嫌いだった課長と恋をするまで
第29話 初めて感じた嫉妬
翌日の昼休み、午前中に届いた客先からの問い合わせを片づけて、俺はようやく椅子から立ち上がる。昼飯を買いに出ようとしたところで、フロアの入口から課長の声が聞こえる。振り向くと、昨日から来ている松本さんが課長に何か資料を渡していた。本社へ提出する書類の確認でもしているのだろう。二人とも手元の資料を見ながら話していて、仕事の続きをしているようにしか見えない。それなのに、松本さんが何か言った瞬間、課長の口元がふっと緩んだ。声を立てて笑ったわけではない。ただ、普段なら仕事の話をしているときに見せない柔らかな表情だった。
俺は財布を手にしたまま、その場で動けなくなってしまう。課長が笑うこと自体は珍しくない。俺だって何度か見ている。なのに、今の笑顔は、自分が知っているものとは少し違って見えた。
「高橋さん、昼行かないんですか?」
小川に呼ばれて、俺はようやく我に返った。
「あぁ、行く。今から」
「課長、松本さんと打ち合わせですかね」
「たぶん本社の仕事だろ」
「そうですよね。昨日も一緒に会議してましたし」
小川は何気なく言って、そのまま入口へ向かった。俺も後を追ったが、エレベーターへ向かう途中で、また課長の方を見てしまった。松本さんは資料を指差しながら何か説明していて、課長はそれを聞いている。二人の間に特別な雰囲気があるわけではない。距離も普通だし、話している内容だって仕事だろう。それでも、俺の視線はなかなか離れなかった。東京にいた頃の課長を知っている人間と、神戸へ来てからの課長しか知らない俺。その違いを意識した途端、今まで気にも留めなかったものが気になり始めた。
昼食を済ませて会社へ戻ると、ちょうど課長と松本さんがエレベーターから降りてくるところだった。どうやら昼食を取りながら、近くの店で本社との打ち合わせを続けていたらしい。俺は二人とすれ違うだけのつもりだったが、課長が俺に気づいて足を止めた。
「高橋さん、もう食事は済みましたか?」
「はい。今、戻ってきたところです」
「そうですか」
課長はそう答えたあと、なぜか一瞬だけ俺の顔を見る。しかし、その視線がすぐに松本さんへ戻る。松本さんは俺たちのやり取りを気にした様子もなく、手にした資料を確認していた。
「神谷さん、この数字だけ確認してもらえますか」
「はい。席に戻ったら見ます」
「お願いします」
「こちらこそ、ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げて、その場を離れた。数歩進んだところで、後ろを振り返りそうになったが、やめた。自分自身、何を確認したいのか、自分でも分からない。二人がまだ話しているか見たいだけなのか、それとも課長が俺を見ていた理由を知りたいのか。どちらにしても、俺が気にすることではない。そう考えて席へ戻ったのに、パソコンを開いてからも、さっきの課長の視線が頭から離れなかった。
午後の仕事は忙しかった。取引先へ送る資料を修正し、チームのメンバーから上がってきた確認事項に返事をして、夕方には客先との電話も入った。仕事をしている間は考えずに済むと思っていたが、フロアの奥から松本さんの声が聞こえるたび、耳がそちらへ向いてしまう。俺が担当している案件について課長と話しているだけなのは分かっている。実際、会話の内容を聞けば、数字や今後の進め方について話しているだけだ。それでも、俺は画面へ向けていた目を何度も上げてしまった。二人が話している姿を見るたび、胸のあたりに小さな違和感が残る。仕事の邪魔になるほどではない。だからこそ、自分で理由をつけにくかった。
「高橋さん」
小川に呼ばれて顔を上げる。
「さっきから、課長の方をよく見てません?」
「……そうか?」
「見てますよ。三回くらい」
「数えてたのかよ」
「たまたまです。何か気になることでもあるんですか?」
「別に。松本さんが来てるから、どんな仕事してるのかなと思っただけ」
「なるほど」
小川はそれ以上追及しなかった。俺も仕事へ戻ったが、自分で口にした言葉が妙に引っかかった。松本さんがどんな仕事をしているのか知りたいわけではない。課長が何を話しているのかが気になっている。そう認めると、途端に説明がつかなくなった。俺は課長の部下だ。仕事で必要なことなら聞けばいい。それなのに、わざわざ離れた席から様子を見ている。そんな自分が少しおかしいことくらい、分かっていた。
夕方になると、松本さんが帰る準備を始める。俺は自分の仕事を続けながら、二人の会話を聞いていた。
「今日はありがとうございました。予定していた確認も全部できました」
「こちらこそ助かりました。明日の本社への報告は私から入れておきます」
「お願いします。神戸での状況も分かりましたし、こちらでも調整しておきます」
「よろしくお願いします」
そこに余計な言葉はなかった。松本さんは最後まで仕事の話をして、課長も同じように応じている。俺が勝手に意識していただけだ。そう思った瞬間、少しだけ気持ちが軽くなる。ところが、松本さんがエレベーターへ向かい、課長が見送るために後ろを歩き始めたところで、また目が追ってしまう。課長は入口まで行き、松本さんと二、三言葉を交わした。松本さんが頭を下げてエレベーターに乗り、扉が閉まる。課長はその場で一度だけ扉を見てから、ゆっくりこちらへ戻ってきた。
俺は無理やり画面へ視線を戻す。しばらくして、課長が近づいてくる気配がし、自分の席の横を通り過ぎると思っていたのに、課長は俺のところで足を止めた。
「高橋さん」
「はい」
「今日は、少し忙しそうでしたね」
「そうですね。午前中に問い合わせが重なったので」
「無理はしないでください」
「課長に言われると、説得力ありますね」
軽く返すと、課長の表情が少し緩んだ。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
「……そうですか」
課長は小さく笑った。それから何か言おうとして、口を閉じた。俺も待ったが、課長は結局、
「では、残りもお願いします」
とだけ言って自分の席へ戻っていった。
俺はしばらく画面を見つめていた。さっきまで引っかかっていたものとは、少し違う感覚だった。課長と話すこと自体はいつものことなのに、今日は妙に嬉しかった。松本さんと話しているときの課長を見て嫌な気分になったのに、自分と話したときに笑ってくれたことには、素直に嬉しいと思った。
そこで、ようやく分かった。
俺が気にしていたのは、松本さんじゃない。
課長が、自分の知らない誰かと楽しそうにしていることだった。自分の知らない場所で、自分の知らない課長がいる。そのことが、思っていた以上に面白くなかった。そして、自分と話したときの課長の表情を見て安心した。
そこまで考えたところで、俺は椅子の背にもたれて上を向く。
「……俺、何やってんだ」
声に出してしまってから、慌てて周囲を見回す。幸い、誰もこちらを見ていなかったのが助かった。今までなら、課長が誰と話していても気にしなかった。課長が誰と昼食を取ろうが、どんな相手と昔の仕事の話をしようが、俺には関係のないことだったはずだ。
なのに今は違う。
課長が自分以外の人と笑っている姿を見て、面白くないと思ってしまった。
自分と話しているときには、もっと笑っていてほしいと思った。
それを認めるのは、思っていたより恥ずかしい。
俺はもう一度画面へ目を向ける。数字はきちんと並んでいる。やるべき仕事も残っている。それなのに、さっき課長が見せた笑顔が頭に残っていた。
これが何なのか、もう誤魔化すことはできなかった。俺は課長を、ただの上司として見ているわけじゃない。その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなってくる。
そして、少し離れた席で仕事をしている課長が、ふいにこちらを見た。
目が合う。
課長は何も言わず、すぐに手元の資料へ視線を戻した。
俺も画面へ向き直る。
ただ、今度はもう、目を逸らした理由を仕事のせいにはできなかった。
俺は財布を手にしたまま、その場で動けなくなってしまう。課長が笑うこと自体は珍しくない。俺だって何度か見ている。なのに、今の笑顔は、自分が知っているものとは少し違って見えた。
「高橋さん、昼行かないんですか?」
小川に呼ばれて、俺はようやく我に返った。
「あぁ、行く。今から」
「課長、松本さんと打ち合わせですかね」
「たぶん本社の仕事だろ」
「そうですよね。昨日も一緒に会議してましたし」
小川は何気なく言って、そのまま入口へ向かった。俺も後を追ったが、エレベーターへ向かう途中で、また課長の方を見てしまった。松本さんは資料を指差しながら何か説明していて、課長はそれを聞いている。二人の間に特別な雰囲気があるわけではない。距離も普通だし、話している内容だって仕事だろう。それでも、俺の視線はなかなか離れなかった。東京にいた頃の課長を知っている人間と、神戸へ来てからの課長しか知らない俺。その違いを意識した途端、今まで気にも留めなかったものが気になり始めた。
昼食を済ませて会社へ戻ると、ちょうど課長と松本さんがエレベーターから降りてくるところだった。どうやら昼食を取りながら、近くの店で本社との打ち合わせを続けていたらしい。俺は二人とすれ違うだけのつもりだったが、課長が俺に気づいて足を止めた。
「高橋さん、もう食事は済みましたか?」
「はい。今、戻ってきたところです」
「そうですか」
課長はそう答えたあと、なぜか一瞬だけ俺の顔を見る。しかし、その視線がすぐに松本さんへ戻る。松本さんは俺たちのやり取りを気にした様子もなく、手にした資料を確認していた。
「神谷さん、この数字だけ確認してもらえますか」
「はい。席に戻ったら見ます」
「お願いします」
「こちらこそ、ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げて、その場を離れた。数歩進んだところで、後ろを振り返りそうになったが、やめた。自分自身、何を確認したいのか、自分でも分からない。二人がまだ話しているか見たいだけなのか、それとも課長が俺を見ていた理由を知りたいのか。どちらにしても、俺が気にすることではない。そう考えて席へ戻ったのに、パソコンを開いてからも、さっきの課長の視線が頭から離れなかった。
午後の仕事は忙しかった。取引先へ送る資料を修正し、チームのメンバーから上がってきた確認事項に返事をして、夕方には客先との電話も入った。仕事をしている間は考えずに済むと思っていたが、フロアの奥から松本さんの声が聞こえるたび、耳がそちらへ向いてしまう。俺が担当している案件について課長と話しているだけなのは分かっている。実際、会話の内容を聞けば、数字や今後の進め方について話しているだけだ。それでも、俺は画面へ向けていた目を何度も上げてしまった。二人が話している姿を見るたび、胸のあたりに小さな違和感が残る。仕事の邪魔になるほどではない。だからこそ、自分で理由をつけにくかった。
「高橋さん」
小川に呼ばれて顔を上げる。
「さっきから、課長の方をよく見てません?」
「……そうか?」
「見てますよ。三回くらい」
「数えてたのかよ」
「たまたまです。何か気になることでもあるんですか?」
「別に。松本さんが来てるから、どんな仕事してるのかなと思っただけ」
「なるほど」
小川はそれ以上追及しなかった。俺も仕事へ戻ったが、自分で口にした言葉が妙に引っかかった。松本さんがどんな仕事をしているのか知りたいわけではない。課長が何を話しているのかが気になっている。そう認めると、途端に説明がつかなくなった。俺は課長の部下だ。仕事で必要なことなら聞けばいい。それなのに、わざわざ離れた席から様子を見ている。そんな自分が少しおかしいことくらい、分かっていた。
夕方になると、松本さんが帰る準備を始める。俺は自分の仕事を続けながら、二人の会話を聞いていた。
「今日はありがとうございました。予定していた確認も全部できました」
「こちらこそ助かりました。明日の本社への報告は私から入れておきます」
「お願いします。神戸での状況も分かりましたし、こちらでも調整しておきます」
「よろしくお願いします」
そこに余計な言葉はなかった。松本さんは最後まで仕事の話をして、課長も同じように応じている。俺が勝手に意識していただけだ。そう思った瞬間、少しだけ気持ちが軽くなる。ところが、松本さんがエレベーターへ向かい、課長が見送るために後ろを歩き始めたところで、また目が追ってしまう。課長は入口まで行き、松本さんと二、三言葉を交わした。松本さんが頭を下げてエレベーターに乗り、扉が閉まる。課長はその場で一度だけ扉を見てから、ゆっくりこちらへ戻ってきた。
俺は無理やり画面へ視線を戻す。しばらくして、課長が近づいてくる気配がし、自分の席の横を通り過ぎると思っていたのに、課長は俺のところで足を止めた。
「高橋さん」
「はい」
「今日は、少し忙しそうでしたね」
「そうですね。午前中に問い合わせが重なったので」
「無理はしないでください」
「課長に言われると、説得力ありますね」
軽く返すと、課長の表情が少し緩んだ。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
「……そうですか」
課長は小さく笑った。それから何か言おうとして、口を閉じた。俺も待ったが、課長は結局、
「では、残りもお願いします」
とだけ言って自分の席へ戻っていった。
俺はしばらく画面を見つめていた。さっきまで引っかかっていたものとは、少し違う感覚だった。課長と話すこと自体はいつものことなのに、今日は妙に嬉しかった。松本さんと話しているときの課長を見て嫌な気分になったのに、自分と話したときに笑ってくれたことには、素直に嬉しいと思った。
そこで、ようやく分かった。
俺が気にしていたのは、松本さんじゃない。
課長が、自分の知らない誰かと楽しそうにしていることだった。自分の知らない場所で、自分の知らない課長がいる。そのことが、思っていた以上に面白くなかった。そして、自分と話したときの課長の表情を見て安心した。
そこまで考えたところで、俺は椅子の背にもたれて上を向く。
「……俺、何やってんだ」
声に出してしまってから、慌てて周囲を見回す。幸い、誰もこちらを見ていなかったのが助かった。今までなら、課長が誰と話していても気にしなかった。課長が誰と昼食を取ろうが、どんな相手と昔の仕事の話をしようが、俺には関係のないことだったはずだ。
なのに今は違う。
課長が自分以外の人と笑っている姿を見て、面白くないと思ってしまった。
自分と話しているときには、もっと笑っていてほしいと思った。
それを認めるのは、思っていたより恥ずかしい。
俺はもう一度画面へ目を向ける。数字はきちんと並んでいる。やるべき仕事も残っている。それなのに、さっき課長が見せた笑顔が頭に残っていた。
これが何なのか、もう誤魔化すことはできなかった。俺は課長を、ただの上司として見ているわけじゃない。その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなってくる。
そして、少し離れた席で仕事をしている課長が、ふいにこちらを見た。
目が合う。
課長は何も言わず、すぐに手元の資料へ視線を戻した。
俺も画面へ向き直る。
ただ、今度はもう、目を逸らした理由を仕事のせいにはできなかった。