君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 「ッ……」

 今、彼女を連れ去ればどうなるか。平穏な日常も、家族も、すべて失わせることになる。

 (俺は……彼女を壊してしまう)

 愛しいからこそ、手放せない。愛しいからこそ、手放さねばならない。

 彼女の顔が見えるように、わずかに体を離す。星空の淡い光が、リリーの頬を照らしていた。その緑色の瞳は潤み、長い睫に一雫の涙が掛かっている。星屑のように美しく、そして痛々しい。

 ノアは震える手で、彼女の頬に残る涙を親指で拭った。

 「……っ」

 告げたい言葉は多すぎて、喉の奥で絡まり合い、声にならない。いままでありがとうとも、さよならとも言えない。ただ、彼女の瞳をじっと見つめた。深い青の瞳に、彼女の姿を焼き付ける。

 ◇

 その時だった。路地裏の入り口、逆光の中に、大柄な男のシルエットが浮かび上がった。朝の光を背負ったその影は、圧倒的な存在感をもって静寂を打ち砕いた。

 「殿下」

 北の外交官であり、ノアの臣下であるハルバート・クロイド。

 「お捜ししました」

 ただ、任務を遂行するという鉄のような意志だけが滲んでいる。長身の体躯から発せられる威圧感が、路地裏の狭い空間を埋め尽くす。

 逃げ場はないと。彼がここに現れたということは、この小屋の所在もノアの状況もすべて掌握されているということだ。人質逃亡の報せは既に城へ届き、そして最も忠実な番犬が放たれたのだ。

 ノアは無意識に彼女の肩を抱く腕に力を込めた。

 「……戻るのか」

 「当然です」

 ハルバートは一歩も引かぬ様子で答えた。その眼差しは主君を射抜いたまま微動だにしない。驚きのあまり息を呑んで立ち尽くしたリリーに対して、ハルバートはゆっくりと視線を移した。
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