君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ノアは、ゆっくりと顔を上げた。リリーの顔を、至近距離で見つめる。潤んだ緑の瞳が変わらず、まっすぐに自分を見つめてくる。

 「……一目だけでいいと思っていた。君の顔を見たかった。それだけで……」

 「……私も、ずっと会いたかった」

 リリーの声が小さく、けれど、はっきりと。

 「忘れようとしても、忘れられなかった。ずっと……あなたを探してた」

 自分だけが彼女を想っていたのではない。その事実が、胸を満たすほど嬉しくて――同じくらい、苦しかった。

 「……帰らなければならない」

 ノアは、掠れた声で告げた。彼女を、守るため。彼女を、壊さないため。それが、自分にできるたった一つのことだった。

 リリーの指先が、ノアの服をそっと掴んでいる。

 「……もう少しだけ、ここにいて」

 ようやく会えたのに、また何も言わずに失うなんて――耐えられない。ほんの少しでいい。何も約束しなくていい。ただ、この腕の中にいる時間だけを、もう少しだけ。

 ノアの腕が、彼女の背中で強張った。彼女の体温が、服越しに伝わってくる。

 「俺は……君を壊してしまう」

 リリーは、ノアの胸に額を押し当てたまま、静かに息をしている。その沈黙が彼女の答えだった。

 ノアは、深く息を吸った。この一瞬だけでいい。そう思った。星が、煤けた空の隙間で静かに瞬いていた。

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