君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 翌日。雨痕をあいまいに残した空気の中、ノアは小屋を後にした。身体に残る傷はなおも疼いていたが、歩行を阻むほどではない。

 市場へと向かうリリーの姿を確認すると、彼は息を殺して、その跡を辿り始めた。彼女が生きる世界を、触れ合う人々の姿を、どうしてもこの目に焼き付けておきたかったのだ。

 煤煙と汗の匂いが充満するその場所で、リリーは小さな露店を開いていた。値段交渉をする屈強な男に対しても、嫌な顔一つせず真摯に向き合っていた。

 (あんな笑顔を……他の男に向けるのか)

 そう自覚した瞬間、ノアは自身の浅ましさに目眩を覚えた。

 その時隣の露店の男がリリーに近づいた。がっしりとした体躯に人懐っこい笑顔を見せる男はリリーの耳元で何か囁いた。

 「……ッ」

 だが一歩踏み出したところで足が止まった。正体を隠した見知らぬ男が彼女を守るなど、おこがましいにも程がある。

 (俺には……権利がない)

 拳を震わせノアは闇の中へと身を引いた。
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