君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
◇
月がない宵闇の中、ノアは要塞を抜け出した。身につけているのは、粗末な革の上衣と、煤で汚したズボン。プラチナブロンドの髪は帽子で隠し、顔には煤を薄く塗っている。王族としての気品は影を潜め、ただの平民に見えるよう工夫されていた。
供はハルバート一人だけ。影のように背後に控えつつも、決して近づきすぎない距離を保っている。工場地区へ続く道を歩く。あの日倒れ込んだ路地裏を通り過ぎる時、足が竦みそうになった。
小屋はもう空っぽだった。あの日、彼女が敷いてくれた藁も包帯も痕跡さえ残っていない。ただ埃っぽい匂いと、冷たい空気だけが残されていた。
誰もいない。当然だ。三年も経てば、彼女だって変わっているかもしれない。もうこの街にいないかもしれない。あるいは誰かと――思考がそこに至った瞬間、ノアは首を激しく振った。
路地裏を抜けた先、広場の手前で、ノアは足を止めた。その薄明かりの中、一人の少女が歩いていた。籠を背負った華奢な背中。肩まで伸びた栗色の髪が夜風に揺れている。
息が止まった。心臓が激しく波打ち、全身の血液が沸き立つような感覚。彼女だ。リリーだ。
十七歳になった彼女は、三年前よりも少しだけ大人びて華奢な輪郭に女性らしい丸みが加わっていた。だがあの穏やかな空気感や、歩く姿勢は変わっていない。
ノアは、震える手で帽子を深く被り直した。見つかりたくないわけではない。だが、いざ直面すると、恐怖が先行した。
自分を見て、彼女はどう思うか。驚くだろうか。それとも恐れるだろうか。
それでも――
足は勝手に動いていた。彼女の方へ一歩近づくごとに、胸の奥で凍てついていた何かが溶け出していくようだった。
リリーは広場の端にある石階段のそばで、足を止めた。
月がない宵闇の中、ノアは要塞を抜け出した。身につけているのは、粗末な革の上衣と、煤で汚したズボン。プラチナブロンドの髪は帽子で隠し、顔には煤を薄く塗っている。王族としての気品は影を潜め、ただの平民に見えるよう工夫されていた。
供はハルバート一人だけ。影のように背後に控えつつも、決して近づきすぎない距離を保っている。工場地区へ続く道を歩く。あの日倒れ込んだ路地裏を通り過ぎる時、足が竦みそうになった。
小屋はもう空っぽだった。あの日、彼女が敷いてくれた藁も包帯も痕跡さえ残っていない。ただ埃っぽい匂いと、冷たい空気だけが残されていた。
誰もいない。当然だ。三年も経てば、彼女だって変わっているかもしれない。もうこの街にいないかもしれない。あるいは誰かと――思考がそこに至った瞬間、ノアは首を激しく振った。
路地裏を抜けた先、広場の手前で、ノアは足を止めた。その薄明かりの中、一人の少女が歩いていた。籠を背負った華奢な背中。肩まで伸びた栗色の髪が夜風に揺れている。
息が止まった。心臓が激しく波打ち、全身の血液が沸き立つような感覚。彼女だ。リリーだ。
十七歳になった彼女は、三年前よりも少しだけ大人びて華奢な輪郭に女性らしい丸みが加わっていた。だがあの穏やかな空気感や、歩く姿勢は変わっていない。
ノアは、震える手で帽子を深く被り直した。見つかりたくないわけではない。だが、いざ直面すると、恐怖が先行した。
自分を見て、彼女はどう思うか。驚くだろうか。それとも恐れるだろうか。
それでも――
足は勝手に動いていた。彼女の方へ一歩近づくごとに、胸の奥で凍てついていた何かが溶け出していくようだった。
リリーは広場の端にある石階段のそばで、足を止めた。