君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 その夜。空は雲一つなく、珍しく星が見えた。小屋の裏手にある古井戸のそばに座り、膝を抱えていた。

 ここにいれば、いずれ追っ手が見つける。それだけは、何としても防がなければならない。足音が聞こえた。静かで、リリーの軽い足音。

 ノアは振り向かなかった。背後から近づく気配だけで、胸が熱くなった。

 彼女が隣に座る気配がした。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離。沈黙が降りた。

 「……傷は」

 「だいぶ良くなった」

 ノアは短く答えた。それきり、沈黙が戻った。星空を眺めながら、二人はただ並んで座っていた。

 アッシュワ工業連邦の空は煤煙で濁っているが、それでも夜空の端々に瞬く星々だけは地上を見下ろしていた。路地裏の古井戸のそばに並んで座る二人の肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離。

 ノアは、隣にいる少女の横顔を盗み見た。月明かりに照らされた輪郭が、淡く発光しているように見える。

 (……もうじき終わる)

 ノアの胸の奥で冷徹な声が囁く。追っ手は市場にまで迫っている。あと数日もすればこの路地裏も洗いざられるだろう。父や弟にまで危害が及ぶかもしれない。

 「……星が見えるね」

 彼女の声は細いが澄んでいて夜気に溶けていく。

 「アッシュワでもたまに見えるの。工場の煙がない夜だけ」

 ノアはぽつりと呟いた。

 「……綺麗だ」

 リリーはふと顔を向けた。ノアの横顔を見つめる。冷たい夜気の中で、彼だけが熱を帯びているように見えた。
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