」
「そうなのか」
「神谷課長、東京にいた頃の知り合いじゃないですか?」
「まぁ、本社にいたんだから、知ってる人くらいいるだろ」
そう答えて、俺は資料をめくる。小川はそれ以上何も言わず、自分の仕事へ戻っていった。俺も画面に表示された数字を追ったが、さっきの男の声が妙に耳に残っていた。
「神谷さん」と呼んでいた。会社では課長と部下という関係しか知らない俺には、その呼び方が少し新鮮に聞こえた。東京で仕事をしていた頃なら、あの男と課長は今より近い場所で働いていたのだろう。俺の知らない仕事があり、俺の知らない人間関係があり、そこで課長がどんな顔をしていたのかも、俺には分からない。そんな当たり前のことを、今さら意識してしまった。
「高橋さん」
顔を上げると、課長が俺の席の横に立っていた。いつの間に来たのか分からない。手には会議資料が数枚あり、表紙には本社の部署名が印刷されている。
「三十分後に会議室へお願いします。松本さんも参加します」
「松本さん?」
「さっきの方です。本社の営業企画にいる松本さんです」
「あぁ、分かりました」
「それと、今担当している案件について、先月の数字を確認しておいてください。松本さんから質問が出るかもしれません」
「了解しました」
課長はそれだけ伝えると、自分の席へ戻ろうとした。ところが二歩ほど進んだところで足を止め、振り返る。
「高橋さん」
「はい?」
「……いえ。会議室で話します」
「分かりました」
課長はそのまま歩いていった。俺は背中を見送りながら、手元の資料へ視線を落とした。今の呼び止め方に、何か特別な意味があったのかと考えたが、すぐに仕事の話だと片づけた。課長が俺に用件を伝えるのは珍しくない。俺が余計なことを考える必要はない。そう考えて資料を確認していると、フロアの奥から松本という男の声が聞こえてきた。
「神谷さん、こちらの部署でもかなり忙しそうですね」
「人が少ないので、今は少し大変です」
「東京にいた頃より忙しいんじゃないですか?」
「そうかもしれません。でも、こちらにも優秀な人がいますから」
そこまで聞いて、俺の手が止まった。課長の声がこちらまで届いたのは、二人が俺の席からそれほど離れていなかったからだ。顔を上げると、松本が笑いながら課長の方を見ている。その横で課長も穏やかな表情を浮かべていた。俺は二人から目を逸らし、資料に視線を戻した。
しばらくして会議の時間になり、俺は資料を抱えて会議室へ向かった。扉を開けると、すでに課長と松本が席についている。松本は俺を見ると立ち上がり、こちらへ手を差し出した。
「改めまして、高橋さん。松本です。神谷さんから話は聞いています」
「高橋です。よろしくお願いします」
「東京にいた頃から、神谷さんがよく名前を出していたんですよ」
「私の名前を?」
「ええ。神戸のチームに面白い人がいるって」
「そうなんですか」
「仕事の話ですよ。案件の進め方がうまいとか、客先との調整が早いとか」
松本は笑いながら言い、俺も曖昧に笑って席につく。向かい側では課長が資料を開いている。こちらを見ていた視線が、俺と目が合った途端に紙へ落ちた。
「では、始めましょうか」
課長の声で会議が始まった。俺も資料を開き、担当案件の説明を続ける。松本からいくつか質問が出たが、どれも仕事に関する内容だった。俺が答えると、課長が補足を入れる。三人で話しているうちに、会議はいつもの仕事と変わらないものになっていった。
それでも、頭の片隅から離れないことがあった。松本は俺の知らない課長を知っている。東京で働いていた頃の課長と一緒に仕事をして、その頃の話を普通に口にできる。俺が神谷課長と出会ったのは、課長が神戸へ来てからだ。だから当然、俺には知らない時間がある。それだけの話なのに、松本が課長の名前を呼ぶたび、その距離の近さが妙に目についた。
会議が終わり、松本が資料をまとめている間に、課長が俺へ声をかけた。
「高橋さん、今日の説明、助かりました」
「いえ。松本さんが聞きたいことは、だいたい答えられたと思います」
「そうですね。……また、お願いします」
俺を見る目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「はい」
課長は先に会議室を出ていき、松本も続いて廊下へ出る。俺は最後に資料をまとめながら、二人の後ろ姿を見た。廊下の角を曲がる直前、松本が何か話しかけ、課長が振り返って笑っている。その表情を見て、俺は手にした資料を閉じた。
理由はまだ分からない。
ただ、今日まで知らなかった課長の一面を見たことで、俺の中に小さな引っかかりが残っていた。その引っかかりが、仕事のことだけではないように思えたのは、会議室を出て自分の席へ戻ってからだった。
三十代前半くらいだろうか。濃紺のスーツに白いシャツ、細身の鞄を片手に持っていて、いかにも仕事のできる人間という雰囲気だった。
俺はパソコンに向かったまま気にしないつもりでいたが、男の視線がフロアの奥で止まったことで、自然とそちらへ目が向く。男の先にいたのは、神谷課長だった。課長は席を立つと、こちらへ歩いてくる男を見て、ほんの少し表情を緩めた。
「神谷さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。わざわざ神戸まで来てもらって、ありがとうございます」
男は課長の前で足を止め、笑いながら頭を下げ、課長も軽く会釈を返している。俺は資料へ視線を戻そうとしたが、指先が紙の端を押さえたまま動かなかった。
普段、課長が誰かと話す姿を見ても何も感じない。仕事の相手なら必要な話をして、終われば席へ戻る。それが課長という人だと思っていた。
ところが、今の二人は少し違って見える。親しげに肩を並べているわけでもないし、仕事を忘れて雑談しているわけでもない。それでも、男が話すたびに課長の口元がわずかに緩み、返事にも普段より柔らかい響きがある。俺が知っている課長の姿と重なるようで、どこか重ならない。その違いが何なのか考える前に、隣の席から小川の声が飛んできた。
「高橋さん、あの人、本社の人ですよね?」
「たぶんそうだと思う。俺は聞いてないけど」
「さっき課長のところに電話が入ってましたよ。東京から誰か来るって」
「そうなのか」
「神谷課長、東京にいた頃の知り合いじゃないですか?」
「まぁ、本社にいたんだから、知ってる人くらいいるだろ」
そう答えて、俺は資料をめくる。小川はそれ以上何も言わず、自分の仕事へ戻っていった。俺も画面に表示された数字を追ったが、さっきの男の声が妙に耳に残っていた。
「神谷さん」と呼んでいた。会社では課長と部下という関係しか知らない俺には、その呼び方が少し新鮮に聞こえた。東京で仕事をしていた頃なら、あの男と課長は今より近い場所で働いていたのだろう。俺の知らない仕事があり、俺の知らない人間関係があり、そこで課長がどんな顔をしていたのかも、俺には分からない。そんな当たり前のことを、今さら意識してしまった。
「高橋さん」
顔を上げると、課長が俺の席の横に立っていた。いつの間に来たのか分からない。手には会議資料が数枚あり、表紙には本社の部署名が印刷されている。
「三十分後に会議室へお願いします。松本さんも参加します」
「松本さん?」
「さっきの方です。本社の営業企画にいる松本さんです」
「あぁ、分かりました」
「それと、今担当している案件について、先月の数字を確認しておいてください。松本さんから質問が出るかもしれません」
「了解しました」
課長はそれだけ伝えると、自分の席へ戻ろうとした。ところが二歩ほど進んだところで足を止め、振り返る。
「高橋さん」
「はい?」
「……いえ。会議室で話します」
「分かりました」
課長はそのまま歩いていった。俺は背中を見送りながら、手元の資料へ視線を落とした。今の呼び止め方に、何か特別な意味があったのかと考えたが、すぐに仕事の話だと片づけた。課長が俺に用件を伝えるのは珍しくない。俺が余計なことを考える必要はない。そう考えて資料を確認していると、フロアの奥から松本という男の声が聞こえてきた。
「神谷さん、こちらの部署でもかなり忙しそうですね」
「人が少ないので、今は少し大変です」
「東京にいた頃より忙しいんじゃないですか?」
「そうかもしれません。でも、こちらにも優秀な人がいますから」
そこまで聞いて、俺の手が止まった。課長の声がこちらまで届いたのは、二人が俺の席からそれほど離れていなかったからだ。顔を上げると、松本が笑いながら課長の方を見ている。その横で課長も穏やかな表情を浮かべていた。俺は二人から目を逸らし、資料に視線を戻した。
しばらくして会議の時間になり、俺は資料を抱えて会議室へ向かった。扉を開けると、すでに課長と松本が席についている。松本は俺を見ると立ち上がり、こちらへ手を差し出した。
「改めまして、高橋さん。松本です。神谷さんから話は聞いています」
「高橋です。よろしくお願いします」
「東京にいた頃から、神谷さんがよく名前を出していたんですよ」
「私の名前を?」
「ええ。神戸のチームに面白い人がいるって」
「そうなんですか」
「仕事の話ですよ。案件の進め方がうまいとか、客先との調整が早いとか」
松本は笑いながら言い、俺も曖昧に笑って席につく。向かい側では課長が資料を開いている。こちらを見ていた視線が、俺と目が合った途端に紙へ落ちた。
「では、始めましょうか」
課長の声で会議が始まった。俺も資料を開き、担当案件の説明を続ける。松本からいくつか質問が出たが、どれも仕事に関する内容だった。俺が答えると、課長が補足を入れる。三人で話しているうちに、会議はいつもの仕事と変わらないものになっていった。
それでも、頭の片隅から離れないことがあった。松本は俺の知らない課長を知っている。東京で働いていた頃の課長と一緒に仕事をして、その頃の話を普通に口にできる。俺が神谷課長と出会ったのは、課長が神戸へ来てからだ。だから当然、俺には知らない時間がある。それだけの話なのに、松本が課長の名前を呼ぶたび、その距離の近さが妙に目についた。
会議が終わり、松本が資料をまとめている間に、課長が俺へ声をかけた。
「高橋さん、今日の説明、助かりました」
「いえ。松本さんが聞きたいことは、だいたい答えられたと思います」
「そうですね。……また、お願いします」
俺を見る目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「はい」
課長は先に会議室を出ていき、松本も続いて廊下へ出る。俺は最後に資料をまとめながら、二人の後ろ姿を見た。廊下の角を曲がる直前、松本が何か話しかけ、課長が振り返って笑っている。その表情を見て、俺は手にした資料を閉じた。
理由はまだ分からない。
ただ、今日まで知らなかった課長の一面を見たことで、俺の中に小さな引っかかりが残っていた。その引っかかりが、仕事のことだけではないように思えたのは、会議室を出て自分の席へ戻ってからだった。