君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
7 幼馴染のパンと、王子の髪飾り
朝の市場は、まだ眠っていた。露店の板が並べられ、店主たちが黙々と準備を始める時間。リリーは自分の席の木箱に腰を下ろしたまま、動かなかった。
籠の中の野菜を出す気力さえ出なかった。昨夜のことが、まぶたの裏から消えない。帽子の下から覗いた深い青の瞳。煤で汚れた頬に触れた時、指先から伝わった温もり。
抱きしめられた。三年前と同じように、いや、三年前よりもずっと強く、必死に。粗末な革の上衣を掴んだあの感触が、手のひらに残っている。
(……夢じゃ、なかったよね)
確かに彼はそこにいて、名前を呼んで、抱きしめてくれた。
「少しだけ」と囁いたあの声が、耳の中で反響し続けている。
リリーは膝の上で拳を握りしめた。
(壊れてしまう……)
三年前、彼が去った日から。あの星空の下で名前を呼ばれた瞬間から。胸の奥で何かが砕け、その破片が心臓に突き刺さったまま抜けない。
忘れようとしても、忘れられなかった。誰の誘いも断り、誰の傍にも行かなかった。彼がいつか戻ってくると信じていたわけではない。戻ってこないと分かっていても、他の誰かを選ぶことができなかった。
会えば、離れる。触れれば、離さなければならない。名前を呼べば、二度と呼べないかもしれない。それなのに――離れたくない。
昨夜、自分が口にした言葉が恥ずかしくて、リリーは目を伏せた。いつもなら、相手のために自分の気持ちを飲み込むのに。彼の立場を考えて、身を引くのが正しいのに。
胸の奥が空っぽで、何をしても埋まらない。
市場の店主たちの呼び込み声が少しずつ聞こえ始める。日常が動き出す。リリーの世界も、また動き出さなければならない。けれど、座ったまま動けなかった。