君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜

18 令嬢と町娘、薔薇と百合


 王太子邸の回廊は、いつもよりずっと冷たく感じられた。リリーは窓辺に立ち庭園を眺めていた。手にした茶器が、微かに震えている。先ほどメイドたちの噂話が聞こえてしまったのだ。

 『王宮では、アリーナ様が次の王太子妃になるのではないかって、ずっと噂されているそうですよ』
 『公爵家のご令嬢ですもの。殿下のお相手として申し分ないと、皆さんおっしゃっているとか』

 胸の奥が、きゅっと締め付けられた。初めての感覚だった。ノアを信じている。それなのに――公爵家の令嬢の名前を聞くだけで呼吸が浅くなる。彼女なら王宮のしきたりにも、舞踏会の場にも、完璧に馴染めるだろう。迷いなくノアの隣に立ち振る舞えるだろう。それに比べ自分は……。

 リリーは髪飾りに触れた。青い石の冷たさが指先に伝わる。自分より身分が高く、王宮にも馴染み、ノアの隣に立てる女がいる。その事実が、知らない間にリリーの自信を少しずつ削り取っていく。

 ◇

 ノアは気づいていた。夕食の席でリリーが箸を運ぶ手がいつもより遅いこと。問いかけに対する答えが一拍遅れたこと。けれどノアの瞳は、その微かな変化を見逃さなかった。

 リリーは普段、自分の感情を抑える。不満を口にすることもなく、不安を訴えることもない。ただ静かに耐える。その静けさが、今はどこか違っていた。

 何かを飲み込んでいる。言い出せない何かを、胸の奥に沈めている。
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