君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
第二章 別離
5 正体を隠したまま、最後の抱擁
リリーは市場で野菜を売りながら、胸の奥で言いようのない不安を抱えていた。昨夜のノアの表情。言葉にならない想いを必死に飲み込んでいたあの顔。
(……もうすぐ、いなくなる)
分かっていた。傷が治れば去る。旅人なのだから。だが分かっていることと、受け入れることは別だった。
昼過ぎ、市場に見慣れない男たちが現れた。背丈は高く、革の上着を着込み、腰には短剣を差している。男たちは市場の人々に何かを尋ね回っていた。
「金髪の少年を見なかったか」
「怪我をした男を知らないか」
あの人は追われているのだ。正体を隠し、「旅人」と名乗った理由が、今明らかになった。彼は逃亡者で、追っ手が迫っている。
もし自分が彼を匿っていることが知られれば――父や弟にまで危害が及ぶかもしれない。それでも、脳裏に浮かんだのは、あの雨の夜に見た彼の姿だった。怖かったけれど、見捨てることができなかった。
リリーは震える手を握りしめ、物置小屋へ続く道を振り返った。