君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
3 物置小屋の日々
南の空は、いつも灰色だった。リリーは朝早くに目を覚ますと窓の外を見るのが習慣だった。木枠の隙間から差し込む光は、決まって煤を含んだ鈍い色をしている。
「リリー、パンを焼いてくれ」
父の声が階下から聞こえる。リリーは寝台から起き上がり、粗末な木の階段を下りた。壁は煤で汚れ、床板はところどころ軋む。それでも父と弟の三人で暮らすには十分だった。
パンは昨日のうちに焼いておいた硬い黒パンしか残っていない。それでも、弟のトムは文句も言わずに食べてくれる。
「今日も市場に行くのか?」
トムが眠そうな目を擦りながら聞く。
「うん。昨日仕入れた野菜がまだ残ってるから」
リリーは微笑んだ。
母はもういない。五年前、リリーが九歳の時に家を出ていった。理由は今でもはっきりとは分からない。ただ、去り際に言った言葉だけがリリーの胸に深く突き刺さったまま残っている。
――『身分違いの恋をしてはいけない。どちらかが必ず壊れてしまうのよ』
あの時の母の表情をリリーは時々夢に見る。悲しみと諦めが入り混じった、それでいてどこか慈しむような眼差し。あれが母自身の経験から来る言葉なのか、それともリリーへの戒めなのか今となっては知る由もない。