君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
◇
雨がようやく上がり、久しぶりに夜空が覗いた。二人は小屋の裏手にある古井戸のそばに並んで座っていた。
沈黙が心地よかった。言葉を交わさずとも、肩が触れ合うほどの距離に彼女がいる。それだけで凍てついた心が少しずつ溶かされていく気がした。
彼女は時折、小さな鼻歌を歌うことがあった。それは子守唄のような、どこか物悲しくも温かい旋律だった。か細いけれど澄んだ声が夜気に溶けていく。決して上手な訳ではないが、不思議と心落ち着くメロディだった。
ノアが視線を送ると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「お母さんがね、よく歌ってくれたの。思い出しちゃって」
ノアは息を止めて聞いていた。かつて白い宮殿で耳にした荘厳な楽曲とは違う。心の琴線に触れる素朴な響きが、胸の奥底まで浸透し、封印していた感情を揺さぶった。
(俺は……生きていてよかったのだ)
彼女の歌を聴き、星明かりの下で息をしている今この瞬間だけは、そう思えた。歌い終えたリリーが恥ずかしそうにノアを見上げた。
「変だった?」
ノアは首を横に振った。
「……綺麗だ」
その言葉は歌に対してなのか、彼女自身に対してなのか、自分でも分からなかった。ただリリーの頬がほんのりと朱に染まるのが見えた。
月明かりに照らされたその横顔を見つめながら、ノアは胸の奥で激しい葛藤と戦っていた。
(この幸福は永遠ではない)
敵国の人質王子。正体が知れれば彼女はどう思うだろうか。彼女を巻き込みたくなかった。同時に、真実を知ればこの優しい手は離れてしまうかもしれない、という恐怖があった。
リリーの肩が夜風に震えた。ノアは無言で自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。驚いて見上げる緑色の瞳と深い青の瞳がぶつかり合う。
「……冷える」
指先が触れそうな距離。その一ミリが永遠のように遠く同時に、致命的にもろい壁であることを知っている。それでも抑えきれない鼓動が、ノアの中で膨らんでいた。
たとえこの想いが身分違いという名の絶望に潰されようとも、もう彼女から目を逸らすことはできなかった。
雨がようやく上がり、久しぶりに夜空が覗いた。二人は小屋の裏手にある古井戸のそばに並んで座っていた。
沈黙が心地よかった。言葉を交わさずとも、肩が触れ合うほどの距離に彼女がいる。それだけで凍てついた心が少しずつ溶かされていく気がした。
彼女は時折、小さな鼻歌を歌うことがあった。それは子守唄のような、どこか物悲しくも温かい旋律だった。か細いけれど澄んだ声が夜気に溶けていく。決して上手な訳ではないが、不思議と心落ち着くメロディだった。
ノアが視線を送ると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「お母さんがね、よく歌ってくれたの。思い出しちゃって」
ノアは息を止めて聞いていた。かつて白い宮殿で耳にした荘厳な楽曲とは違う。心の琴線に触れる素朴な響きが、胸の奥底まで浸透し、封印していた感情を揺さぶった。
(俺は……生きていてよかったのだ)
彼女の歌を聴き、星明かりの下で息をしている今この瞬間だけは、そう思えた。歌い終えたリリーが恥ずかしそうにノアを見上げた。
「変だった?」
ノアは首を横に振った。
「……綺麗だ」
その言葉は歌に対してなのか、彼女自身に対してなのか、自分でも分からなかった。ただリリーの頬がほんのりと朱に染まるのが見えた。
月明かりに照らされたその横顔を見つめながら、ノアは胸の奥で激しい葛藤と戦っていた。
(この幸福は永遠ではない)
敵国の人質王子。正体が知れれば彼女はどう思うだろうか。彼女を巻き込みたくなかった。同時に、真実を知ればこの優しい手は離れてしまうかもしれない、という恐怖があった。
リリーの肩が夜風に震えた。ノアは無言で自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。驚いて見上げる緑色の瞳と深い青の瞳がぶつかり合う。
「……冷える」
指先が触れそうな距離。その一ミリが永遠のように遠く同時に、致命的にもろい壁であることを知っている。それでも抑えきれない鼓動が、ノアの中で膨らんでいた。
たとえこの想いが身分違いという名の絶望に潰されようとも、もう彼女から目を逸らすことはできなかった。