君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 「……君がこの家の子だね」

 「……ッ!」

 ノアはリリーを背に庇うように前に出た。ハルバートに対して、かつてないほど、烈しい凄みのある眼差しを向ける。

 ーー彼女には指一本触れるな。

 もし彼女に危害を加えるなら、この場でお前を斬るとでもいうような純粋な威圧。王族としての威厳でも臣下への命令でもない、ただ一人の男としての必死な抵抗だった。

 ハルバートは一瞬目を見開いた。

 「……君の助けに、心から感謝する」

 ハルバートは短く言い残した。それから踵を返した。背中で語る帰還の合図。ノアは背後のリリーを振り返った。

 (……さよなら、リリー)

 告げることのできない別れの言葉。名前を呼んでもらったばかりなのに。温もりに触れたばかりなのに。

 ノアはゆっくりと歩き出した。一歩踏み出すたびに彼女との距離が開いていく。二度と埋められない溝が足元に広がっていくようだった。

 振り返りたかった。一目でもいいから、もう一度彼女の顔を見たかった。だが、振り返れば、もう二度と前を向けない気がした。

 朝日が昇り始めていた。路地裏に差し込む光がノアの背中を白く照らす。その背中は以前よりもずっと広く見えたけれど、どこか脆く頼りなく見えた。

 リリーはただ呆然と立ち尽くしていた。彼が触れた場所だけが未だに熱を持っているような気がした。

 『殿下』

 それはつまり――王族。

 『身分違いの恋をしてはいけない。どちらかが必ず壊れてしまうのよ』

 母の言葉が脳裏をよぎる。

 『俺にこれ以上関われば、君も巻き込まれる』。

 (……もう会えない)

 リリーは膝から崩れ落ちた。

 「……ノア」

 唇が微かに動いて名前を呼んだ。

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