君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 結婚式までの日々は、砂時計の中を流れる砂のように、慌ただしく過ぎていった。リリーは、朝早くから深夜まで、マロンの指導を受け続けていた。歩き方一つ変えるだけで、背筋の角度や視線の向きまで、細かく修正される。

 「殿下の隣に立つのですから」

 マロンは常に言った。ただ形式を守るためではなく、ノアに相応しい女性になるためだと、リリーも理解していた。

 夜更け、リリーは客室で一人歩行練習をしていた。薄明かりの中、華奢な体が丁寧に動く。けれど足元がふらつきよろけた瞬間――扉が開いていたことに気づかなかった。

 「練習は明日でいい」

 耳元で低く囁かれると、リリーの肩がびくりと跳ねた。振り返るとノアが立っていた。

 「でも……まだうまくできなくて」

 「十分だ」

 ノアの手が伸び、リリーの腰に添えられた。

 ◇

 一方で、ノアもまた忙殺されていた。王太子としての政務に加え、結婚式の準備がある。宮中の儀礼長との打ち合わせや、式典の詳細確認出席貴族の選定と席次の決定。

 だがそれ以上にノアを苛立たせたのは、宰相ギゼルの動向だった。ギゼルは、表面上は恭順の意を示しながらも、裏で着々と手を回していた。リリーの出自を問題視する貴族たちを扇動し、婚姻の正当性に疑問を投げかける文書を流通させていたのだ。さらに、国王ルナールに対しても、諫言という名の中傷を繰り返していた。

 机の上にはギゼルが送ってきた諫言書が置かれている。筆致は丁寧だが、内容は傲慢だった。王太子たるもの身分に相応しい伴侶を選ぶべきだと。

 「……どこまで腐っておるのだ」

 低く呟く声には、怒りが滲んでいた。ハルバートが、静かに首を振った。

 「殿下、ギゼルは今まで多くの政敵をこの手で葬ってまいりました。油断なさらない方がよろしいかと」

 「分かっている」

 ノアは短く答えた。人質として五年間耐え抜いた男の瞳には、凍てついた決意が宿っていた。
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