嫌いだった課長と恋をするまで
第30話 どうしてこんなに気になる ~美月視点~
高橋さんと目が合いそうになるたび、私は無意識に視線を外していた。
朝、出社してパソコンを開いたときもそうだった。いつものように仕事を始めようと画面へ目を向けていたのに、向かいの席に座る高橋さんが出社してくる気配を感じると、私は顔を上げてしまった。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
それだけなのに、胸の奥が妙にうるさくなる。私はすぐに画面へ視線を戻し、届いたメールを開く。仕事をしなければならない。今までなら、それで気持ちは切り替わっていたはずだった。それなのに今日は、画面に並んだ文字を追いながらも、さっき見えた高橋さんの顔が頭から消えなかった。私は自分の手元へ視線を落とし、静かに息を吐いた。最近の私は、明らかにおかしい。
高橋さんを意識するようになった理由なら、分かっている。最初は、体重のことだった。九十キロを超えているのに運動もしない。食生活も気にしない。仕事ができるからといって、自分の身体まで雑に扱っていい理由にはならない。そう思っていたし、本人にも何度か厳しく言った。ところが、一緒に仕事をする時間が増えるにつれて、私が見ていたものが一部分だけだったと分かった。
取引先との話では相手の事情をすぐに読み取り、誰かが困っていれば自然に手を貸す。自分のことには驚くほど無頓着なのに、人のことになると細かいところまで見ている。魚屋道を歩いた日も、苦しそうに息をしながら私の荷物を気にしていた。自分の膝が痛いはずなのに、私が先へ進めるように何度も大丈夫だと言った。あの日から、高橋さんを見るたびに、以前とは違う感情が胸に生まれるようになった。
だから、距離を取ることにしたのだ。高橋さんに何か問題があるからではない。むしろ反対だった。高橋さんと一緒にいると、私は自分でも驚くほど安心してしまう。何かを任せても大丈夫だと思える。自分一人で抱え込まなくても、この人なら支えてくれると思ってしまう。その感覚が怖かった。私は人に頼ることを避けてきた。頼れば、その人がいなくなったときに自分がどうなるのか分からないからだ。祖父のことも、自分の仕事も、これまで一人で抱えてきた。そんな私が、よりによって部下である高橋さんに安心を求め始めている。それを自覚したとき、私は今まで通りに接することができなくなった。課長と部下という関係を守るためにも、私のほうから線を引かなければならないのだと思ったのだ。
「高橋さん、この資料を確認してもらえますか?」
「はい。どこを見ればいいですか?」
「先方から追加された条件です。昨日の打ち合わせに出ていた部分なので、現場として問題がないか確認してください」
「分かりました」
仕事の会話なら、今まで通りにできる。私はそう思っていた。高橋さんが資料を受け取り、内容を確認している間も、私は必要な説明だけを続ける。ところが、顔を上げた高橋さんと目が合った瞬間、胸が跳ねてしまう。私は反射的に視線を資料へ落とす。高橋さんが何か不思議そうにしている気配がする。それを感じながらも、私は顔を上げられなかった。こんなことで動揺していると知られたくない。高橋さんに余計なことを考えさせたくもない。私は資料の文字を指で追いながら、できるだけ平静な声を作る。
「問題なければ、私のところへ戻してください」
「はい。今日中に確認します」
「お願いします」
高橋さんが席へ戻っていく。私はその背中を見送らないようにした。見れば、また追ってしまう気がしたからだ。自分から距離を取ったのに、姿が見えなくなると気になってしまう。仕事に集中しようとしても、さっき目が合った瞬間の高橋さんの表情が頭に残っている。
私は小さく首を振り、パソコンへ向き直る。今までなら、こんなことで仕事が乱れることはなかったはずだ。自分の感情と仕事を切り離すことくらい、できていたはずだった。それなのに、高橋さんに関することだけは、どうしても思い通りにならない。
昼を過ぎ、午後の打ち合わせが終わったあと、高橋さんが私のところへ資料を持ってきた。私は顔を上げる前から、高橋さんだと分かっていた。足音だけで分かるようになっている自分に気づき、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
「課長、確認が終わりました」
「ありがとうございます。こちらへお願いします」
「先方が気にしているのは納期だと思います。価格については、昨日の話で納得しているようでした」
「私も同じ認識です。では、先方への回答はその方向で進めます」
「はい」
高橋さんが資料を差し出す。私は受け取るために手を伸ばした。その瞬間、指先が触れそうになり、私はほんの少し手を引いた。高橋さんが気づいたかどうかは分からない。ただ、私は自分の行動に驚いていた。触れたわけでもないのに、まるで触れてはいけないものから逃げたようだった。高橋さんが資料を離すと、私はそれを受け取った。
「助かりました」
「いえ。俺の担当ですから」
そう言って高橋さんが笑い、私はその笑顔を見てしまった。以前なら、つられて私も笑っていたかもしれない。
だけど、今は違う。笑顔を返したら、自分の気持ちが顔に出てしまいそうで、私は資料へ目を落とした。
「……ありがとうございます」
「課長?」
「いえ。何でもありません」
高橋さんが少しだけ首を傾げた。それ以上何も聞かず、自分の席へ戻っていく。その姿を見ながら、私は自分の態度が不自然だったことを分かっていた。それでも、どうすることもできない。高橋さんが近くにいると、心が勝手に反応してしまう。話したいのに、話せない。顔を見たいのに、目を合わせられない。離れようとするほど、気持ちだけが高橋さんへ向いてしまう。
夕方、仕事が一段落してフロアが少し静かになったころ、私はパソコンの画面を見つめながら、今日一日のことを振り返っていた。高橋さんとは何度も話した。それなのに、以前より遠く感じる。私がそうしているからだ。必要な仕事だけを話し、それ以外の時間を避けている。高橋さんに原因があるわけではない。私が勝手に距離を作っている。なのに、その距離ができるほど、高橋さんが何をしているのか気になってしまう。
誰かと話していれば視線が向く。
席を立てばどこへ行くのか気になる。
声が聞こえれば、無意識にその方向を見てしまう。
私はそこでようやく、自分が何をしているのかを認めざるを得なくなった。
私は、高橋さんを避けているのではない。高橋さんを好きになってしまうことを、怖がっている。
そう認めた瞬間、胸の奥が苦しくなった。課長と部下なのだから、簡単に気持ちを進めていい関係ではない。私が一歩間違えれば、高橋さんまで困らせることになる。だから距離を取る。それが正しいと思っている。それなのに、今日も目が合った瞬間には嬉しいと思ってしまったし、声をかけられれば胸が軽くなる。
離れていたいのに、近くにいてほしい。
話したくないのに、声を聞きたい。
そんな矛盾を抱えたまま、私は誰にも気づかれないように画面へ視線を戻した。
そのとき、少し離れたところから高橋さんの声が聞こえた。
「課長、まだ帰らないんですか?」
「もう少しだけ仕事があります」
「そうですか。俺ももう少し残ります」
「そうですか」
それだけ答えるのが精一杯だった。
本当は、もう少し話したかった。
どうして残るのか聞きたかったし、今日一日何を考えていたのかも知りたかった。そんなことを思う自分を隠すように、私は再びパソコンへ目を向ける。
高橋さんとの距離を取れば、気持ちは薄れていくと思っていた。
でも、実際は逆だった。
離れるほど、私は高橋さんを意識してしまう。そして今、私が一番怖いのは、高橋さんに嫌われることではなかった。
このまま距離を取っているうちに、高橋さんが私を必要としなくなることだった。
朝、出社してパソコンを開いたときもそうだった。いつものように仕事を始めようと画面へ目を向けていたのに、向かいの席に座る高橋さんが出社してくる気配を感じると、私は顔を上げてしまった。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
それだけなのに、胸の奥が妙にうるさくなる。私はすぐに画面へ視線を戻し、届いたメールを開く。仕事をしなければならない。今までなら、それで気持ちは切り替わっていたはずだった。それなのに今日は、画面に並んだ文字を追いながらも、さっき見えた高橋さんの顔が頭から消えなかった。私は自分の手元へ視線を落とし、静かに息を吐いた。最近の私は、明らかにおかしい。
高橋さんを意識するようになった理由なら、分かっている。最初は、体重のことだった。九十キロを超えているのに運動もしない。食生活も気にしない。仕事ができるからといって、自分の身体まで雑に扱っていい理由にはならない。そう思っていたし、本人にも何度か厳しく言った。ところが、一緒に仕事をする時間が増えるにつれて、私が見ていたものが一部分だけだったと分かった。
取引先との話では相手の事情をすぐに読み取り、誰かが困っていれば自然に手を貸す。自分のことには驚くほど無頓着なのに、人のことになると細かいところまで見ている。魚屋道を歩いた日も、苦しそうに息をしながら私の荷物を気にしていた。自分の膝が痛いはずなのに、私が先へ進めるように何度も大丈夫だと言った。あの日から、高橋さんを見るたびに、以前とは違う感情が胸に生まれるようになった。
だから、距離を取ることにしたのだ。高橋さんに何か問題があるからではない。むしろ反対だった。高橋さんと一緒にいると、私は自分でも驚くほど安心してしまう。何かを任せても大丈夫だと思える。自分一人で抱え込まなくても、この人なら支えてくれると思ってしまう。その感覚が怖かった。私は人に頼ることを避けてきた。頼れば、その人がいなくなったときに自分がどうなるのか分からないからだ。祖父のことも、自分の仕事も、これまで一人で抱えてきた。そんな私が、よりによって部下である高橋さんに安心を求め始めている。それを自覚したとき、私は今まで通りに接することができなくなった。課長と部下という関係を守るためにも、私のほうから線を引かなければならないのだと思ったのだ。
「高橋さん、この資料を確認してもらえますか?」
「はい。どこを見ればいいですか?」
「先方から追加された条件です。昨日の打ち合わせに出ていた部分なので、現場として問題がないか確認してください」
「分かりました」
仕事の会話なら、今まで通りにできる。私はそう思っていた。高橋さんが資料を受け取り、内容を確認している間も、私は必要な説明だけを続ける。ところが、顔を上げた高橋さんと目が合った瞬間、胸が跳ねてしまう。私は反射的に視線を資料へ落とす。高橋さんが何か不思議そうにしている気配がする。それを感じながらも、私は顔を上げられなかった。こんなことで動揺していると知られたくない。高橋さんに余計なことを考えさせたくもない。私は資料の文字を指で追いながら、できるだけ平静な声を作る。
「問題なければ、私のところへ戻してください」
「はい。今日中に確認します」
「お願いします」
高橋さんが席へ戻っていく。私はその背中を見送らないようにした。見れば、また追ってしまう気がしたからだ。自分から距離を取ったのに、姿が見えなくなると気になってしまう。仕事に集中しようとしても、さっき目が合った瞬間の高橋さんの表情が頭に残っている。
私は小さく首を振り、パソコンへ向き直る。今までなら、こんなことで仕事が乱れることはなかったはずだ。自分の感情と仕事を切り離すことくらい、できていたはずだった。それなのに、高橋さんに関することだけは、どうしても思い通りにならない。
昼を過ぎ、午後の打ち合わせが終わったあと、高橋さんが私のところへ資料を持ってきた。私は顔を上げる前から、高橋さんだと分かっていた。足音だけで分かるようになっている自分に気づき、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
「課長、確認が終わりました」
「ありがとうございます。こちらへお願いします」
「先方が気にしているのは納期だと思います。価格については、昨日の話で納得しているようでした」
「私も同じ認識です。では、先方への回答はその方向で進めます」
「はい」
高橋さんが資料を差し出す。私は受け取るために手を伸ばした。その瞬間、指先が触れそうになり、私はほんの少し手を引いた。高橋さんが気づいたかどうかは分からない。ただ、私は自分の行動に驚いていた。触れたわけでもないのに、まるで触れてはいけないものから逃げたようだった。高橋さんが資料を離すと、私はそれを受け取った。
「助かりました」
「いえ。俺の担当ですから」
そう言って高橋さんが笑い、私はその笑顔を見てしまった。以前なら、つられて私も笑っていたかもしれない。
だけど、今は違う。笑顔を返したら、自分の気持ちが顔に出てしまいそうで、私は資料へ目を落とした。
「……ありがとうございます」
「課長?」
「いえ。何でもありません」
高橋さんが少しだけ首を傾げた。それ以上何も聞かず、自分の席へ戻っていく。その姿を見ながら、私は自分の態度が不自然だったことを分かっていた。それでも、どうすることもできない。高橋さんが近くにいると、心が勝手に反応してしまう。話したいのに、話せない。顔を見たいのに、目を合わせられない。離れようとするほど、気持ちだけが高橋さんへ向いてしまう。
夕方、仕事が一段落してフロアが少し静かになったころ、私はパソコンの画面を見つめながら、今日一日のことを振り返っていた。高橋さんとは何度も話した。それなのに、以前より遠く感じる。私がそうしているからだ。必要な仕事だけを話し、それ以外の時間を避けている。高橋さんに原因があるわけではない。私が勝手に距離を作っている。なのに、その距離ができるほど、高橋さんが何をしているのか気になってしまう。
誰かと話していれば視線が向く。
席を立てばどこへ行くのか気になる。
声が聞こえれば、無意識にその方向を見てしまう。
私はそこでようやく、自分が何をしているのかを認めざるを得なくなった。
私は、高橋さんを避けているのではない。高橋さんを好きになってしまうことを、怖がっている。
そう認めた瞬間、胸の奥が苦しくなった。課長と部下なのだから、簡単に気持ちを進めていい関係ではない。私が一歩間違えれば、高橋さんまで困らせることになる。だから距離を取る。それが正しいと思っている。それなのに、今日も目が合った瞬間には嬉しいと思ってしまったし、声をかけられれば胸が軽くなる。
離れていたいのに、近くにいてほしい。
話したくないのに、声を聞きたい。
そんな矛盾を抱えたまま、私は誰にも気づかれないように画面へ視線を戻した。
そのとき、少し離れたところから高橋さんの声が聞こえた。
「課長、まだ帰らないんですか?」
「もう少しだけ仕事があります」
「そうですか。俺ももう少し残ります」
「そうですか」
それだけ答えるのが精一杯だった。
本当は、もう少し話したかった。
どうして残るのか聞きたかったし、今日一日何を考えていたのかも知りたかった。そんなことを思う自分を隠すように、私は再びパソコンへ目を向ける。
高橋さんとの距離を取れば、気持ちは薄れていくと思っていた。
でも、実際は逆だった。
離れるほど、私は高橋さんを意識してしまう。そして今、私が一番怖いのは、高橋さんに嫌われることではなかった。
このまま距離を取っているうちに、高橋さんが私を必要としなくなることだった。