君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 リリーは石階段に手を置き、夜空を見上げていた。アッシュワの空はいつも煤けているけれど、稀にこうして綺麗な夜がある。三年前も、こんな夜だった。

 (……まだ、忘れられないのかな)

 自分に問いかけて、苦笑する。踵を返そうとした、ふいに気配を感じた。それは三年前市場の喧騒の中で何度も感じた、あの感覚に似ていた。

 振り返ってはいけない。振り返れば、また期待してしまう。もう何百回と繰り返した空振りだ。だが、身体は勝手に動いた。

 街灯の薄い光の輪の外側。宵闇に溶けかけた影が、一人、立っていた。

 労働者だろうか。いや、違う。この街の労働者は、あんなふうに立ちはしない。あんなふうに、静かに、張り詰めた空気を纏って立ちはしない。

 (……まさか)

 リリーの心臓が、一拍、大きく跳ねた。

 影は動かなかった。ただ、こちらを見ている。視線だけが、夜気を裂いて届いていた。熱く、鋭く、それでいてどこか縋るような眼差し。

 男が、一歩、踏み出した。街灯の光の輪の中へ、ゆっくりと足を進める。その歩き方に見覚えがあった。痛みを堪えてそれでも背筋を伸ばして歩く、あの姿勢。傷口を押さえながら、路地裏を一緒に歩いた夜の記憶が鮮烈に蘇る。

 「……」

 リリーの喉から、息が漏れた。言葉にならない。ただ、空気だけが震える。
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