嫌いだった課長と恋をするまで

第36話 俺は課長が好きです

 仕事を終えたあとも、俺は自分の席から動けずにいた。パソコンの画面には明日の打ち合わせに使う資料が開いたままだったが、内容はもう頭に入ってこない。今日一日の仕事を思い返しても、何か大きな失敗をしたわけじゃない。課長とのやり取りだって、いつも通りだった。必要な確認をして、指示を受けて、俺も自分の意見を返している。

 それなのに、胸の奥だけが落ち着かない。俺は画面を閉じ、深く息を吐く。ここ数日、課長のことを考える時間が増えている。東京へ戻るかもしれないという話を聞いたからだ。課長がいなくなるかもしれない。そう思ったとき、俺の中に浮かんだのは仕事の心配でも、自分の立場の心配でもなかった。ただ、もう会えなくなるのが嫌だという感情だった。そこから逃げようとすればするほど、その気持ちははっきりしていった。

「高橋さん」

 顔を上げると、課長が少し離れたところに立っている。手には鞄を持ち、帰る準備を終えたらしい。俺は椅子から立ち上がりながら、心臓が妙に速く動いていることに気づく。課長と話すだけなら、今まで何度もしてきた。仕事の相談だって、二人きりの打ち合わせだって珍しくない。それなのに今日は違う。俺はこれから、自分がずっと避けてきた言葉を口にしようとしていた。課長は俺の前まで来ると、少しだけ首を傾けた。

「まだ仕事がありますか?」

「いえ。もう終わりました」

「そうですか」

「課長」

「はい」

「少しだけ、時間をもらえませんか」

 課長の表情がわずかに変わる。驚いたのか、警戒したのか、俺には分からない。俺はそれ以上何も言わず、会議室のほうを指すと、課長は少し考えてから頷いた。
 二人で廊下を歩くが、昼間なら社員の話し声や電話の音で気にならない距離が、今は妙に長く感じられる。
 会議室の扉を開け、先に課長が入る。俺も続いて中へ入り、扉を閉めた。向かい合って座ると、課長が静かに俺を見た。

「何かありましたか?」

「……はい」

「仕事のことですか?」

「仕事じゃありません」

 課長の目がわずかに揺れている。俺は膝の上で手を握り覚悟を決めた。ここまで来たのだから、もう逃げたくない。
 
 何を言われるか怖い。
 困らせるかもしれない。
 今まで築いてきた関係が変わるかもしれない。

 それでも、言わないまま課長が東京へ行ってしまうことのほうが、今の俺にはずっと怖かった。

「俺、課長に話しておきたいことがあります」

「……何でしょう」

「俺、自分の気持ちをずっと考えてました」

 課長は何も言わない。俺は一度だけ息を吸う。一年半前の失恋を思い出す。あのとき俺は、自分が選ばれなかったことを、自分自身の価値まで否定されたように受け取っていた。そこから食べることに逃げて、運動もしなくなって、気づけば九十キロを超えていた。誰かに好きになってもらうことなんて、自分にはもう関係ないと思っていた。だから、課長を好きになったと気づいたときも、それを認めるのが怖かった。上司だから駄目だ。俺なんかが好きになっても迷惑だ。そうやって理由を並べて、気持ちを押し込めようとしていた。でも、課長が神戸からいなくなるかもしれないと知った瞬間、その全部が意味を失ってしまった。

「俺、最初は課長のことが苦手でした」

「……知っています」

「何を言われても腹が立ったし、俺のことを何も分かってないって思ってました」

「それも、なんとなく分かっていました」

「でも、仕事を一緒にするうちに、俺が知らなかった課長のことを少しずつ知りました」

 課長は黙って俺を見ている。俺はその視線から逃げなかった。
 仕事をしているときの厳しい顔。
 祖父のことを心配している顔。
 誰かのために自分の時間を削っている姿。
 魚屋道で一緒に歩いたときに見せた表情。
 俺が困っているときに何も言わず手を差し出してくれたこと。
 俺自身が気づいていなかったところまで、課長は見てくれていた。

「課長が笑っていると、嬉しくなりました。課長が誰かと話しているだけで、気になりました。仕事で少し距離を置かれたときは、思っていた以上に寂しかったです。課長が大変そうにしていたら心配になったし、何かあれば俺が力になりたいと思いました」

「高橋さん……」

「俺がどうしてこんなに課長のことを気にするのか、ずっと考えてました」

 俺は一度言葉を止める。ここから先を口にしたら、もう戻れない。課長の顔を見れば、彼女もそれを分かっているようだった。それでも俺は、もう自分の気持ちから逃げないと決めた。

「好きだからです」

 会議室の中が無音に感じられ、俺の声だけが、妙に大きく聞こえた気がした。課長は何も言わない。俺も次の言葉を急がなかった。心臓がうるさく、手のひらには汗がにじんでいる。それでも、不思議と後悔はなかった。

「俺は、課長が好きです」

 課長の視線が俺から外れ、の上へ落ちたその目を見て、俺は胸が締めつけられた。やっぱり困らせたかもしれない。そう思った瞬間、言葉を続けなければならないと思った。

「すぐに答えを出してほしいわけじゃありません」

「……」

「俺が課長を好きだってことだけ、知っておいてほしかったんです」

 課長はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくり顔を上げる。その表情には、仕事中には見たことのない迷いがあった。

「どうして……今なんですか?」

「課長が東京へ戻るかもしれないって聞いたからです」

「それだけですか?」

「違います。東京の話がなくても、俺は課長が好きです。ただ、課長がいなくなるかもしれないって思ったときに、言わないまま終わるのが嫌だったんです」
 
 俺は首を横に振る。
 課長は何も答えない。
 
 俺も答えを求めなかった。ここで「付き合ってください」と言えば、彼女に決断を迫ることになるだろう。課長は俺の上司だ。仕事の関係もある。俺自身、そこに簡単な答えがないことは分かっている。それでも、今日だけは自分の気持ちを隠したくなかった。

「俺、昔は自分で何かを選ぶのが怖かったんです。選んだものを失ったら、自分まで否定された気がするから。でも、今は違います。課長を好きになったのは、俺が自分で選んだことです」

 課長の瞳が揺れている。
 
「……、だから、後悔しません」

 それだけ伝えて、俺は立ち上がった。課長はまだ席に座ったままだったが、俺は扉へ向かいながら、一度だけ振り返る。

「今日は、聞いてくれてありがとうございました」

 課長はすぐには返事をしなかった。やがて小さく息を吐き、俺を見る。

「……高橋さん」

「はい」

「少し、考えさせてください」

「分かりました」

 
 会議室を出ると、廊下には誰もいなかった。窓の外には神戸の夜景が広がっている。胸の奥には、まだ激しく心臓が鳴っていた。

 怖かった。

 これから課長との関係がどうなるのかも分からない。それでも、言ってしまったことを後悔してはいなかった。俺はようやく、自分が好きだと思った人に、自分の言葉で気持ちを伝えた。昔の俺なら、傷つくのが怖くてできなかったことだ。

 エレベーターの前で足を止め、閉じた扉に映る自分を見る。九十キロを超えた体は、昔のように細くもない。格好いい男でもない。それでも、今の俺は自分を隠さなかった。課長がどんな答えを出すのかは、まだ分からない。

 ただ一つだけ、はっきりしている。
 俺は、神谷美月という人を好きになった。

 その気持ちだけは、誰にも否定させない。
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