君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ノアは館の入り口から、その光景を見ていた。距離を置いていた。あの空間は、家族だけのものだ。

 けれどリリーが振り返った。涙に濡れた緑色の瞳が、ノアを捉えた。

 「……ノア」

 手が伸ばされた。招くような手。

 石畳を踏む足音だけが響く。父が顔を上げた。ノアと目が合った。

 「……殿下」

 「お世話になりました」

 ノアは深く頭を下げた。王太子が平民に。けれどノアにとって、この父に頭を下げることは何よりも自然だった。

 「……娘を、ありがとうございました」

 トムも、ノアを見上げていた。少年の瞳には、純粋な尊敬が浮かんでいる。

 「……姉ちゃんを、幸せにしてください」

 「……必ず」

 ◇

 リリーの父と弟は、王都の郊外に用意された家に落ち着いた。白い石造りの小さな家。南の粗末な住居とは比べ物にならないほど快適で、それでいて質素な暮らしができる大きさだった。

 ハルバートが手配した。

 「家族が不自由なく暮らせるように」という短い一言に、ハルバートは即座に応じた。

 父は王都の近郊で職を得た。トムは学校へ通い始めた。

 リリーは週に一度、父と弟を訪れる。ノアの許可を得て、護衛を連れて。最初は馬車で、やがてはノアと共に騎馬で。訪問の帰り道、リリーは馬上で呟いた。

 「……トム、大きくなった」

 声に涙が滲んでいた。

 「……あの子、一生懸命勉強してるって」

 「ああ」

 「お父さんも……元気そうだった。少し痩せたけど、でも……元気だった」

 「ああ」

 夕暮れの街道を馬が歩く。風が二人の髪を揺らす。

 「ノア……ありがとう」

 ノアはリリーの腰に回した腕を、ほんの少しだけ強く引き寄せた。
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