君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ノアは問い詰めなく、ただリリーの顔を見つめた。リリーはその視線に気づき、顔を上げた。ほんの一瞬、目が逸れた。

 ノアは静かに手を伸ばした。食卓の上を越えて、リリーの指先に触れる。

 「……リリー」

 リリーは顔を上げなかった。

 「何か……聞いたのか」

 問いは静かだった。ただ彼女の心の奥にあるものを、そっと掘り起こすような声。リリーの唇が微かに震えた。

 「……アリーナ様のこと」

 言葉が、かろうじて漏れた。それ以上は続けられなかった。続ければ、自分でも制御できない何かが溢れそうだったから。

 ノアはリリーの指を掌の中で、ゆっくりと包み込んだ。

 「アリーナ・ヴァイスベルクは、ただの公爵家の娘だ。政略の噂に過ぎない」

 断言する声には、一片の迷いもなかった。

 「俺の心にいるのは……君だけだ」

 一音一音に、揺るぎない意志が込められていた。

 「不安になったか」

 リリーの睫毛が、震えた。ノアの指が、リリーの髪に触れた。栗色の束をすくい上げ、耳の後ろへ梳くように流す。その指先の動き一つ一つが、言葉よりも雄弁だった。

 「どれだけ離れても……俺の想いは変わらない」

 「……ノア」

 「君だけだ」

 囁きが、額に落ちた。ノアはリリーの手を取った。そして自らの胸元へと導く。心臓に一番近い場所へ。

 「俺が欲しいのは、君だけだ」

 掌越しに伝わる力強い鼓動。トクトクと規則正しく脈打つ熱。これが自分のためだけに打っているのだと全身で理解した。

 リリーは涙目で頷いた。
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