君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
◇
ノアは傷が癒えるにつれ、物置小屋の中でできることを始めた。朽ちかけた壁の隙間を古布で塞ぎ、漏れた屋根を修繕する。王宮で袖を通すことしか知らなかった指先は不器用だった。それでも、リリーの生活を守るための作業は、彼にとって苦行ではなく願いのようだった。
夕暮れ時、リリーが冷え切った体を抱えて小屋に寄って来ると、決めてあった薪で小さな火が焚かれていた。湯気が立つスープ。粗末な黒パン。変わらない食卓。だがそこには、冷たい城では決して味わえなかった温もりがあった。
ノアは壁に背を預けたまま、外の気配を探っていた。リリーはもうすぐ帰ってくるはずだ。市場での商売を終え、あの細い肩に籠を背負ってこの路地裏を歩いてくる。彼女の足音。扉を開ける軋み。そして「ただいま」と告げる柔らかな声。それだけのことが、ノアの心臓を早鐘のように打たせた。
たかが数日。見ず知らずの少女に世話されただけで、これほどまでに心を揺さぶられるなど。王族としての誇りも冷静さもかなぐり捨てて、彼女の帰りを指折り数えて待つなど。
木戸が軋む音が響いた。
「旅人さん、起きてる?」
リリーが顔を覗かせる。夕暮れの光を背負い、その輪郭が淡く発光しているように見えた。華奢な肩にかけた籠の中には売れ残った野菜が数個。汗と土の匂いが微かに漂う。
ノアは無言で頷いた。リリーは籠を下ろすと、手際よく夕餉の支度を始めた。その一つ一つの動作が、ノアの視界に焼き付いて離れない。
(視線が……外せない)
ノアは拳を握りしめた。指先が白くなるほど力を込める。この衝動は何だ。ただ見つめるだけでなく触れたい。ただ見つめるだけでは足りないほど、彼女のそばにいたい。言葉にできない想いが、胸の奥で大きく膨らんでいた。
ノアは傷が癒えるにつれ、物置小屋の中でできることを始めた。朽ちかけた壁の隙間を古布で塞ぎ、漏れた屋根を修繕する。王宮で袖を通すことしか知らなかった指先は不器用だった。それでも、リリーの生活を守るための作業は、彼にとって苦行ではなく願いのようだった。
夕暮れ時、リリーが冷え切った体を抱えて小屋に寄って来ると、決めてあった薪で小さな火が焚かれていた。湯気が立つスープ。粗末な黒パン。変わらない食卓。だがそこには、冷たい城では決して味わえなかった温もりがあった。
ノアは壁に背を預けたまま、外の気配を探っていた。リリーはもうすぐ帰ってくるはずだ。市場での商売を終え、あの細い肩に籠を背負ってこの路地裏を歩いてくる。彼女の足音。扉を開ける軋み。そして「ただいま」と告げる柔らかな声。それだけのことが、ノアの心臓を早鐘のように打たせた。
たかが数日。見ず知らずの少女に世話されただけで、これほどまでに心を揺さぶられるなど。王族としての誇りも冷静さもかなぐり捨てて、彼女の帰りを指折り数えて待つなど。
木戸が軋む音が響いた。
「旅人さん、起きてる?」
リリーが顔を覗かせる。夕暮れの光を背負い、その輪郭が淡く発光しているように見えた。華奢な肩にかけた籠の中には売れ残った野菜が数個。汗と土の匂いが微かに漂う。
ノアは無言で頷いた。リリーは籠を下ろすと、手際よく夕餉の支度を始めた。その一つ一つの動作が、ノアの視界に焼き付いて離れない。
(視線が……外せない)
ノアは拳を握りしめた。指先が白くなるほど力を込める。この衝動は何だ。ただ見つめるだけでなく触れたい。ただ見つめるだけでは足りないほど、彼女のそばにいたい。言葉にできない想いが、胸の奥で大きく膨らんでいた。