君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
19 王太子の婚約者として
婚約を正式に発表する夜会を目前に控えた夜。リリーは鏡の前に立っていた。
鏡の中の自分が、別人のように見えた。淡い象牙色のドレス。栗色の髪は結い上げられ、華奢な首筋が白く浮き上がっている。
扉が開く音はしなかった。ただ気配が変わった。リリーは振り返らなかった。鏡の中に、ノアが映っていたから。
鏡越しに交わる眼差し。
「……似合っている」
ノアの手が伸びた。指先が、結い上げられた髪の一房に触れる。ゆっくりと、壊れ物を確かめるように。栗色の束が長い指の間を滑る。
指先が髪から離れ、今度は耳の輪郭を辿るように下りていく。柔らかな耳たぶ。その下の顎の曲線。首筋へ。指先が鎖骨の窪みに触れた瞬間、背筋を熱いものが走った。
「何度も……手を離した。背を向けた。帰るべき場所へ戻った」
深い青の瞳が、鏡越しでリリーを捉えて離さない。
「そのたびに……君を夢に見ていた」
リリーはゆっくりと振り返った。
「……私も」
ノアの胸元に、そっと手を添える。
「あなたが離れていくたびに……この手の温もりだけを覚えていた」
ノアの手がリリーの肩を引き寄せる。
「明日、婚約を皆に告げる」
ノアの唇が、リリーの額に触れた。そこから鼻筋へ。頬へ。柔らかく、温かく、確かな感触。唇が、触れるか触れないかの距離で止まった。熱い吐息が混ざり合う。
リリーは踵を伸ばし、自ら唇を寄せた。ノアは腕に力が込められた。唇が、深く重なる。