金庫の中の兄貴
【06 鍵鍵】
・
・【06 鍵鍵】
・
すると奥のスペースから、室井さんの妻である静子さんが顔を出して、
「そろそろいいんじゃないの?」
室井さんは深い溜息ののち、
「まあそうか、初犯だもんな」
初犯という概念なんだと思って私も兄貴の隣で黙っていると、静子さんが、
「クッキーでも食べて、もうこんなことしちゃダメだよ」
そう言ってクッキー缶をテーブルの上に置くと、頑として動かなかった兄貴が即座にクッキーに手を伸ばしたので、私はつい「あ!」と言ってしまった。
室井さんは兄貴のことを呆れるように笑い、兄貴がクッキーを咀嚼して飲み込むと、
「室井ってこんな可愛い妹いたんだな」
静子さんはうふうふ笑いながら、
「妻です」
とペコリと頭を下げると、兄貴は、
「室井の嫁さんなんてやってないで、俺が結婚してあげてもいいけどな」
と顔を上げて、ふてぶてしく言った。コイツ、自分がさっきまで叱られていたこと、もう覚えていないのか?
ムッとしている室井さんよりも先に、静子さんが、
「わたしは夫が大好きなんで、ダメです」
と茶目っ気たっぷりに微笑むと、静子さんはまた奥のスペースに戻って行った。兄貴はつまらなそうにまた下を向いた。
室井さんはコホンと一息ついてから、
「あのようなパートナーと一緒になるには、女風呂を覗いていたらなれないだろうな」
兄貴はハッと鼻で笑ってから、
「説教で嫁さんのこと出してくんなよ、それでしか偉ぶれないのかよ」
と言い、私は何かちょっと核心突いているような気がして吹き出して笑ってしまった。
室井さんは顔を真っ赤にしながら、
「もう帰れ! 帰れ! このクッキー缶は真奈ちゃんに渡しておくから!」
と、私にクッキー缶を少し荒っぽく渡して、さらに大きな身振り手振りで煽って兄貴共々帰らせ始めた。
私も兄貴も席を立ち、そのまま歩いて帰ることになった。
道端に出たところで兄貴が、
「そのクッキーおれがもらったんだからな」
「そんなはずないじゃん、私がもらったんだから」
「いや何か真奈はいっつももらっているみたいじゃん、だから今回はおれ」
「嫌だよ、というか兄貴は最近お母さんから好きな食べ物いっぱい作ってもらってるんだからいいじゃん。私の話なんて全然してくれないし」
「いやもう母さんの料理は飽きた。もういい。別なの食べたい」
「何それ! そんなん絶対お母さんの前では言わないでね! お母さんはやっと兄貴と会えて嬉しいんだから!」
「それが何かウザいんだよなぁー、別に全然そういうことじゃないのにさぁー」
そう両腕を後ろ頭に置いて、溜息を遠くに飛ばすように出した兄貴。なんてヤツ。大体家族の言い分で分かるでしょ。自分は六年間失踪していて姿も変わっていないって。
コイツ、本当自分のこと、どう見えてるんだ? 全く意味不明だ。
私は兄貴のことを直視したくなくて横を見ると、ちょうど公園で、向こうのベンチで甚太が一人でパピコを食べていたのだ。
甚太のことを見ると、ぬいぐるみへの感謝よりも女風呂のくだりを言いたくなって、私は甚太へ、まだ距離はあるのでデカい声で、
「甚太ぁ! 女風呂の話聞いたよ!」
と言ってクッキー缶を持っていないほうの手で手を振ると、甚太が「い!」と大声を出してから、
「そんなことデカい声で言うなよ!」
と言ってきた。
すると兄貴は多分、室井さんの言っていた”武田さん”の正体が目の前にいる甚太だと分かったみたいで、兄貴は甚太のほうへ走って行った。
甚太は遠目からでも反省している面持ちになったことが分かり、何か逆に申し訳無く思ってしまった。今更ながらセンシティブだったかも。そんな簡単にイジっていいことじゃなかったかも。
でもどうしても言いたくなって、とか思っていると、兄貴が甚太へ大声で、
「オマエやるじゃん! おれの子分にしてやるよ!」
とベンチに座っている甚太に言い放って、甚太はちょっと困惑しながら、
「え、何、どゆこと?」
私も甚太に近付いて、
「今、兄貴も女風呂を突破しようとしたの。というか兄貴は実際女風呂に入ったの。まあお客さんは誰もいない時だったから大丈夫だったけども」
甚太の表情は引きつっていた。兄貴は続ける。
「女風呂行く男じゃなきゃ男じゃねぇよなぁ! 子分にしてやるから! いろんなこと教えてやるよ!」
甚太は溜息交じりに、
「いやぁ……あれ、小学一年生の時だからもう許してよぉ……それに今はもう俺のほうが年上だから子分とかも普通に嫌だしぃ……」
私は甚太へ伺うように、
「あれってやっぱり、小学一年生の時だったから番台さんが覚えていないと思って、私たちと一緒に銭湯へ行くのも了承したの?」
「そりゃまあそうというか、番台も別の人に変わっていると思ったよ。まさか当時と一緒とはねっ」
平常心を保って言おうとしているようだけども、甚太の手は震えていた。まさかそこまで罪悪感に駆られていたなんて。もう話題にしないことにしよう。
じゃあ何の話題に変えようかなとか思っていると、甚太が、
「あれ? ベンチの横に置いておいた袋は? アイス入ってるヤツ」
私は『もしや』と思いながら、公園を見渡すと、なんと兄貴が滑り台の頂上で、素手でカップアイスをがつがつ食べていたのだ。
「あそこ! ゴメン!」
と言いながら兄貴を指差すと、甚太が「えー!」と声を荒らげてから「お姉ちゃんのヤツなのに……」と、ガクッと肩を落とした。
もう本当に田舎の猿じゃん、兄貴ってここまで田舎の猿だったっけ? 六年前だから記憶に無いけども、さすがにここまでじゃなかったような気がする。
すると甚太が心配そうに、
「アイツ、本当に大丈夫か……? ちょっと小学三年生にしては乱暴じゃないか?」
私は自信が無くて黙って俯いてしまうと、急に手がひんやりと冷たくなって、さらに少し引っ張られた。
つい「ひゃっ」と小さく声を出してしまうと、甚太が、
「ワリィ、手冷たかったわ。でも座ってパピコの片割れ、食っていいよ」
どうやら甚太が私の手を掴んで、ベンチに座ることを促してくれたようだった。
「パピコいいの?」
と言いながら私は甚太の隣に座ると、甚太が優しい笑顔で、
「パピコってそういうもんだろ」
「でも千紗さんへのアイスが無くなった今、それを持って帰らないといけないんじゃないの?」
「いいよ、お姉ちゃんはハーゲンダッツの気分だったから、ハーゲンダッツ無しじゃもういらないだろ」
まあ甚太もそう言ってくれているので、私はパピコの片割れをもらって食べることにした。
私はパピコの頭側に入っていたアイスも吸って食べるほうなので、いつも通り吸うと、甚太が手を差し出して「ん」と言ってきたので、なんとなく、普通に甚太にその頭側を渡して、甚太はその私が吸った頭側をパピコが入っていた袋に入れた。
あれ……結構唾液ベタベタで汚かったんじゃないかな、と思ってきたけども、甚太はそんなことは一切気にせず、
「ちょっと危なっかしい行動ばっかりでさ、確かに真奈の兄貴のイメージ通りではあるけども、あそこまでだったか? 小学三年生、だよな?」
「あ、うん、でも、うん」
また頭側のほうが気になってしまい、たどたどしい返事になってしまっている私。そんなことは露知らず、
「というか人間だよな? 本当に大丈夫だよな?」
そう言われた時、確かにというか本当にそうだよな、と思った。両親は麻痺しているけども、実際考えたら室井さんも似たようなことを言っていたけども、やっぱりそうじゃん、と。
私は自信無さげに、
「そうかも……」
「ありえない状況なんだからさ、何かあったらすぐに連絡してほしい。俺もお姉ちゃんも絶対に真奈の味方だから」
そう真剣な瞳で見られてしまうと、何だかドギマギしてしまう。甚太のくせに。
ちょっと照れ隠しに前髪をイジってしまうと、兄貴がデカい声で、こっちへ向かって叫んできた。
「おい! オマエ! 真奈のこと好きなのかよ! スケベー!」
ちょ、本当にこういう時にそういうイジり止めろよ、おもんないんだよ、とか言ってやろうと思っていると、甚太が声を荒らげた。
「そうだよ! 好きだよ! 悪いかよ!」
兄貴は即座に、
「エッチだ! エッチだ!」
と叫びながら滑り台を降りてきて、甚太はムッとしながら、
「性格が好きなんだよ! 面白いツッコミするところが好きなんだよ!」
兄貴はへッと笑ってから、
「まあブスだもんなぁ」
と言い、甚太は即座に、
「ブスじゃない! 普通!」
と言ったのでつい、
「可愛いでいいだろ!」
とツッコんでしまったわけだが、え、いや、甚太が私のことを好きぃっ? 聞き間違いじゃないよねぇっ!
私はじとっと甚太のほうを見てしまうと、甚太は一切顔を逸らさずに、
「俺は! ちゃんと真奈のことが好きだ!」
と、にらめっこのような距離でそう言うと、私は耳まで熱くなってきて、
「いや!」
と声を上げながら、甚太からそっぽを向くように立ち上がると、兄貴が、
「振られてやんの! ダセェ!」
と大笑いしたんだけども、私はハッキリと、
「その”いや”じゃなくて! ちゃんと考えたいだけ!」
と言うと、甚太が震える声で、
「俺のことを、考えて、くれる、だけで、嬉しい」
としみじみ言って、私はもうどうすればいいか一切分からなくなり、
「兄貴! もう帰ろう! 今日は帰るんだよ!」
と叫ぶと、兄貴がゲヘゲヘいいながら、
「オヤジや母さんに報告しようっと!」
と言いながら走り出して、私は追いかけるように一緒に公園から出て行った。全然甚太のほうを見ることは出来なかった。
家に戻ってくるなり、兄貴がお母さんに「真奈に彼氏が出来たぞー!」と言うんだけども、お母さんは兄貴の言うことを真に受けていないらしく、
「それは良かったねー」
と言うだけで、兄貴もつまんなくなったみたいで、自分の部屋へ戻って行った。二人きりになっても、お母さんは熱心に料理をするばかりで「本当に彼氏が出来たの?」と聞いてくることもなく、聞かれたらそりゃウザいけども、何だか寂しかった。私のこと、本当にあんまり興味が無いのかな。
お父さんが帰ってきたら、またしても兄貴がすぐに「真奈に彼氏が出来たぞー!」と言ったんだけども、お父さんは本当に無関心って感じで、それよりも自分が買ってきた兄貴用のオモチャを説明したくてしょうがないといった感じだった。
今日の晩御飯も兄貴の好きな料理ばかりで、でも兄貴は全然食べなくて、お母さんもお父さんも不安そうにして。
私がお風呂から上がってきて、部屋に戻って静子さんのクッキーを確認したら、全て無くなっていた。
その夜、両親から兄貴について話があると言われて、兄貴抜きで呼び出された。
これはもしや、兄貴が本当に兄貴なのかどうか話すんだと思っていたら、お父さんは威厳があるみたいな顔で、
「将斗はまだ小学三年生のままだから、しっかり真奈がお守りをするんだぞ」
私は少し呆れるように、
「いやそんなことは昨日とかも聞いたけども。それよりもお父さんもお母さんもあれが本当に兄貴だと思っているの?」
お父さんはかなり不機嫌そうに、
「将斗に決まっているじゃないか! 現に将斗だろ!」
と声を荒らげた。何かもう駄々っ子って感じの言い方だ。全然威厳のある父親って感じじゃない。
お母さんも困惑するように、
「でも将斗だからねぇ……」
と答えて、両親は二人とも兄貴に疑問を持っていないようだった。
結局甚太としていたような話は一切出来ず、今日という日も終わってしまった。
世間では、石油価格高騰とか、ゾウへのご褒美が盗まれたとか、海外で海賊が暴れているとか、いろんなニュースがあるけども、うちの家族は今もう兄貴のことでいっぱいいっぱい。
私は居間に麦茶を飲みに行った時に、お父さんは勿論仕事だし、お母さんはスーパーへ買い物に行っているこのタイミングで、兄貴の姿が家から消えていることに気付いた。ふと玄関の靴を見て気付いた。
どうやらこっそり玄関から出て行ったらしい。家の中はクーラーがついていて、過ごしやすい。兄貴は昔からクーラーへの執着がすごかった。つまりクーラーから離れてでもしたいことがあるということだ。
私は候補を二つに絞った。静子さんのクッキーが食べたいから駐在所か、また鍵を拾ってきて民宿黒田に行ったか、だ。
仮に静子さんのクッキーがほしくて駐在所に行ったのなら、室井さんがいるので危険なことにはならない。つまり私が行くべき場所は民宿黒田だ。
すぐに靴を履いて、民宿黒田に向かってダッシュし始めた。何でこんな夏休みの、クソ熱い日に急がないといけないんだ。本当にキツイ。こんなん獣過ぎるって、兄貴。
外は予想通りカンカン照りで、アスファルトの照り返しが私の足は勿論、アゴまで焼くような気がする。
蝉の声はどこにいても、まるで一匹に聞こえるくらいに、鳴き声をリレーして聞こえてくる。こんな沿道応援はいらない。
結構ヘロヘロで民宿黒田に着いたところで、案の定兄貴がいて、今まさに金庫の前で座って鍵を回している時で、正直私はその鍵が何の鍵かすぐに分かってしまったので、
「ダメだよ! 返しなよ!」
私は金庫の前でしゃがんでいる兄貴を蹴って押し倒すという判断をとったわけだけども、兄貴が開けるほうが先で、とは言え、私の蹴りも止まらないので、開けている兄貴を私は蹴って、兄貴は開けている扉に頭をぶつけるように軽く吹き飛んだ。
ちょっと乱暴だったかと思いつつ、兄貴を見てから、金庫の中に入っているソレを見ると「あ!」と叫んでしまった。
案の定”下着”だったわけだけども、紫のセクシーなレースの下着で見てるこっちが恥ずかしくなるようなモノだったのだ!
「兄貴! 女風呂のロッカーの鍵なんてよくパクってくるね!」
すると兄貴は頭を押さえながら、
「乱暴女、撲滅だろ」
と言って改めて、金庫の前にしゃがむと、小声で、
「ババアの下着じゃん」
と言った。
いやこれは多分、レースから察するに相当オトナな女性の下着だと思うけども、どうやら兄貴にとって紫色はおばさんの色らしく、一切触れようとしない。多分本当中学生のスポブラみたいのだったら触って喜んだんだと思う。
兄貴は下着を指差しながら、
「ちょうどいい、真奈、処理しといて」
「無理だよ! 私がこんなん持っていたら変じゃん!」
「いやでも俺を蹴った罰として、このババアのパンツ捨てといて」
だとしたら罰、結構軽めだなと思いつつ、
「嫌だよ、何かビニール袋に手を突っ込んで掴んで、掴んだ下着ごと裏返して自分で捨てればいいじゃん」
「ババアのパンツなんてキモいわ」
そんなことを言い合っていると、民宿黒田の店主・臼田さんがやって来て、
「どうしたんだい? また金庫を勝手に使ったのかい?」
兄貴は金庫の中を指差しながら、
「ババアのパンツが出てきたから、捨ててくれよ」
臼田さんはフフッと笑ってから、
「これはなんだい、銭湯のロッカーの鍵かい?」
兄貴はうんと頷き、
「そう、女風呂の」
臼田さんは口元を手で抑えながら、
「分かりました。僕が責任を持って、銭湯の鍵は返して、そちらのパンツも処理します」
私は内心ホッとした。私は私で正直あの銭湯のことが億劫になっているからだ。
あの番台さん、何でも頭ごなしに否定してくるから苦手なんだ。最初に昔話を聞く件で銭湯へ訪れた時、甚太のせいだけども、一緒にいる私や裕子のことも過剰に罵倒してきたし、そもそも私が『女風呂に入ったほうがいいよ』なんてけしかけるはずないだろ。
私と兄貴は歩いて帰ることになった。
その時に兄貴が、
「財布でも出てくるんじゃねぇのかと思ったのになぁ」
と言って、下着が目的じゃなかったんだと、何か少しだけ安心した。
女性の下着が目的だったら、もう犯罪者だからね、いや財布も犯罪者か。
兄貴はへッと笑うと、
「アイツ、あのパンツを絶対かぶるぞ」
「臼田さんがパンツをかぶるはずないでしょ」
「まあかぶるはかぶるわけだけども、ちょっくら浜辺のほうへ行ってくるかぁ」
「何で頑なにかぶるBETなんだよ、というか何で浜辺?」
「ひ! 久しぶりに海見たいんだよ!」
急にデカい声を出して何なんだと思ったけども、私は兄貴についていくことしか出来ないので、
「私、両親から兄貴のお守りしないといけないって言われてるからついていくね」
「いいって、そんなことぉ」
と邪魔そうに兄貴は言ったんだけども、結局身体能力は私のほうが上なので、ついていくことにした。
兄貴はチラチラこちらを見つつも、浜辺への道を歩いて行く。さすがに浜辺はこの町でも特徴的な場所なので、分かっているみたいだ。
浜辺。
浜辺といっても、あんま砂浜になっているところは少ない。そのため、ヤンチャな高校生とかが夜にだけやって来るみたいなところ。その結果、花火のカラが落ちている……のはまだいいとして、タバコの吸い殻とかも無限に落ちている。
ゴミ拾いの量を競う小学生たちにとって、この浜辺は取り合いになっている。浜辺を制すモノがゴミ拾いを制す、みたいな感じだ。
それとは別に漂流物もあるので、かなりゴミ拾いには適している場所だ。砂浜の他は岩場になっていて、一時期岩場に生息しているカメノテの乱獲がちょっとした話題になった。
結局近くでラーメン屋さんをやっている源内さんが犯人で、カメノテを秘密で出汁に使っていたら、甲殻類アレルギーの三好さんがそのカメノテで死にかけて、ちょっとした事件になった。三好さんは今も元気に大工をしているので、まあ今は笑い話だけども。源内さんも面の皮厚くまだやっているし。
私はボーッと水平線の向こうを見ている。兄貴は一体どこからやって来たのだろうか、そもそも本物の兄貴なのだろうか、あの水平線の向こうからやって来たんじゃないのか?
潮風は幾分涼しく、塩で腐食する装飾品も付けていないので、そういうことを気にすることもない、と思っていると、犬の散歩をしている裕子が脇を通った。
・【06 鍵鍵】
・
すると奥のスペースから、室井さんの妻である静子さんが顔を出して、
「そろそろいいんじゃないの?」
室井さんは深い溜息ののち、
「まあそうか、初犯だもんな」
初犯という概念なんだと思って私も兄貴の隣で黙っていると、静子さんが、
「クッキーでも食べて、もうこんなことしちゃダメだよ」
そう言ってクッキー缶をテーブルの上に置くと、頑として動かなかった兄貴が即座にクッキーに手を伸ばしたので、私はつい「あ!」と言ってしまった。
室井さんは兄貴のことを呆れるように笑い、兄貴がクッキーを咀嚼して飲み込むと、
「室井ってこんな可愛い妹いたんだな」
静子さんはうふうふ笑いながら、
「妻です」
とペコリと頭を下げると、兄貴は、
「室井の嫁さんなんてやってないで、俺が結婚してあげてもいいけどな」
と顔を上げて、ふてぶてしく言った。コイツ、自分がさっきまで叱られていたこと、もう覚えていないのか?
ムッとしている室井さんよりも先に、静子さんが、
「わたしは夫が大好きなんで、ダメです」
と茶目っ気たっぷりに微笑むと、静子さんはまた奥のスペースに戻って行った。兄貴はつまらなそうにまた下を向いた。
室井さんはコホンと一息ついてから、
「あのようなパートナーと一緒になるには、女風呂を覗いていたらなれないだろうな」
兄貴はハッと鼻で笑ってから、
「説教で嫁さんのこと出してくんなよ、それでしか偉ぶれないのかよ」
と言い、私は何かちょっと核心突いているような気がして吹き出して笑ってしまった。
室井さんは顔を真っ赤にしながら、
「もう帰れ! 帰れ! このクッキー缶は真奈ちゃんに渡しておくから!」
と、私にクッキー缶を少し荒っぽく渡して、さらに大きな身振り手振りで煽って兄貴共々帰らせ始めた。
私も兄貴も席を立ち、そのまま歩いて帰ることになった。
道端に出たところで兄貴が、
「そのクッキーおれがもらったんだからな」
「そんなはずないじゃん、私がもらったんだから」
「いや何か真奈はいっつももらっているみたいじゃん、だから今回はおれ」
「嫌だよ、というか兄貴は最近お母さんから好きな食べ物いっぱい作ってもらってるんだからいいじゃん。私の話なんて全然してくれないし」
「いやもう母さんの料理は飽きた。もういい。別なの食べたい」
「何それ! そんなん絶対お母さんの前では言わないでね! お母さんはやっと兄貴と会えて嬉しいんだから!」
「それが何かウザいんだよなぁー、別に全然そういうことじゃないのにさぁー」
そう両腕を後ろ頭に置いて、溜息を遠くに飛ばすように出した兄貴。なんてヤツ。大体家族の言い分で分かるでしょ。自分は六年間失踪していて姿も変わっていないって。
コイツ、本当自分のこと、どう見えてるんだ? 全く意味不明だ。
私は兄貴のことを直視したくなくて横を見ると、ちょうど公園で、向こうのベンチで甚太が一人でパピコを食べていたのだ。
甚太のことを見ると、ぬいぐるみへの感謝よりも女風呂のくだりを言いたくなって、私は甚太へ、まだ距離はあるのでデカい声で、
「甚太ぁ! 女風呂の話聞いたよ!」
と言ってクッキー缶を持っていないほうの手で手を振ると、甚太が「い!」と大声を出してから、
「そんなことデカい声で言うなよ!」
と言ってきた。
すると兄貴は多分、室井さんの言っていた”武田さん”の正体が目の前にいる甚太だと分かったみたいで、兄貴は甚太のほうへ走って行った。
甚太は遠目からでも反省している面持ちになったことが分かり、何か逆に申し訳無く思ってしまった。今更ながらセンシティブだったかも。そんな簡単にイジっていいことじゃなかったかも。
でもどうしても言いたくなって、とか思っていると、兄貴が甚太へ大声で、
「オマエやるじゃん! おれの子分にしてやるよ!」
とベンチに座っている甚太に言い放って、甚太はちょっと困惑しながら、
「え、何、どゆこと?」
私も甚太に近付いて、
「今、兄貴も女風呂を突破しようとしたの。というか兄貴は実際女風呂に入ったの。まあお客さんは誰もいない時だったから大丈夫だったけども」
甚太の表情は引きつっていた。兄貴は続ける。
「女風呂行く男じゃなきゃ男じゃねぇよなぁ! 子分にしてやるから! いろんなこと教えてやるよ!」
甚太は溜息交じりに、
「いやぁ……あれ、小学一年生の時だからもう許してよぉ……それに今はもう俺のほうが年上だから子分とかも普通に嫌だしぃ……」
私は甚太へ伺うように、
「あれってやっぱり、小学一年生の時だったから番台さんが覚えていないと思って、私たちと一緒に銭湯へ行くのも了承したの?」
「そりゃまあそうというか、番台も別の人に変わっていると思ったよ。まさか当時と一緒とはねっ」
平常心を保って言おうとしているようだけども、甚太の手は震えていた。まさかそこまで罪悪感に駆られていたなんて。もう話題にしないことにしよう。
じゃあ何の話題に変えようかなとか思っていると、甚太が、
「あれ? ベンチの横に置いておいた袋は? アイス入ってるヤツ」
私は『もしや』と思いながら、公園を見渡すと、なんと兄貴が滑り台の頂上で、素手でカップアイスをがつがつ食べていたのだ。
「あそこ! ゴメン!」
と言いながら兄貴を指差すと、甚太が「えー!」と声を荒らげてから「お姉ちゃんのヤツなのに……」と、ガクッと肩を落とした。
もう本当に田舎の猿じゃん、兄貴ってここまで田舎の猿だったっけ? 六年前だから記憶に無いけども、さすがにここまでじゃなかったような気がする。
すると甚太が心配そうに、
「アイツ、本当に大丈夫か……? ちょっと小学三年生にしては乱暴じゃないか?」
私は自信が無くて黙って俯いてしまうと、急に手がひんやりと冷たくなって、さらに少し引っ張られた。
つい「ひゃっ」と小さく声を出してしまうと、甚太が、
「ワリィ、手冷たかったわ。でも座ってパピコの片割れ、食っていいよ」
どうやら甚太が私の手を掴んで、ベンチに座ることを促してくれたようだった。
「パピコいいの?」
と言いながら私は甚太の隣に座ると、甚太が優しい笑顔で、
「パピコってそういうもんだろ」
「でも千紗さんへのアイスが無くなった今、それを持って帰らないといけないんじゃないの?」
「いいよ、お姉ちゃんはハーゲンダッツの気分だったから、ハーゲンダッツ無しじゃもういらないだろ」
まあ甚太もそう言ってくれているので、私はパピコの片割れをもらって食べることにした。
私はパピコの頭側に入っていたアイスも吸って食べるほうなので、いつも通り吸うと、甚太が手を差し出して「ん」と言ってきたので、なんとなく、普通に甚太にその頭側を渡して、甚太はその私が吸った頭側をパピコが入っていた袋に入れた。
あれ……結構唾液ベタベタで汚かったんじゃないかな、と思ってきたけども、甚太はそんなことは一切気にせず、
「ちょっと危なっかしい行動ばっかりでさ、確かに真奈の兄貴のイメージ通りではあるけども、あそこまでだったか? 小学三年生、だよな?」
「あ、うん、でも、うん」
また頭側のほうが気になってしまい、たどたどしい返事になってしまっている私。そんなことは露知らず、
「というか人間だよな? 本当に大丈夫だよな?」
そう言われた時、確かにというか本当にそうだよな、と思った。両親は麻痺しているけども、実際考えたら室井さんも似たようなことを言っていたけども、やっぱりそうじゃん、と。
私は自信無さげに、
「そうかも……」
「ありえない状況なんだからさ、何かあったらすぐに連絡してほしい。俺もお姉ちゃんも絶対に真奈の味方だから」
そう真剣な瞳で見られてしまうと、何だかドギマギしてしまう。甚太のくせに。
ちょっと照れ隠しに前髪をイジってしまうと、兄貴がデカい声で、こっちへ向かって叫んできた。
「おい! オマエ! 真奈のこと好きなのかよ! スケベー!」
ちょ、本当にこういう時にそういうイジり止めろよ、おもんないんだよ、とか言ってやろうと思っていると、甚太が声を荒らげた。
「そうだよ! 好きだよ! 悪いかよ!」
兄貴は即座に、
「エッチだ! エッチだ!」
と叫びながら滑り台を降りてきて、甚太はムッとしながら、
「性格が好きなんだよ! 面白いツッコミするところが好きなんだよ!」
兄貴はへッと笑ってから、
「まあブスだもんなぁ」
と言い、甚太は即座に、
「ブスじゃない! 普通!」
と言ったのでつい、
「可愛いでいいだろ!」
とツッコんでしまったわけだが、え、いや、甚太が私のことを好きぃっ? 聞き間違いじゃないよねぇっ!
私はじとっと甚太のほうを見てしまうと、甚太は一切顔を逸らさずに、
「俺は! ちゃんと真奈のことが好きだ!」
と、にらめっこのような距離でそう言うと、私は耳まで熱くなってきて、
「いや!」
と声を上げながら、甚太からそっぽを向くように立ち上がると、兄貴が、
「振られてやんの! ダセェ!」
と大笑いしたんだけども、私はハッキリと、
「その”いや”じゃなくて! ちゃんと考えたいだけ!」
と言うと、甚太が震える声で、
「俺のことを、考えて、くれる、だけで、嬉しい」
としみじみ言って、私はもうどうすればいいか一切分からなくなり、
「兄貴! もう帰ろう! 今日は帰るんだよ!」
と叫ぶと、兄貴がゲヘゲヘいいながら、
「オヤジや母さんに報告しようっと!」
と言いながら走り出して、私は追いかけるように一緒に公園から出て行った。全然甚太のほうを見ることは出来なかった。
家に戻ってくるなり、兄貴がお母さんに「真奈に彼氏が出来たぞー!」と言うんだけども、お母さんは兄貴の言うことを真に受けていないらしく、
「それは良かったねー」
と言うだけで、兄貴もつまんなくなったみたいで、自分の部屋へ戻って行った。二人きりになっても、お母さんは熱心に料理をするばかりで「本当に彼氏が出来たの?」と聞いてくることもなく、聞かれたらそりゃウザいけども、何だか寂しかった。私のこと、本当にあんまり興味が無いのかな。
お父さんが帰ってきたら、またしても兄貴がすぐに「真奈に彼氏が出来たぞー!」と言ったんだけども、お父さんは本当に無関心って感じで、それよりも自分が買ってきた兄貴用のオモチャを説明したくてしょうがないといった感じだった。
今日の晩御飯も兄貴の好きな料理ばかりで、でも兄貴は全然食べなくて、お母さんもお父さんも不安そうにして。
私がお風呂から上がってきて、部屋に戻って静子さんのクッキーを確認したら、全て無くなっていた。
その夜、両親から兄貴について話があると言われて、兄貴抜きで呼び出された。
これはもしや、兄貴が本当に兄貴なのかどうか話すんだと思っていたら、お父さんは威厳があるみたいな顔で、
「将斗はまだ小学三年生のままだから、しっかり真奈がお守りをするんだぞ」
私は少し呆れるように、
「いやそんなことは昨日とかも聞いたけども。それよりもお父さんもお母さんもあれが本当に兄貴だと思っているの?」
お父さんはかなり不機嫌そうに、
「将斗に決まっているじゃないか! 現に将斗だろ!」
と声を荒らげた。何かもう駄々っ子って感じの言い方だ。全然威厳のある父親って感じじゃない。
お母さんも困惑するように、
「でも将斗だからねぇ……」
と答えて、両親は二人とも兄貴に疑問を持っていないようだった。
結局甚太としていたような話は一切出来ず、今日という日も終わってしまった。
世間では、石油価格高騰とか、ゾウへのご褒美が盗まれたとか、海外で海賊が暴れているとか、いろんなニュースがあるけども、うちの家族は今もう兄貴のことでいっぱいいっぱい。
私は居間に麦茶を飲みに行った時に、お父さんは勿論仕事だし、お母さんはスーパーへ買い物に行っているこのタイミングで、兄貴の姿が家から消えていることに気付いた。ふと玄関の靴を見て気付いた。
どうやらこっそり玄関から出て行ったらしい。家の中はクーラーがついていて、過ごしやすい。兄貴は昔からクーラーへの執着がすごかった。つまりクーラーから離れてでもしたいことがあるということだ。
私は候補を二つに絞った。静子さんのクッキーが食べたいから駐在所か、また鍵を拾ってきて民宿黒田に行ったか、だ。
仮に静子さんのクッキーがほしくて駐在所に行ったのなら、室井さんがいるので危険なことにはならない。つまり私が行くべき場所は民宿黒田だ。
すぐに靴を履いて、民宿黒田に向かってダッシュし始めた。何でこんな夏休みの、クソ熱い日に急がないといけないんだ。本当にキツイ。こんなん獣過ぎるって、兄貴。
外は予想通りカンカン照りで、アスファルトの照り返しが私の足は勿論、アゴまで焼くような気がする。
蝉の声はどこにいても、まるで一匹に聞こえるくらいに、鳴き声をリレーして聞こえてくる。こんな沿道応援はいらない。
結構ヘロヘロで民宿黒田に着いたところで、案の定兄貴がいて、今まさに金庫の前で座って鍵を回している時で、正直私はその鍵が何の鍵かすぐに分かってしまったので、
「ダメだよ! 返しなよ!」
私は金庫の前でしゃがんでいる兄貴を蹴って押し倒すという判断をとったわけだけども、兄貴が開けるほうが先で、とは言え、私の蹴りも止まらないので、開けている兄貴を私は蹴って、兄貴は開けている扉に頭をぶつけるように軽く吹き飛んだ。
ちょっと乱暴だったかと思いつつ、兄貴を見てから、金庫の中に入っているソレを見ると「あ!」と叫んでしまった。
案の定”下着”だったわけだけども、紫のセクシーなレースの下着で見てるこっちが恥ずかしくなるようなモノだったのだ!
「兄貴! 女風呂のロッカーの鍵なんてよくパクってくるね!」
すると兄貴は頭を押さえながら、
「乱暴女、撲滅だろ」
と言って改めて、金庫の前にしゃがむと、小声で、
「ババアの下着じゃん」
と言った。
いやこれは多分、レースから察するに相当オトナな女性の下着だと思うけども、どうやら兄貴にとって紫色はおばさんの色らしく、一切触れようとしない。多分本当中学生のスポブラみたいのだったら触って喜んだんだと思う。
兄貴は下着を指差しながら、
「ちょうどいい、真奈、処理しといて」
「無理だよ! 私がこんなん持っていたら変じゃん!」
「いやでも俺を蹴った罰として、このババアのパンツ捨てといて」
だとしたら罰、結構軽めだなと思いつつ、
「嫌だよ、何かビニール袋に手を突っ込んで掴んで、掴んだ下着ごと裏返して自分で捨てればいいじゃん」
「ババアのパンツなんてキモいわ」
そんなことを言い合っていると、民宿黒田の店主・臼田さんがやって来て、
「どうしたんだい? また金庫を勝手に使ったのかい?」
兄貴は金庫の中を指差しながら、
「ババアのパンツが出てきたから、捨ててくれよ」
臼田さんはフフッと笑ってから、
「これはなんだい、銭湯のロッカーの鍵かい?」
兄貴はうんと頷き、
「そう、女風呂の」
臼田さんは口元を手で抑えながら、
「分かりました。僕が責任を持って、銭湯の鍵は返して、そちらのパンツも処理します」
私は内心ホッとした。私は私で正直あの銭湯のことが億劫になっているからだ。
あの番台さん、何でも頭ごなしに否定してくるから苦手なんだ。最初に昔話を聞く件で銭湯へ訪れた時、甚太のせいだけども、一緒にいる私や裕子のことも過剰に罵倒してきたし、そもそも私が『女風呂に入ったほうがいいよ』なんてけしかけるはずないだろ。
私と兄貴は歩いて帰ることになった。
その時に兄貴が、
「財布でも出てくるんじゃねぇのかと思ったのになぁ」
と言って、下着が目的じゃなかったんだと、何か少しだけ安心した。
女性の下着が目的だったら、もう犯罪者だからね、いや財布も犯罪者か。
兄貴はへッと笑うと、
「アイツ、あのパンツを絶対かぶるぞ」
「臼田さんがパンツをかぶるはずないでしょ」
「まあかぶるはかぶるわけだけども、ちょっくら浜辺のほうへ行ってくるかぁ」
「何で頑なにかぶるBETなんだよ、というか何で浜辺?」
「ひ! 久しぶりに海見たいんだよ!」
急にデカい声を出して何なんだと思ったけども、私は兄貴についていくことしか出来ないので、
「私、両親から兄貴のお守りしないといけないって言われてるからついていくね」
「いいって、そんなことぉ」
と邪魔そうに兄貴は言ったんだけども、結局身体能力は私のほうが上なので、ついていくことにした。
兄貴はチラチラこちらを見つつも、浜辺への道を歩いて行く。さすがに浜辺はこの町でも特徴的な場所なので、分かっているみたいだ。
浜辺。
浜辺といっても、あんま砂浜になっているところは少ない。そのため、ヤンチャな高校生とかが夜にだけやって来るみたいなところ。その結果、花火のカラが落ちている……のはまだいいとして、タバコの吸い殻とかも無限に落ちている。
ゴミ拾いの量を競う小学生たちにとって、この浜辺は取り合いになっている。浜辺を制すモノがゴミ拾いを制す、みたいな感じだ。
それとは別に漂流物もあるので、かなりゴミ拾いには適している場所だ。砂浜の他は岩場になっていて、一時期岩場に生息しているカメノテの乱獲がちょっとした話題になった。
結局近くでラーメン屋さんをやっている源内さんが犯人で、カメノテを秘密で出汁に使っていたら、甲殻類アレルギーの三好さんがそのカメノテで死にかけて、ちょっとした事件になった。三好さんは今も元気に大工をしているので、まあ今は笑い話だけども。源内さんも面の皮厚くまだやっているし。
私はボーッと水平線の向こうを見ている。兄貴は一体どこからやって来たのだろうか、そもそも本物の兄貴なのだろうか、あの水平線の向こうからやって来たんじゃないのか?
潮風は幾分涼しく、塩で腐食する装飾品も付けていないので、そういうことを気にすることもない、と思っていると、犬の散歩をしている裕子が脇を通った。